本日の御題:犯罪心理と教育
◆凶暴化・短絡化する少年犯罪は感情の欠如によって引き起こされる
 つい最近の事件だ。千葉で男子中学生が妹の東部を金属バットで殴りつけるという事件が起こった。実の妹をバットで殴るという だけでも十分ショッキングであったが、その理由を聞いて私は背筋が寒くなった。少年は自室でインターネットをやっていたらしい。 そして殺人に関するページにアクセス、「自分も殺人をしてみたくなった」ために、 一番近くにいた「誰でもよい」被害者を見つけ出し、そして殴りかかったのである。

 なぜそんなことが起こったのか? 中学生であればやっていいことといけないことの区別は十分年頃である。しかし、まるで道端に落ちている 10円玉を蹴飛ばすような感覚で、彼は妹をあわや殺す行動に出たのである。なぜか?
 私には思い当たる節があった。彼には私が感じたような「背筋が凍るような感覚」がおそらく起こらないのだ。自分の無二の妹を殺害するのに 誰もが納得いくような十分な理由が必要なかったのは、まさに「肉親に死なれることの悲しさ、辛さ」 を知らないからであろう。そのために、罪悪感が沸いてこないし、(仮に)殺人を犯したいという衝動に駆られたとしてもそれはつまり罪もない人の かけがえのない命が実際になくなる事実ことから生じる恐怖・悲しみを想像することもできない。

 数年前であるが、無差別殺人を犯した少年がいた。彼は殺人がいけないことであることは知っていた。いや正確には教えられていた。しかし「なぜ人を 殺してはいけないのですか?」と警察に対して問い掛けたという。これを理屈で説明することは意外と難しい。たとえば最も悪いとされている殺人でさえ、 戦場では奨励される。
 また雄ライオンは度々別の雄がもっているハーレム(基本は1匹の雄ライオンと複数の雌ライオンからなる)を襲い、雄ライオンを 追い出してからハーレムに残る雄ライオンの子を片っ端から殺すという。母である雌ライオンは子供が殺されるまでは子供を守ろうとするが、 子供が死んでしまうとなんと自分の子を殺した雄に対して発情するという。
 人間界ではあれえないようなことであるが、ライオンたちにとってはそれが常識なのである。
 このように、人を殺すということが「絶対悪」であるといった結論は、理論的にはいくらでも覆すことができる。理論では正義と悪を 判断することなど本来できないのだ。なせなら、人が作り出した「正義」と「悪」はそもそも人の感情にその判断基準があるからである。

 人殺しが悪とされるのは悲しむ人がいるからであり、また復讐が復讐を呼ぶという結果を導き出すからである。一部の途上国で夫が複数の妻を 持つ事が許されるのは単なる性差別ではなく、医療設備が不完全な地域では男児の死亡率が高く、一夫一婦制では結婚できない一人寝の成人女性が 多くなってしまうための救済処置である(*)。物を盗んではいけないのは、それを許せば治安が悪くなるからであり、むやみに人を傷つけることを 悪と決めたのは無用な争いごとを未然に防ぐためである。

(*)複数の妻を持った男は、第一夫人/第二夫人に関係なく平等に愛さなければならない、と決まっている。

 しかしそれはおそらく、普遍的な悪ではない。人がそう決めただけの話である。ではなぜそう決めたのか? 人間の感情がそれらに対して「嫌悪」 を感じるからだ。もし人が集団で生活することを嫌い、争いごとを好む生物であったなら、おそらく殺人は戦争時がそうであるように称えられたはずである。

 そして事件を起こす少年少女たちに決定的に足りないのは、この「嫌悪」を感じる心であると私は思う。
 これがないために、蛙や蟻を殺すのと同じような感覚で、妹を殺そうとすることができたのではないだろか? 虫も人も命の重さが同じなら、 人殺しが犯罪になり蟻殺しが笑いネタになるのは、つまり「嫌悪」の感情が芽生えるかどうかにかかっているのである。

