子供の四季

第一回目 童戯 一
色々な遊びの紹介をしています。

     はじめに

  私が少年時代を過ごした、昭和十年前後の頃はどこの家庭にも、子供達は沢山みられた。
 今は廃校になった舞野分校は、約七十戸の舞野部落から就学する。一、二年生の男女を一クラスにした複式学級であったが、常に四十人前後の生徒が学んでいた。此の実体からしても、四戸で1人以上の同級生がいた事になり、どの家庭でも数人の子供をかかえていて、七、八人の子供のいる家庭は珍しいことではなかった。
 私も兄弟は、上から三人が女、その後続けて六人が男で九人兄弟で、私は男の四番目で下に弟が二人いる。現在、大正五年一月生まれの長姉を頭に、昭和七年六月生まれの末っ子まで九人全員生存している。
 子供達が一緒になって遊ぶ時の年齢差は、遊びの種類にもよるが、体力や知力の伴う遊びでは上下の差が二から三歳、その他の遊びでは五から六歳位である。
 私が、小学校に入ったのが昭和十年四月である。義務教育を終えたのが昭和十八年三月である。この頃の遊について、記憶をたどりながら思い出す儘に記してみる。

     ☆正月の遊び

 正月の遊びは室内での遊びが多く、囲炉裏ばたや中の間の炬燵で行う「犬棒カルタ」「イロハカルタ」、そして十二支の動物が描いてある「動物合わせ」、果物を描いた「果物合わせ」、「双六」などで遊んだ。
 また、姉達に交じって、オハジキをやったり、オハジキを握って「何ゴ」と言って手の中の数を当るゲームもよくした。
 時々「ドッピキ」と言う遊びもした。昔からあったもので、お年寄り、とくにお婆さん達が好んだ遊びが、子供達の間でも流行っていた。
 この遊びは、参加人数と同じ数の麻糸を用意し、その中一本に天保銭か一文銭を結んで置き、此れを引き当てるゲームである。落花生や、一銭で十個位買えたビスケットを一回毎に参加者全員一個出し合い、当りを引いた者が全部取る事が出来たので、皆が緊張したものである。

     ☆碁・将棋

 碁と言えば、五目並べ(連珠)で、囲碁は全く知らなかった。碁石などなかったので将棋の駒と将棋盤を利用した。
 将棋遊びと言うと、「挟み将棋」「飛び将棋」「振り駒」「崩し将棋」「駒倒し」の事で、本将棋は駒の動かし方を覚えた程度であった。

 日支事変(日・中戦争)が始まってから、急に軍人将棋が流行った。この時代の時節がらであろう。軍人将棋は、駒が「歩兵」「騎兵」「戦車」飛行機」「高射砲」「間者(スパイ)」「少尉」から「大将」までの駒があり、全て裏返しにし、それぞれ適当に駒を配置し陣地を構築する。
 「飛行機」は「高射砲」に負け、「戦車」は「地雷」に負け、「地雷」は「間者」に負け、「大将」は「間者」「地雷」「飛行機」に負ける。と言うように、立会い人が勝負を判定、し相手の「大将」を負かすと勝負が決まる遊びである。
 トランプの神経衰弱とジャンケンでの勝負を少し複雑にしたようなゲームであった。

     ☆日光写真

 冬休みから春休みにかけての季節に売り出されるものに、日光写真があった。
 板ガラスと厚紙でできた薄い箱型の簡単な装置で、種紙、薬紙で一組になっている。装置のガラスの蓋を開けて薬紙を日光に晒さないようにして入れ、其の上に種紙を重ね、ガラスの蓋を閉め日光に数分当てると、種紙の絵が薬紙に青く写し出される。
 種紙は透明な薄い紙に白抜きの絵が二十〜三十コマ印刷してあった。絵柄は、当時人気のあった「ノラクロ」「冒険ダンキチ」等であった。日支事変が起きると、「軍艦」「飛行機」「戦車」「兵隊」等の戦争に関係するものが多くなった。これも又、この時代を反映していたのだろう。
 種紙は、何度も使えるが薬紙はすぐ無くなる。買い求めるにもこずかいが無く、しばらく休みになる事が多かった。

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