◆大学の現状
大学の講義には空席が目立つ。試験前にはコピー機に長蛇の列ができる。
一見すると不思議に思えるこの光景も、当事者の間では当然のこととして受け止められている。
学生たちは代返(代わりの返事)をしてもらうことで授業をエスケープし、試験前に友人のノートをコピーするために
コピー機に並ぶのである。
この現象はほぼ全国規模で起こっており、さらに昨今の携帯電話の普及がさらに授業の質を低下させている。
まさに日本の最高学府は学生にとっての楽園であり、親にとっての最大の無駄なのである。
このような現実はなぜ引き起こされたのか? その理由は実に明確である。
世間で言われるような「高校までの受験勉強からの開放感」だけが理由であるとは到底思えない。
このようなことを口にする多くの学者は、ゆとりある教育を旗印に学力のレベル低下を推進しているが、
かりにそれによって受験戦争が緩和(競争率が同じでも内申点考慮による相対的試験科目の地位低下)されたとしても、
おくらく大学の現状は変わらないからだ。
受験戦争の厳しさが大学生の学習意欲を削いでいるというのは、一部●★主義者の偏見に過ぎない。
◆大学の意義とは?
そもそも大学とはなんぞや? ということをもう一度考える必要があるのではないだろうか?
高校(高等学校)までが「学校」であるのに対し、厳格な線引きをすれば「大学」は「学校」ではない。
また現在は混合して使われているが、高校に通う子供を「生徒」と呼び大学に通う人を「学生」と呼ぶことが
本来の形であり、両者には明確な区別がされて当然である。
一般常識をマスターし、高等教育を受け、さらにそれ以上の学問習得を志した者だけが行くべき場所である。
にも関わらず、大学はベビーブーム時代に子供が増えることをよしとして、その数を急激に増やしていった。
その増加率は子供の増加率を上回り、結果として大学への進学率を向上させた。日本の大学進学率は、先進国の中でも
トップクラスである。
しかしこうして入学した学生たちを待ち構えているものは、失望と誘惑である。
◆◆◆
まず失望から行こう。
大学の授業を受けた者ならば多かれ少なかれ感じることは、「教授の熱意のなさ」だろう。
彼らは教育を志した者ではなく、学問を志した人たちである(教職免許は必要ない)。そのために学生に対して講義をするのは飯を喰う為であり、
彼らが本当にしたいことは自分の研究を「大学」という資本と設備を借りて続けることに他ならない。
彼ら教授たちは自分の研究に没頭するために、赴任一年目に作った授業のノートを生涯使い続けることになる。
新たにノートを作る手間をかける気など初めからないのだ。
学生たちは十数年前の埃とカビが生えている教授のノートを、黒板という媒体を通して自分のノートに移している
(あえてこの字を使いたい)に過ぎない。これではやる気が起きなくて当然だろう。
コピー機が大繁盛する理由もまさにそこにある。
しかも、さらに手を抜く教授は試験内容も毎年同じものを使う。そのために学生たちは先輩から「過去もん」と名づけられた
試験問題とその解答を手に入れることで、そしてそれをコピーして回すことで、難なくテストをクリアできるのだ。
こうして、「大学出といっても即戦力には到底ならない」という愚痴が企業側から出る状況がいとも簡単に生み出されるのである。
◆◆◆
さて、次は誘惑である。
大学の乱立によって進学率が上昇し、本来学びたいと思うものがない人まで大学に入学するようになった。
そう、彼ら(彼女ら)には始めから目的意識など皆無なのだ。このような学生が上記のような環境に置かれれば、
次にとる行動は想像に難しくない。授業に出なくとも、試験勉強しなくても試験をパスできるならば、する必要がない。
高校時代よりも遥かに自由に使えるようになった時間を利用してアルバイトに精を出し、遊び出したとしても
当然といえる。
◆資本主義経済の孤児、大学
ではどうしたら大学を本来の姿である最高学府に相応しい場所にすることができるのだろうか?
実はこれが非常に難しい。
例えば、勉強しない学生は試験にパスできないように厳しくすることが考えられる。しかしそれによって落第者が続出すれば、
厳しい大学というレッテルを貼られ、受験者数が減るかもしれない。受験料は大学にとって非常に重要な収入であるため、
手放すことはできない。
また、再試験、再受講は非常にコストがかかるのだ。再試験をするからといって試験料を別途請求する大学は少ない。
再受講はさらにコストがかかる。大学側からしてみれば、下手に歩留まりされるよりも沢山入学させて入学金をがっぽり
貰い、ストレートで卒業してくれたほうが経営上よいのだ。
しかし一番困るのは、落第に嫌気が差して中退する学生が増えることだろう。これでは大学経営が成り立たない。
大学にとって学生はお客様である以上、結果として試験は簡単にならざるを得ないわけだ。
つまり、資本主義の原理が、大学という場所では望ましい方向に働かないのである。
昨今の受験科目数の減少は、少子化が進む今後、定員を保つための大学側の媚び諂いに見えてならない。
どうしても受験科目が多いと、受験者に敬遠されてしまうからだ。
◆大学を立て直す最終手段
さて、大学をあるべき姿にすることがどんなに難しいことでも、それをやらないわけには行かないのも事実だ。
そこで私はある一つの提案をしたい。
それは「学生層のシフト」である。
大学関係者ならば少なかれ感じることであるが、高校から上がってきた学生よりも、社会人の学生のほうが遥かに
勉強熱心である。社会人になってまで大学に来る人達は、まさに目的意識がはっきりしている。人生経験もしているし、
自分に足りないものも認識している。それゆえに熱意があるのだ。
現在、高校出の学生と社会人学生の比率は断然前者が多いがその比率を逆転させれば、高校出の学生に対しては
狭き門とすることで本当に学びたい学生をチォイスすることが可能になり、また熱意ある社会人を多く受け入れることで
大学の経営も成り立つ。
これは今後の少子化を考えた上でも受け入れやすい。
現在社会環境の変化の速度は増しており、社会人が即戦力になる知識・技能を身に付けたいというニーズは高まる一方だろう。
それは理工系だけではない。文系でも昨今注目を集めている「ビジネス特許」など、学ぶべき材料は幾らでもある。
さらに社会人を相手にすることで、実社会に役立つネタを教授は常に用意する必要に迫られるだろう。社会を知らない
高校を出たばかりの学生とは違って、騙しがきかないからだ。
結果として、授業レベルの向上も期待できる。