 現在、教育の質の低下が嘆かれている。しかし、教育の最も基本的な部分、善悪の判断や感情の育成は本来家庭で行うべきことではないだろうか。 それを学校に任せるというのは親として失格ではないだろうか? そして「嫌悪」の感情を育てるには「愛情」が必要であると 私はここで強く言いたい。

◆施設任せで感情が育つとは思えない
 欧米型自由主義は現在正しいこととして誰もが認識しているところではあるが、私はよく社会を大きく歪ませる一因を作っているのではないかと疑うことがある。 というのも、欧米型自由主義が根付いたところには、国家的な犯罪は監視されたかもしれないが、教育の荒廃やそれまでなかったような理由なき凶悪犯罪 (猟奇的とでも言うべきだろうか?)の影が、日本に限らず問題になっている地域が多いからだ。
 原因はどこにあるのか? 殆どの国で共通していることは、経済的繁栄と基本的人権の尊重は女性の社会進出を生み、核家族化を生んだことである。 それそのものは決して悪いとはいえない。しかし、この両者が一致したとき、子供達の世界に大きな変化が生じたのは紛れもない事実である。 生後間もない子供が施設に預けられ、その後は学校に通い鍵っ子として育っていくことになったのだ。
 それは親にとっては育児から開放されるというメリットがある。親にも自分の人生があるのだから素晴らしいことであるとも言われる。 しかしだからといって、全く何の自己犠牲もなく子育てができるということも間違いではないか。自立していない未熟な状態の子供を生み育てることになれば、 どうしてもしたいことを我慢する必要性が生じるものだ。

 最近では、科学的に幼少時代はその後の感情を左右する重要な時期であることがわかっている。親が子供の目を見て笑うと子供も真似をして笑い顔をする。 親が舌を出すと子供も舌を出す。それが親子で始めてのコミュニケーションだ。母親が我が子を抱きかかえることがなければ母性のスイッチ が入らないのと同じように、子もまた親に抱きかかえられなければ愛情というものの存在を理解できない
 確かに施設ではおむつを換え、ミルクを飲ませてくれるだろう。しかしそれは他の幼児と平等であって自分だけに愛情が注がれているわけではない。 それを期待できるのは両親・肉親だけだ。子供の頃に誰でも一度ぐらい聞いたことがあるであろう「お父さん(お母さん)は世界で誰が一番好き?」という 問いかけは施設では禁句だ。

 もちろん、施設に預けることが即感情が未発達な子供をうむわけではないのは事実だ。孤児院で育った人が決して愛情を知らない大人になるわけでもない。 要は「求める愛情を幼少時代に受け取ることができたかどうか」である。もし核家族で共働きをするならば、「両親」はそうでない親以上に 一緒にいられる時間にスキンシップを図らねばならないことを自覚すべきである。

 また、核家族化も子育てに関してはマイナスであることは周知のとおりだ。初めて母親になった女性は近くに相談できる人がいないために育児に悩み ノイローゼになってしまうことが多々あるという。昔は親と同居することが多く知らないことは親から教わることができたし、近所付き合いも今より 親密であったため尋ねることができた。しかし現在は、特に都市部においてはそれは難しい。
 また、女性もバリバリ働く時代である。夫と家事を分担するとしても相当な負担が圧し掛かるのは避けられない。
 もし、親と同居あるいは近場に住んでおり預けることができたなら、仕事以外でも家を空けなければならない場合(友達の結婚式や長期の旅行でもいい) に気軽にお願いできる。引き取り時間に制限はなく、もちろんコストもかからない。孫となれば、保母さんよりも子供に注がれる愛情は大きいのが常だろう。

 私は、子育てに関し、幼児のうちは保育施設、その後は学校に任せきり、預けきりという方法には反対である。ただ飯だけ食わせておけば親の責任を 果たしているというのは親の身勝手な論理ではないだろうか。必要なのは、子供に愛情が注がれる環境を作ることである。単に施設の数を 増やせばいいという話ではない。

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