本日の御題:有事法制と危機管理
◆拉致問題と核開発、そして万景峰
 歴史の流れが大きく変わるときというのは、それを象徴する存在が必ずあるものだ。例えばソビエト連邦が崩壊した直接のきっかけは ゴルバチョフ大統領の幽閉であった。実効支配能力がすでに失われている事が、国内外に知れ渡ってしまったため、その後急速に連邦は解体した。
 ルーマニアのチャウシェスクがクーデターによって殺害されたときもそうであった。支持者ばかりを集めた集会で退陣を求める声が 一斉に鳴り始めたことは、それまで反逆罪を恐れ心の中でだけ反抗していた人々に反政府が決して自分だけの意志ではないことを人々に知らしめ、 政府を転覆させることができるという自信を与えた。

 そして今回の北朝鮮の核開発と万景峰(マンギョンボン)92号の問題は、眠れる獅子であった日本の目を覚ませるのには十分にスパイスの効いた出来事であった。
 これまで、万景峰に限らず日本政府は北朝鮮に対してとても卑屈であった。外交関係にない北朝鮮の施設に対して他国と同等の地位を与え、 課税することはなかった。北朝鮮の船籍についても、日本海で度々目撃されていたにもかかわらず、あえて実力行使に出る事も殆どなかった。
 戦前の負い目があることもあり、日本政府はよく言えば極めて寛大な、悪く言えば無責任なほどの放任な態度でかの国と関わってきたのである。

 しかし、拉致問題から始まる一連の問題が明るみに出た事で、もはや普通の国にならなければいけないことを国民も政治家も認識するに至った。 これまでのような形式的な圧力や声明での厳重注意ではない。例えば今月入港予定だった万景峰に対して徹底した検査を計画していたのは勿論の事、ほぼ毎日のように 北朝鮮の船を受け入れている京都府の舞鶴港から出航しようとした船に対しても、6/10に同様の立ち入り検査を実施したことからも、これまでとは全く対応が 異なる事が窺える。
 憲法解釈ではないが、保持しているが行使できなかったこれらの徹底した検査の権利を、ようやく政府は行使する決意を固めた、その意義は非常に大きい。
 たとえ韓国の大統領が訪日中であったとしても、遠慮することなく万景峰に対して検査を行う姿勢を持ち、また直前に有事関連法案を通した事は これまで外国の顔色を窺うばかりだった政府の姿勢とは大きく異なり、日本に住む全ての人の安全保障にとってよい方向に進んでいるといえる。

◆安全保障を論じる事自体をタブーにしてはいけない
 それでもなお、今回の有事法制に反対している政党がある。名前はあえて挙げなくとも分かるであろう。戦後一貫して「安全保障」をタブー視してきた 人々の集まりである。
 彼らの言葉は戦後60年弱、一貫して変わりない。安保=戦争への参加=海外派兵=軍国主義の再来である。それをただ一つの真理として盲信している様は、 ある意味危険な宗教のようだ。しかし、太陽政策を敷いているお隣の韓国でさえ、北朝鮮の核開発問題以降、自前のミサイル防衛システムの整備に 力を注いでいく姿勢をあらわにしている。
 そう、国民の安全を保障する責任を負う政府にとって、それは当然の行動なのだ。それは先進国も発展途上国も、資本主義国も社会主義国も変わりない。 西も東もなければ北と南の違いもない。全ての国の政府が頭をひねって日夜考えている事が国家の安全保障なのである。
 国民の生命を守るという最も基本的なことさえ考えられない彼ら2つの政党の政治家たちは、政治家を名乗る資格すらそもそも有していないのではないかとさえ 私は思う。
 そう言う意味では、民主党、自由党といった野党まで可決に回ったことを私は評価したい。一部ではオール与党などと非難されているが、これまでの与野党とは 対立軸が異なってきただけだと私は考えている。つまり、自衛隊の合憲・違憲といった不毛の議論から、構造改革や経済といった問題へ時代とともに対立軸が 変化しただけなのである。
 実際、それらの議題では、自民VS民主という構図は民主党が野党第一党になって以来続いている事である。
 安保政策でオール与党になったからといってそれで野党の存在価値がなくなったとするのは、頭の中が55年体制から抜けきれない人々の姑息な考えである。
 危機意識・管理なくして平和は望めない。力の裏づけのない正義がどれほど惨めなものかは、北朝鮮の国内情勢をみればお分かりだろう。


戻る