本日の御題:競争を教えない日本の教育
◆競争時代
 競争のない時代など、生命が存在してからというもの一瞬たりとも存在しないのではないだろうか?  最近になって「競争時代」という言葉が俄かにともてはやされているが、それは正確に言えば 国という「枠」が取っ払われたということに他ならない。
 米国を初めとする多くの国が、冷静終結後自由貿易を正義とするようになった。日本も例外ではなく、その荒波から呑まれる ことになった。米国の知的所有権という武器、中国の安価な労働力という1990年代からの新しいパワーは、 バブルがはじけた直後の日本の経済に深刻なダメージを与えた。

 それまで「勝ち組」「負け組」は業界単位では存在したが(たとえば造船業界、家電業界、自動車業界など)、各業界内ではほとんど 存在しなかった。少なくとも大手においては、銀行然り、メーカー然り、花形の業界に位置してすれさえすれば、ブランドだけで 食っていけたのである。

 しかし、今やその構図は崩れてしまった。ごくごく最近、一週間ほど前の話だが、「勝ち組」の急先鋒であったソニーが 30歳以上の希望退職者を募り始めた。以前は35歳以上であったが、今回はさらに若手にまで範囲を広げたことになる。「リストラ」 というバブル前には日本には存在しなかった行為は、社内での社員同士の過酷な競争も生み出した。
 それが悪いことだとは私は決して言わない。ただ、「この会社に入ったら死ぬまでお世話になる」という今にして思えばユニークな 考え方は姿を消し、「会社に残りたければ他者よりも結果を出すこと」を要求されるようになったのである。

◆競争を教えない学校教育
 しかし、こと学校教育に関しては時代と逆の方向に向かっているように思えてならない。
 私が中学生の頃は北辰テストなるものがあって、全国規模で自分の学力が「偏差値」という形で評価されたものである。 偏差値は、全体の集合に対して自分の位置が真中ならば50、真中よりも上ならば離れていればいるほど数字は高くなり、 逆に真中よりも下ならば25を最低として50よりも小さい数字で表わされる。
 この偏差値が日教組の槍玉にあがったのは、相対評価であるからたとえすべての人が頑張ったとしても「1位」も生まれれば「100位」 も生まれるため、必ず一定の割合で「落ちこぼれ」が発生してしまうという理由であった。
 確かに理屈は正しいが、それは集団化した人の本質を表していない。数万、数十万人の人間が等しく頑張るということはありえず、 偏差値が低かった人間はそれなりの努力しかしていなかっただけの話なのである。
 しかし、そういった現実を無視し、子供を数値で一律に評価することは好ましくないという理由で偏差値を使用しなくなった現在の 学校教育は、「過保護」と「理想主義」に蝕まれ、「競争」という社会に出た時に最も必要になる要素を全面的に否定している。
   何も偏差値だけではない。最近の学校では体育祭や運動会でも順位をつけないことが珍しくないんだとか。オリンピックの精神に則り、 「参加することに意味がある」ということらしいが、本場オリンピックに参加している人間が誰一人として「参加することに意味がある」 と思っていないことからしても、この考え方は正論であって正解ではないと言えるだろう。つまり個々の能力を伸ばすためには目標が必要であり、 その目標は頑張って一位をとり誉められることでもあれば、頑張らなかった者、普段負けている者を打ち負かすという喜びでもある。つまり、 総じて「競争」なのである。

 しかも、このように過保護にして育てられた子供たちは、おそらく社会に出た時に大きなストレスを感じるようになるだろう。それまで 正しいとされてきた「競争なき和気藹々(わきあいあい)主義」はどこにもなく、厳しい社会の荒波だけがそこにあるという状況に 陥るのだから。

 この世から競争がなくならない限り、教育の場からも競争をなくしてはならない。それが私のポリシーである。

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