本日の御題:田中真紀子外相は○か×か
◆進む勇気はわが身を滅ぼし、退く勇気はわが身を生かす
 いきなり中国の古典から引用して申し訳ない。昨今の田中外相を見ていると、どうもこの言葉が 頭をよぎってしまうのである。
 もはや説明は蛇足であろうが念のため簡単に説明しておくならば、勇猛果敢に攻め立てる ことは無駄死にを生む一方、退く臆病さ、警戒心を持った者は生き長らえる、ということ。戦場において 生死と功績は常に裏表の関係にあった。
 さて、田中外相、新任早々苦境に立たされている。同姓の田中群馬県知事からエールを送られているものの、 官僚はもとより、自民党、いやいや閣僚の間から出さえ不満が噴出している。確かにそのとおりだろう。
 外相ともあろうものが米国の要人との会談をドタキャンし、外交交渉はメールでやればいいと嘯(うそぶ)く 姿は尋常ではない。外務省は日本と海外とを結ぶ橋のようなものなのだから、良識のある人間ならば どちらもできない行為だ。

 もちろん、田中外相の言い分もわかる。外相に成り立てにいきなり会談と言われても用意も何もないだろう。 しかも官僚が自分の言い付けを守らず勝手に人事権を行使すれば、ぷちっ!ときたとしても不思議ではない。
 しかし、戦いとは常に非情なものである。たとえ大義名分のある正義のための戦争だとしても、 進む勇気しかなければ勝利はできないのである。

◆静と動
 別にマニアになれというわけではない。しかし、政治家たちはもう少し教養を身に付けるべきだ。
 有能な為政者や成功した商人の多くは、バイブルというものを持っている。いわゆる帝王学と呼ばれる ものである。そして為政者であれば、当然、中国の古典の一つや二つ、読んでいなければならない。
 こんなことを言うとそれはお前の趣味だろうが、と言われるだろう。しかし中国人のみならず欧米の 政治家の間でも、孫子の兵法や管子、韓非子といった書物の愛読者は多い。
 それは2000年以上の時を隔てた現代においても、人間の本質そのものにはそれほど変化がないからだ。

 もしこれらの書物を読んでいたならば、私のような未熟者でも決して今日のような状況には陥らなかっただろう。
 中国の古典的考え方をすれば、はじめから外務省に喧嘩を売るようなことは決してしない。「田中真紀子も 大臣になったら意外と落ち着いた」とまず思わせておいて、仕事のできる官僚とできない官僚を実務の中で判断し、 無能な次官以下幹部を更迭した後の人事まで見据えた上で一気に人事異動を行うだろう。
 すべての辞令を彼らが不満を言う時間を与えず、気が付いたら更迭されていた、という状況を作ってこそ、 業務に滞りなく人事は行えるものだ。
 何もわからず(経験がない)、誰が根本的な敵で誰が潜在的な味方なのかわからない状況で吼えたところで 何ができるだろう。「外務省そのもの」を敵にしてしまうと、身内意識の強い官僚の世界では 潜在的味方にさえ敬遠されるだろう。
 彼女がやっていることといえば、人心を掌握していない少数の軍勢でがっちり手を組んでいる大軍の守る城を 正面から攻めるようなものである。だからこそ、「外交はメールでやればよい」などという屁理屈を言わざるを 得なくなるのである。
 私は田中外相に断言したい。「メールで外交交渉は決してできない。セキュリティの問題からも、またそれ以上 人の資質からしても」

◆剛が敵を作る
 彼女には悪い癖がある。すべてのおいて「剛」なのである。たとえば、記者会見のときに、 腹心の秘書官が書類を手渡そうとしたことがあった。そのとき彼女は、「こんなものはいらん」 とまるで子供にでもつき返すような振る舞いで返し、東大出身の秘書官のプライドを 傷つけることになった。
 それが原因で入院したとは思えないが、しかしこのような振る舞いもまた多くの敵を作る結果を生む。 改革を「剛」として進めようと思うならば、それを和らげる意味でも一方では「柔」でなければならない。 でなければ、ワンマン経営者と揶揄され、人は付いてこないか、または裸の大様になるだけだろう。

◆離間の計?
 最後に、今日、面白い会見を見つけた。中曽根元首相が小泉総理にエールを送ったのである。 昨日までは小泉総理の国会答弁に憮然としていた同氏にとって、この行動は180度方向転換したことを 示している。くしくも森前首相が田中外相を痛烈に批判した直後だ。
 これは何を意味するのか? 橋本派をはじめ、田中外相を目の敵にしている連中は多い。小泉総理は ともかくとして、田中女史が大臣をやっていることに抵抗を感じ、引き摺り下ろすことを狙っているのは 一人や二人ではないだろう。
 田中外相を批判しつつ小泉総理支持への方針転換は、二人の間を裂く意味合いを私は強く感じる。

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