Pablo Picasso(ピカソ)
●1881年 スペインのマラガに生まれる。
●1895年 バルセロナのエコール・デ・ボザールに入る。
●1900年 パリに出て、初めロートレックの影響を受ける。
●1901年 ボラールがピカソの最初の個展をパリで開く。
1901年から1904年《青の時代》
1905年から1906年《バラの時代》
●1907年 ニグロ芸術とセザンヌの影響から、キュービズムの記念的作品「アビニヨンの娘たち」を制作する。
●1911年 分析的キュービズムから総合的キュービズムに発展。
●1920年 一時、《新古典主義の時代》といわれる具象作品に変わる。
その後、変幻自在に多彩な仕事を手がける。
●1973年 不死身といわれたピカソは、4月8日、南フランスのムージンの別荘で91歳の生涯を閉じた。

1937年の記念作品「ゲルニカ」をはじめ多くの連作を出し、「画家とモデル」の連作、晩年は「エロチカ」のシリーズへと常に新たな発展を続け、20世紀美術の多様な展開の中で活躍した最大の画家である。

油彩のほか、版画、陶器、彫刻、シナリオと、その多彩な仕事の一つ一つにピカソ固有の芸術を実現した。ピカソの版画はその長い生涯のうちに数千を数えられるが、特に名作とされているのが「貧しい食事」、「ミノトーマロシー」など他に多くある。リノカットの彩色版画も有名である。

エッチングの話題作も多く、「画家とモデル」「エロチカ」などがある。

ピカソ一覧

Jean Jansem(ジャンセン)
●1920年 アルメニアに生まれる。
●1931年 渡仏し、パリ装飾美術学校に学ぶ。
●1941年 サロン・デ・テュイルリー、エコール・ド・パリ展等に出品する。
●1951年 ポピュリッツ賞受賞する。
●1954年 国家より奨学金を受ける。
●1958年 メキシコのコンパレゾン賞を受賞する。青年絵画展の会長に推され、サロン・ドートンスの会員にもなる。
●1960年 以後隔年にパリ一流画廊で個展を開催する。欧米主要都市や東京でも個展を開催する。作品はパリ市美術館のほか欧米の諸美術館に収蔵されている。

薄いパートの地塗りの上に神経的な描線を駆使した独特な技法で、現代の苦悩や不安を表現する異色な作家である。面白いことに彼の女性をテーマにした作品は必ず女性の名前がついている。

ジャンセン一覧

Marie Laurencin(ローランサン)
●1883年 パリで生まれる。
●1893年 パリのリセ・ラマルティーヌに入学。
●1902年 女子師範学校の準備を止め、製陶所で磁器の絵付けの講習に通う。
●1903年 画商アンリ=ピエール・ロシェと出会う。
●1904年 リセ・ラマルティーヌ卒業。
画塾アカデミー・アンベールに入り、ジョルジュ・ブラックらと出会う。
●1906年 ブラックの紹介でパリの「洗濯船」の常連となり、ピカソやマックス・ヤコブらと出会う。
●1907年 ピカソの紹介で詩人ギョーム・アポリネールと恋に落ちる。
アンデパンダン展に初出品。
●1908年 「狩りをするディアナ」製作。
●1909年 「アポリネールとその友人達U」を発表。
●1910年 「乙女たち」を描く。
●1911年 ニコル・グルーと出会い、生涯の親友に。
●1912年 パリのバルバザンジュ画廊において展覧会。
アポリネールと訣別。「家具付きの貸家」製作。
●1913年 母ポーリーヌ死去。ドイツ人画家、オットー・フォン・ヴェッチェンと出会う。
「読書する女」「アンドレ・グルー夫人ニコル」製作。
●1914年 ヴェッチェンと結婚し、スペインへ亡命。
●1916年 バルセロナへ転居。
アポリネールが戦争で負傷。
●1917年 ピカビアの主催するダダの雑誌「391」に挿絵を提供。
●1918年 アポリネール死去。
●1920年 デュッセルドルフへ転居。
●1921年 パリへ転居。ロザンベール画廊での個展が成功。
●1922年 ヴェッチェンと離婚。
●1923年 肖像画を描き始める。
ジャン・コクトー台本の「牡鹿」舞台装置と衣装を担当。
●1925年 シュザンヌ・モローと同棲。
●1932年 「パリ16区のアトリエ」にて教鞭をとる。
●1939年 「園遊会」発行。
●1942年 「夜の手帖」発行。
●1944年 マルセル・ジュアンドー著「小動物物語集」にエッチング8点を掲載。
●1949年 ポール・モイリアン書店にて「友人達の肖像展」を開催。
●1951年 「セーヌ川の顔」発行。
●1954年 シュザンヌ・モローを養女に。
●1956年 心臓発作で死去。

