本日の御題:党議拘束
◆党議拘束とは・・・
 まずは基本的なところをおさらいしよう。
 国会議員には国会における議案の採決において、「賛成」「反対」「棄権」3つの選択肢が用意されている。
 議員一人一人に一票が与えられているとおり、本来は議員が主体的に投票行為をしてよいのだが、 政党政治においては度々「党議拘束」と呼ばれるものがかけられることがある。それはその名が示すとおり、党議(党の決定) で議員の選択を拘束することをいい、所属議員は政党が出した結論に従って、自らの一票を投票しなければならない。
 ただし、「しなければならない」といっても法的に党議拘束というものが存在するのではないため、 これに逆らったからといって法的な罰則があるわけではない。ただし政党、特に執行部からは何らかのペナルティ、 最悪の場合は除名のような形で制裁を受けることがしばしばある。

 さて、実はこのコラムを書くきっかけになった事件が最近起こった。自衛隊派遣についてそれを認める方向で動いた民主党 執行部は国会の採決に際し党議拘束をかけ所属議員に賛成に回るよう指示を出した。
 それに大方の議員は従ったが、旧社会党から流れてきた一部議員が党議拘束に反し反対票を投じたのである。
 党首の鳩山氏はじめ執行部はこの行為に怒り、反対票を投じた議員に厳重注意等をすることになった。

 そこで問題になるのが、法的に認められていない党議拘束を破ったという理由でペナルティを科すことが果たして正しいことなのか、 ということである。

◆党議拘束の功罪
 党議拘束は政党(特に執行部)が自らの意思を投票数に反映させる意味で非常に重要である。もちろん、選挙民からすれば 比例代表に限らず個人ではなく所属政党で選んでいることもあるから、政党の決定を尊重してほしいと過半数の人は 思うだろう。
 しかし、党議拘束ががちがちに機能すると問題も多い。その最たるものは議案の話し合いをする前にその議案が通るか通らないか 決まってしまうことだ。つまり選挙が終わってしまった時点で、一方的に野党の議案には殆ど価値がなく、与党の議案には絶対的な 議席というPowerが宿るというわけだ。
 それが民主主義というならば致し方ない。民主主義システムの根幹は多数決であり、多くの議席を獲得した政党は国政を握る 権利をもつ。もしその政策に反対するならば次の選挙に選挙民は自分達の意志を投票で示せばいい、というのが専らな意見だろう。
 ただし、衆議院で最長4年、参議院を入れ替えるまでには6年もの歳月が必要になる。 参議院は3年ではないかと考える方がいるかもしれないが、半分の議席が残る以上、よほど大勝しない限り野党が逆転できる ことは期待できない。
 国民が1億を越すレベルになるとこの時間の長さは致命的で、政府与党の仕事が振るわなくとも、それを熱を冷まさず非難し 続けることは至難の技ではない。

◆党議拘束に法的拘束力を!
 そこで私は一つ、提案したい。
 端的に言って、私は党議拘束は断じて必要だと考えている。 しかしそれは、もしかしたら今の国会議員や皆様とは異なったものかもしれない。

 私が党議拘束の拠り所にしたいのは、言葉にすればなんて事はない「公約」である。
 何度も破られていることからも分かるとおり、選挙公約に法的拘束力はない。しかし西欧諸国であればそれは倫理的に 尊重・厳守されるものである。
 しかし残念なことに、日本では選挙の時拳を握って掲げた公約が、選挙後まるで風に埃が吹かれて飛んでいってしまったかのように どこかへ消えてしまうという現象がたびたび起こる。
 いやいや、小泉氏は30兆円の枠を守るという公約は守っているし、道路公団を含む特殊法人の見直しについても頑張っているではないか と言われるだろう。確かにそのとおりだ。小泉氏はよく公約を守ろうと努力している。
 しかし、彼の母体となっている自民党はどうであろうか? 「小泉が勝手に掲げた公約だ、俺達には関係ない」とたかをくくっては いないだろうか?
 小泉純一郎は日本国首相であると同時に自民党総裁でもある。彼の公約はつまるところ自民党の公約に他ならない。 だからこそ、先の衆議院選挙で自民党は議席を保つことができたのである。

 にも関わらず、選挙が終わるや否や高祖元議員のように手の平を返して聖域なき改革という公約に反対する議員が現れる。 これは大変異常な神経だ。
 道路公団の民営化に際してもそうであったが、族議員は何かにつけて民営化には反対してきた。これは公約違反であろう。 自民党議員(どう贔屓目に見ても今回当選した衆議院議員)は聖域なき構造改革に反対する権利はない。

 そこで私は、選挙公約こそ党議拘束の拠り所に値すると考えている。もちろん、総論賛成各論反対という不届きな輩が出てくるのは 目に見えてはいる。だからこそ、公約にもより具体的な内容が書かれなければならない。たとえば「特殊法人の民営化を進める」 という抽象的な言葉ではなく「●△特殊法人を3年以内に完全民営化する」といった具合だ。 ここではあえて「公約+」とでも仮に命名しておこうか。
 選挙前に掲げられる公約はどれも玉虫色をしていて、まるで使い物にならない。もともと約束としてはあまりに拙い ものなのだ。その拙い約束を頼りにした選挙結果が、国民を最もハッピーに導いてくれるものとは到底思えない。つまり 国民の意思を政治に反映させることを難しくしている最たる原因の一つなのだ。
 選挙前にそんな具体的なことを決められるはずがない、と国会議員の多くは言うだろう。しかしどうにでも訳せる約束しか国民 にできないのは治世者として無能を示すものではないだろうか。
 第一、選挙前ではできないような約束を、選挙後に彼らに決めさせ、そして実行させることなどできるはずがないのだ。

 私は全ての政党に「公約」ではなく「公約+」 の提出を求めたい。そしてその案件については党議拘束をしっかり掛けるべきだ。
 その一方で、公約外の議案については党議拘束は掛けられるべきでない。政治家は個々が生き物であり、個々の意思によって 行動すべきであるからだ。公約でない以上、党の執行部の指示に反対したとしても選挙民の意思に反対したことにはならない からだ。

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