本日の御題:非核三原則
◆口は災いの元
 日本人ならば誰もが知っているであろう、有名な諺がある。しかし、こと政治家に関しては知らない方が多いらしい。 森元総理をはじめ、いったい幾人の有力者と呼ばれた政治家たちが、この諺を知らなかったばかりに苦境に立たされただろうか?

 福田官房長官は、何を血迷ったのか、突然核の保有について語ってしまった。誰かに誘導尋問されたのだろうか? 真意は私にはわからない。ただ一ついえることは、日本の政治に輝かしい汚点としてその名を刻んだことだ。

◆確かに時代と共に変わることはある
 ところで、日本は唯一の被爆国であり原爆アレルギーは未だ根強い。そのため、非核三原則を国是とするような風潮がある。
 しかし、福田氏の言われたとおり、ある一定の条件が揃えば、私も日本が核武装をしなければならないことがあるとは考えている。
 元々非核三原則は被爆国である日本が、その兵器の悲惨さを強く認識したところに始まりがある。同じ敗戦国であってもドイツやイタリア が国家的に非核三原則を提唱していないのは、なんとも雄弁に事実を語っているのではないだろうか?
 しかしこれには前提条件があったはずだ。「日本はアメリカの核の傘の下、守られている」。 この条件があったからこそ、日本は核をもたずに平和に生き延びることができたのである。
 逆を言えば、もしアメリカが、たとえばテロの襲撃によって軍中枢が壊滅的打撃を受け、少なくとも数年間に渡り日本の上に 被さっていた核の傘が外れてしまうとしたら、そして近隣の諸外国が日本に対し核の力をちらつかせて外交圧力をかけてきたら どうだろうか?
 たとえばある近隣諸国が見せしめとして、沖縄県の端にある小さな無人島に核爆弾を投下し脅してきたら・・・?
 もし現実的に日本本土に同様の攻撃がなされるとしたら・・・?
 実は現状でここまで考えるのはあまりに愚かなことである。それを政治家が口にすることはさらに輪を書いて愚かなことだ。
 しかし戦後の平和主義者・人権主義者は過去の悲惨さを語ることはあっても、逃れる術を語ろうとはしない。
 非核三原則を自らの命のように大切にする彼らだが、自分が核を自分が持たなければ相手も持たない、使ってこないと考えるのは 政治家としては無責任以外の何者でもない。それは軍隊を自分が持たなければ相手も持たない、攻めてこないと本気で 考えているお人よしと基本的に同じ考え方である。
 国民の生命・財産・安全を守るのが政府なら、極論から言えば、福田氏の意見は確かに正しいのである。ただし、問題は発言するタイミングだ。集団化した国民は必ずしも 正しいものを崇拝しない。タイミングを外せば、どんな正義も正論も非難の対象になることを彼らはもっと自覚しなければならない。

◆現状では非核三原則を排除してはならない
 どの時代でも、生き残った国家というものはそれなりに時代の潮流に乗ってきたものである。過去の亡霊に取り付かれて状況の変化に対応できなかったものは、 それがたとえ生物であっても国家であっても淘汰されてきたのである。
 もし仮に−今ここで書くのは何とも馬鹿馬鹿しい話しなのだが−日本を核で攻撃してこようとする国が現れたら、 日本政府は国会審議なんて悠長な事をするまでもなく非核三原則を排除して核兵器を保有する選択肢を選ばねばならなくなる。
 もし国会審議を延々とやっていたならば、日本を攻撃しようとしている国に必ず先制攻撃されるからだ。

 こんな事を言うと右翼だと思われるかもしれないが、私はそうではない。ただ現実主義者として語っているだけである。
 社民党、共産党の連中の平和ボケは甚だしく、戦争時に自衛隊が民家の一部を壊して陣屋を築いてもよいという法案を、野蛮な行為だと非難している。
 しかし実際に自衛隊が陣屋を築いて敵の侵入を防がなければならない事態であれば、民家を壊す事になんの問題があるだろうか?
 それと同じで、現在の国際的秩序が今後人類が滅ぶまで続く保証はなく、むしろありえないと考えるべきだろう。そうしたとき、日本が自衛のために 核を保有する事は国民を守るという政府の基本的に義務を遂行しているに過ぎない。

 ただし、現状でそのような話をすることは確かに問題だ。日本との間で不幸な過去をもつ近隣諸国に対して誤ったシグナルを送ってしまうことに なりかねない。そういった意味では、福田氏の発言はあまりに軽率であり、官房長官という立場から退くべきである事は疑いがない。

戻る