ローランサン一覧

Bernard Buffet(ビュッフェ)
●1928年 7月10日パリに生まれる。
●1943年 夜間講座に通いデッサンを学ぶ。
●1944年 パリ美術大学に入学、ナルボンヌに師事する。
●1947年 アンデバンダン展、サロン・ドートンヌに出品、初個展を開く。
●1948年 第一回クリティック賞を受賞。
●1949年 ドルゥアンニダヴィット画廊(モーリス・ガルニエ画廊)と契約を結び、毎年2月定期的に主題を決めた新作個展を開催。
●1958年 シャルバンティエ画廊で回顧展を開催。
●1963年 東京・国立近代美術館でビュッフェ展を開催。
●1969年 この年から翌年にかけて大阪、東京ほか各地で新旧作展を開催。
●1973年 沼津市郊外に世界初のビュッフェ博物館を開設。
●1981年 妻アナベルの文章とビュッフェの文字による「日本旅行」の挿絵のため24点のリトグラフを制作。
●1987年 9月に名古屋市愛知県美術館にて代表作80点を集めた展覧会を開催。
●1999年 死去。


第二次世界大戦後、抽象絵画の洪水の中に若干20歳のビュッフェが鋭いデッサン力をもって《具象絵画の旗手》として画壇に登場したことはあまりにも有名である。作品はパリ国立美術館をはじめ、世界各国の美術館に収蔵されている。

親日派としても知られており、各地の神社仏閣を廻って親交を深め、相撲観戦も楽しむなど日本文化を積極的に取り入れた。

ビュッフェ一覧

山下 清 (やましたきよし)
●1922年 3月10日東京、浅草に生まれる。
●1934年 12歳で八幡学園に入学。
貼絵のてほどきを受け、その特異な才能が発見される。
●1936年 文藝春秋に作品が発表される。
●1940年 突然八幡学園から失踪。15年にわたる放浪生活を始める。
その旅で印象づけられた風景を貼絵にし、画家や文学者から絶賛される数々の傑作を制作する。
●1956年 放浪生活に終止符。以後数年間全国各地で作品展開催。
観客動員数800万人という大記録を達成。
●1961年 ヨーロッパ一周スケッチ旅行にでかけ、40余日間で数十ヶ国を廻る。
帰国後、50点以上の素描、水彩画をまとめ、全国巡回展を開催。大反響を呼ぶ。自分のペースで仕上げた貼絵は全4作品。
1年に1作品という割合で、ヨーロッパの美しい風景を作り上げた
●1971年 7月21日、死去。
数々の貼絵においては、単に根気と努力では片付けられない『美』を再現する類い希なる『天性』を感じさせる。   人々の心を素直に感動させる山下清の作品こそ、私達が日常生活の中で忘れかけている心の潤いを呼び覚ましてくれるものである。

