まず前置きしておきたいのが、女性の社会進出を語るのを男性一般は嫌う傾向にある、ということだ。
それは女性に少しでも不利になるようなことを言えばたちどころにバッシングの対象になるからである。
しかし、今回はあえてそのタブーに私は挑みたいと思う。
なぜなら、それは「必要」であるからだ。
人はそれぞれ自分の地位や立場を持っているため、男性には男性の、女性には女性の立場からの意見・反論が当然あることだろう。
下のヘッドラインでいきなり過激(?)なタイトルを付けてみたが、ここは感情的にならず、どうか最後まで読んでいただきたい。
また今回は序章ということで、女性の社会進出を論じる前段階として、男性と女性の境遇についてまず論じたい。
最後に、私の最愛の人の性別は「女性」であり、決して愛する人のもつ性を侮辱しようという気持ちはないことをここに断っておく。
◆女としての特権を望む女たち
いきなりで恐縮であるが、これは女性自身がよく口にする言葉である。
一昔前までは男に生まれてきたかったとよく女性の間から言われたものだが、今日は全く逆の
様相を帯びている。つまり現在は男性が女に生まれてきたかったと思う時代になったのだ。
その主な理由はこんなところだろう。以前は現在よりも治安が良かったにもかかわらず、夜間の女性の外出は厳しかったし、
男性ならば許される一人旅も親から反対を受ける。煙草は出産時に良くない、生意気に見えるという理由から吸うことができない。
男性ならば大目に見られる浮気も、女性がすると不埒な女という烙印を押されてしまう。
女として生まれてきてしまったがために自由がない、そう感じた女性は多かっただろう。
しかし現在の社会は違う。女子高生が終電後の新宿・渋谷を徘徊する光景は珍しくないし、むしろ男以上に異性との交遊は
やろうと思えば容易くできてしまう。そして半ばそれを容認してしまっている多くの男性・社会のために、女性は今、かなり自由な
行動が可能になった。
一方の男性はどうかといえば、不満が噴出する。
例えば食事処で、食べる量が違うからという理由で食べ放題メニューのみに男女別料金を設定することは合理的だろう。
しかし女性限定で値段を男性よりも安くする(もちろん出てくる料理は同じである)のは、女性から見れば優遇だが男性から見れば明らかな
性的な差別ではないのだろうか?
それだけではない。都心から電車で一時間程度でいける某屋内スキー場では、最近まで女性のみスキー板・ボードのレンタル
無料というサービスを実施していたし、他にも女性限定を謳うサービスは多い。
女性にしか与えられていない優遇措置を目にするたびに、「ああ、女は得である」という認識を我々は実感するようになった。
職業に関する機会均等・男女差別の解決を求めようとするならば、当然これらの女性優遇措置も改善が求められることになるだろう。
もちろん、現在は収入に格差があることからやむをえない一面があるのは事実である。
ただ、上記の例以外にも女性が現在抱えている膨大な特権(慣習も含めてデート代、食事代、なんでもいい)を女性自身が手放そうとしない限り、
「良いとこ取り」の批判は免れないだろうし、また精神的な自立も不可能であろう。
以前、あるテレビ番組が街頭インタビューをしたところ、若い女性の半数以上が実にこの女の特権
を理由に、男女平等社会を必ずしも望んでいない、と答えている。
「女であることのメリットを捨ててまで、なんで男を肩を並べる必要があるの?」と言いきった女性が私は妙に印象に残ってしまった。
(出所を明記できずに申し訳ない。時期は確か社会党がマドンナ旋風を巻き起こしていた頃である)
◆男としての威厳を守りたい男たち
一方の男性はどうか?
男にはかつて威厳があった。デート代、食事代一つにしても、収入の少ない女性の分はさっと出すのが格好良かった。
結婚した後もそれは続く。自分の稼ぎで「喰わせてあげたい」という、ある意味押し付けじみた親切を女性に与えることで、
男である自分の優位性を保とうとしてきた感がある。
しかし、すでに女性の要求は男性一人で負担できるレベルではなくなっている。
女性をターゲットにした商品はブームになりやすいということもあって企業は開発に躍起だが、その全てを買い与えることなど
不可能に近い。
しかも社会人としてキャリアを積み、給料の明細を手にしてしまった女性は、自分が評価されることに対する喜びもすでに知っている。
「私にはやりたいことがあるし、二人で働いたほうがよい生活もできる」と言われてしまったら、男性としては返す言葉がないだろう。
こうして家計を二人で支えるようになれば、家事も分担すべきだという議論が出てきて当然である。また会社に長く勤めれば様々な提案を
行う能力もついてくるので、より男性と対等な地位を求め始める事も至極当然の流れである。
それは人間の本質的な性格であり、決して否定されるべきことではないだろう。
かくして、男性の抱いていた幻想はいとも簡単に崩れてしまうわけだが、これは決して男性にとっても悪い話ではない。
確かに妻が自分よりも高収入になれば肩身は狭いかもしれないが、自分が一方的に保護する関係よりも対等なパートナーとしての関係の
方が、肩の荷が下りるというものだ。
リストラ全盛のこの時代、共働きはリスク分散という意味でも優れている。
にも関わらず女性の社会進出に男性が否定的・消極的な見解を示す理由は、大きく二つ上げられるだろう。
一つは先祖代々受け継がれてきた「男は女を守るもの」という理想を捨てることができないことだ。
しかしこれはすでに籠から放たれたオウムに言葉を教えようとするようなもので、現実的ではない。
そしてもう一つは、先に書いたような「女性ゆえの優遇」をそのままにした女性の地位向上は、新たな性的差別に発展するからだろう。
「男女平等」と「男のくせに」というキーワードを使い分けている女性に、男性ならば一度ならず何度も会った経験があるはずだ。
男女が真に平等になることを本当に望むならば、男性が負担してきた部分も同時に分担してもらわなくては、と考えるのも人間の本質
から決して逸脱しない。
◆差別はどこにでも存在する
では最後に、差別に関するちょっとした小話をして終わりたいと思う。
「女性に優しくない社会は栄えない」、なんて言葉をたまに耳にする。
真相は不明だが、確かに男女の間に上下の関係が存在することはおかしな話だ。
ただし、上記のような名句にも差別的要素が潜んでいることをどうかご承知いただきたい。
「なぜ女性を特別大切にするの?」という理由が、もし「女性は子供を産む大切な存在であるからだ」とするならば(たどり着く男女の違いはここに落ち着くだろう。
自然界に男と女が初めからいたのではなく、子供(卵)を産むほうを女(メス)、産まないほうを男(オス)と定義していることからも明白だ)、
子供を産まない、または産めない女性に対する差別とも受け止めることができる。
かなり細かな注意をしなければ、我々は平等を議論しながら不平等を選択してしまうこともあるのだ。
さて、長文は書き手以上に読み手が大変であるため、第一弾はこれにて閉幕としよう。
是非、読んでくださった方は自分の「性」からのみ見るのではなく、もう一方の「性」から考察していただきたい。
それができなければ、こういった議論には決して答えが出ないからである。
次回はいよいよ女性の社会進出にはらむ問題、つまり育児や年金について話を進めたいと思う。