地方分権の必要性と重要度
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●なぜ地方に権限を委譲する必要があるのか

地方分権について述べる前に、まずこれまでの地方自治体と中央行政府の関係について見てみよう。

戦後、混沌とした状況下で、効率よく復興を行うため、つまり経済成長を達成するため、日本では中央集権的な 行政が行われてきた。地方単位では大きな計画を遂行できない上、市町村間の貧富の差によって、経済基盤の弱い 自治体が取り残されるのを防ぐためである。
そのために、行政の大半は中央政府が計画し、地方政府はそれを単に実行するだけの存在であり続けたわけである。 この主従関係は、高度成長時代には効率的に機能した。
例えば、戦後、まだ交通網が整備されていなかった頃は、幹線道路や新幹線の整備に力が注がれた。これらは、 複数の都道府県を横切るうえ事業費が莫大なため、地方自治体では手が付けにくかった。つまり、国家が 行うことに合理性があったのだ。

では、現在はどうか。交通網はほぼ整備尽くされており、新たなプロジェクトの必要性はかなり薄くなっている。 にも関わらず、「官僚の天下り先確保」のため、「予算をできるだけ多く取りたいという省庁」のために (何でも、自分の代に予算の配分が減らされると、官僚のトップは無能呼ばわりされるらしい。これでは、国家 財政が逼迫しても、支出が減らないはずである)、その必要が薄くなった地域にまで過大な投資をしようとしている。
現に、新しくできた高速道路ほど採算が悪く、新幹線は経営が困難になっている。
その結果、高速道路の料金は下がらず、煙草には税金が課せられることになったわけだ。
つまり、成熟した経済において、国家による行政は、無駄遣いが過ぎる結果を生み出したわけである。

一方で、議員たちも「我は族議員」と高らかに宣言するほど体たらくを続けている。とても、この非効率な投資を 抑制する力など持っていない(正確には力は持っているが、意志を持っていない)。

では、税金を無駄なく使うにはどうすればよいか」。

その要求に対する答えの1つが、地方分権であると言っていい。
これまで、プロジェクトは地方があまり支出をしない形で行われてきた。つまり、何かを作る場合、 地方自治体は国にお願いをして、主に国の支出によって事業費がまかなわれてきたのである。
結果として、「隣の町に鉄道が通ったからうちにも欲しい」だとか、「どこどこの町に大きな娯楽施設ができたから、うちも 負けないほど豪華な施設が欲しい」などという、効率とは全く無関係の要求が出され、事実通ってきたのである。

過疎に悩む地方が、何とか鉄道を通してほしいという気持ちは分からないでもない。しかし、それを使う者がいなければ、 重い維持費、運営費がその両肩に圧し掛かるのである。作るときに国の税金を使い、さらにできてからも「赤字の埋め合わせ のために」国の税金が使われるとなれば、とても正当な投資とは言えないだろう。

この「地域開発」の名を借りた財政支出の構造を改革するためには、事業を行う地方自治体自らが、血税を投じる必要がある。 これまでは、地方自治体は痛みを伴わなかったので、採算を省みず計画を立てることができたからである。地方に権限と、 それに相当する責任を与えれば、自ずと無駄遣いは減るのではないか。逆を言えば、「国に頼ったもの勝ち」という現行の 仕組がある限り、どんなに財政赤字が拡大しても無駄遣いは減らないのではないだろうか。

●地方分権は重要課題なのか

国会において、「地方分権の推進に関する決議」が可決されたのが1993年。1995年5月に、「地方分権推進法」が成立し、政府 に推進委員会が設置された。今日(1998年12月現在)までに第5次勧告が出されている。
この勧告は、「政府には委員会の勧告を尊重しなければならない」という義務があるため、理想論ではなく、実現可能な 内容になっている。

しかし、委員会が設置された当時こそ「道州制」や「連邦制」といったアイディアが各方面から出され、分権論議が 盛り上がったものの、その後の長引く不況によって、次第に経済対策が専らの議題となり、分権論議は端へ追いやられる ようになった。

しかし、国の収入が増えない時だからこそ、私は地方分権が必要であると考える。地方が必要としていないものに、税金を ばらまく余裕はもはやないのである。
次号以降、詳細について解説したい。


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