山下清一覧

藤田嗣治 (ふじたつぐはる = レオナルド・フジタ)
●1886年 明治19年11月27日東京市牛込区新小川町に生まれる。
父、嗣章は当時陸軍一等軍医で領有後間もない台湾、朝鮮の衛生行政に尽力し、大正元年、陸軍軍医総監に栄進した
●1893年 東京高等師範学校付属小学校に入学。
●1900年 同中学校に入学。
●1905年 同中学校を卒業。
東京美術学校予備科に入学。
東京美術学校西洋画科に入学。
●1907年 精勤賞を受ける。
●1910年 東京美術学校西洋画科本科を卒業。
白馬会第13回絵画展覧会に「山より」「女」が入選。
美術学校卒業後、和田英作教授の助手として帝国劇場の壁画や背景の制作を手伝う。
この頃から3年続けて当時の文展に出品したが、3回とも落選。
●1911年 東京勧業展覧会に「青梅」「山家」「上野原」「駅」出品。
●1912年 第2回東京勧業博覧会に「午後の日」「宿裏」を出品。
光風会第1回絵画展覧会に「清水湾」「帝国劇場」「南国」が入選。
●1913年 門司から日本郵船三島丸で渡仏。この年の末モジリアニ、スーチンの知り合う。
●1914年 しきりに立体派風の制作を試みる。
●1917年 シェロン画廊で初の個展を開く。
ピカソの友人である批評家、アンドレ・サルモンが目録に序文を書く。
●1918年 シェロン画廊で2回目の個展。
この頃からフジタの名が広まる。
●1919年 初めてサロン・ドートンヌに出品。出品した6点が全部入選して、その年に会員に推挙され、パリ画壇における地位の確立に第一歩を踏み出した。
●1920年 渡仏以来の研究の結晶である裸体を秋のサロンに出品。
●1921年 サロン・ドートンヌの審査員に挙げられ、いよいよ黄金時代が展開する。
画商が藤田の作品を奪い合った。
●1922年 第4回帝展に「我が画室」(1921)を出品。
●1923年 サロン・ドートンヌ第16回展に「五人の裸婦」を出品。
サロン・デ・チュイルリーの会員となる。
●1925年 第5回帝展委員。帝展に「静物」(1922)を出品。
●1927年 銅版画1点、ルーブル美術館に収められる。
●1929年 17年ぶりに帰国。
東京朝日新聞社屋で個展を開き、大作「構図」(1928)ほか鉛筆デッサン50余点、版画20点を出品。
ひきつづき2回目の個展を日本橋三越で開催。
「舞踏会の前」(1925)ほかデッサン、版画など数十点を出品。
●1930年 パリに帰る。
ニューヨークに渡って個展を開き、またグリニッチ・ビレッジにアトリエを借りて3ヶ月間制作を行い、さらにシカゴに1ヶ月滞在する
●1931年 パリに引き揚げた後、ブラジルに旅立つ。
●1932年 アルゼンチンに入り、さらにボリビア、ペルー、チューバなどを回り、メキシコに着き7ヶ月滞在する。
●1933年 ニューメキシコ、アリゾナからカリフォルニアに渡って4ヶ月を過し、11月に帰国。
●1934年 日動画廊で個展。二科会会員に推挙される。
大礼記念京都美術館開館記念京都市美術展に「メキシコ」を出品。
第21回二科美術展覧会に「メキシコのマドレーヌ」「町芸人」「カーニバルの後」など27点を特別陳列この年、メキシコ風のアトリエを建てる。
●1935年 大阪の十合百貨店特別食堂に壁画を制作。
銀座の喫茶店コロンバンに天井画を制作。
●1937年 横光利一原作「旅愁」の挿絵を東京朝日新聞に連載。
麹町下六番町に京風の純日本式住宅を新築。この年「自画像」(1928)がパリの国立近代美術館に収められる。
●1938年 沖縄に遊ぶ。
琉球作品発表展に「海辺の墓」「琉球の女」など20余点を出品。
●1939年 渡米したのち、パリに着く。
●1940年 第2次世界大戦の戦火迫るパリを脱出し、帰国。
●1941年 良き理解者であった父嗣章が死去する。
帝国芸術院、国際文化振興会から文化使節として仏印に派遣される。
●1947年 ニューヨークのケネディ画廊で近作の展覧会が開催され、好評を博する。
●1948年 近代日本美術総合展に出品。
●1949年 羽田から空路渡米。フランス入国の許可も受けた。
「日本画壇も国際的水準に達することを祈る」というのが故国に残す言葉であった。
ニューヨーク滞在中、51番街の画廊で近作を開催する。
●1951年 秘蔵の労作「我が室内」「アコーデオンのある静物」などをパリの国立近代美術館に寄贈。
●1955年 フランス国籍を取得。
●1959年 カトリックの洗礼を受ける。
洗礼名「レオナルド」。
●1960年 新宿伊勢丹で藤田嗣治展を開催。
●1966年 第2回近代日本洋画名作展に出品。
●1968年 1月29日、81歳で死去。
遺体はノートルダム・ド・ラ・ペ礼拝堂に埋葬される。

藤田嗣治一覧

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