本日の御題:情報氾濫時代の経済学
◆バブルを生んだグローバル経済
 いつの時代にも「信仰」はあるものだ。中世のヨーロッパであればそれはキリスト教であり、 18世紀のヨーロッパであれば革命と民主主義であり、19世紀であれば産業革命であった。
 そして20世紀の半ばから始まった「資本主義」という信仰は、「共産主義」というもう一方の信仰が 消滅したことで、20世紀最後の10年で暴走したのではないか、と筆者は考えている。

 振り返れば日本のバブルが崩壊して20世紀最後の10年は始まった。株と土地と消費の奇妙な連動は 当時の日本人を狂喜させ、海外投資家の垂涎の的となった。
 デリバティブを初めとする金融派生商品が世界中に溢れ、国家が保有する数百数千倍もの投機が日常的に行われるように なったのもこの頃からである。
 その結果、「経済が成長を続けている」と判断された国には必要以上の資金が流れ、結果的に株価を大幅に高める役割を 果した。
 ここぞとばかりに経済学者や証券マンは揃って強気予測を繰り返し、一般国民を煽ってはそのおこぼれをもらうのである。

 しかしその様子を一歩外から見ていると、これは一種の麻薬である。高成長を常に続ける国や企業などこれまでの世界に 殆ど存在しないからだ。経済の成熟と共に成長率は鈍るのが当然だが、今日の投機家たちはそれを許さない。 なぜなら彼らは株価高騰によるキャピタルゲインを当てにしているからだ。
 こうして株価が高騰した国の経済はあたかも高成長を続けているように映るが、これは麻薬で言う「躁(そう)状態」と 言わざるを得ない。外見は健康体として誰しも疑わないが、株価が実体経済以上に評価され、株式市場が企業に対する 投資ではなくマネーゲームの場になってしまえば、それほど不健全な状態はない。麻薬が効いている間は晴れ晴れとしていた 投資家・投機家たちのマインドは、その後訪れる「鬱(うつ)状態」によって一気に冷え切ってしまうだろう。

 つい最近まで、米国は米国発の「新しい金融商品」に対して自信を持っていた。金融関係の規制を取り除き、インターナ ショナルな競争原理の中でもまれることこそ最良のことであると考えていた。
 しかし実際はどうであろうか。資金の流動性の向上は国家の制御レベルを越え、確実に世界を同時不況へと導いている。

◆アダム・スミスも思いつかなかった事態
 経済学の教科書に必ず載っているといっていい人物にアダム・スミスという人物がいる。企業の収益が増えれば労働者の 収入が増え、それが支出を後押しすることで物価が上昇しやがて均衡する。その逆も真であり、企業の収益が悪化すれば 労働者の給与水準が下がり、物が売れなくなれば物価が下がってやがて均衡する。
 では果たして現実はどうだろうか? 競争原理を追求した最も先進的な現代経済は、企業の業績悪化が即労働力の調整に 繋がるため消費が抑えられインフレは確かに抑えられるが、それがさらに個人消費を低迷させる原因になっている。
 またケインズは言った。一度負のサイクルに突入すると経済は自立的な回復が見込めないから、国が財政出動をして 雇用を作り出し、景気を回復させなければならない。
 しかし昨今の10年間に日本政府が計上した公共事業は、すでに歴史的な額にまで上っているにもかかわらずその効果は 全く以って疑わしい。

 おもうに、彼らのロジックには決定的な欠落が存在するのだ。少なくとも、情報化が当時に比べより進んだ現代においては。 それは先にも記した「マインド」である。
 今更何を…と思う読者は多いだろう。そう、決して難しいことではない。現代経済の舵取りを事実上不可能にしている のはまさに「投資家の心理状態」という巨大な力なのである。
 かつて、まだ情報の氾濫がない時代であれば、アダム・スミスやケインズの時代であれば、投資家は必ずしも経済状況に 対して統一的な見解を持つことはなかっただろう。経済が上昇気流に乗っているのか、停滞しているのか程度のことは 薄々分かっても、それを広く共通の認識として所有するには至らなかった。
 ただし、今日は違う。新聞を見ればテレビを見れば、インターネットをブラウザで覗けば、ほぼ同じタイミングで 同じ情報を投資家は手にいれることができる。
 その結果、集団の心理がかつてないほど作用し、極端から極端へと評価が流れるのである。

 この動きは実体経済に即したものではなく、冒険的で無謀な不確定な将来性や、回りの人間の評価の強く影響を受ける。 そしてアダム・スミスやケインズは集団の心理についてはまともな指摘を全く行っていないのだ。

◆次なる学派
 時代の変遷と共に学派も変わるものだ。アダム・スミスが育った時代は英国による産業革命真っ只中であったため 経済至上主義的な色合いも少なくない。それが資本主義によって害悪が行われるや、マルクスの社会主義が誕生した。
 そして現代、我々人類はまたに新しい主義を考え出さなければいけない時期に来ているのかもしれない。

 世界中の投資家達が、ほぼ同じタイミングで同じ情報を供給される時代にあった経済・金融システムの構築が 早急に必要であることは、昨今の10年を見れば明らかだろう。
 1990年代の日本、そして昨年末から今年に入っての米国を見て分かるとおり、すでに金利のレートを操作するぐらいでは 「投資家のマインド」という巨大な力を操作できない現実を直視すべきである。

 経済とは数字の魔物である。昨日まで「1」という価値しかなかったものが、それを欲しがる者が増えれば、 全く同じモノであるにもかかわらずその価値は今日は「2」にも「3」にもなる。
 値上がりだけを期待し、まるで宝くじを買うような気持ちで企業に対する投資を行おうとするならば、 人類は近いうちに再び大恐慌にさらされるかもしれない。

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