家事と
 農作業のお手伝い

第三回目 続・農作業のお手伝い

    5  託児所

 田植えの時期に、分教場が臨時の託児所の様になった。
 当時は、子供が多かったので、幼児や赤ん坊をおんぶした子守りっ子が大勢集まってワイワイ騒ぎながら遊んでいた。
 佐野先生がおられた頃は、先生の奥さんとお嬢さんの典子さん・和子さんが、保母さん役を務めておられた。典子さんが、童歌を歌いながら一生懸命になって遊戯をされていた姿が印象的で、その時に歌っていた童歌「一かけ 二かけて 三かけて・・・」が未だに記憶に残っている。
 オヤツの時間には、少量ではあるがオヤツのお菓子が配られていた。

     6 大豆(まめ)蒔き

 藤の花が咲くと、大豆を蒔く時期になる。
 この時期は、田植えの時期と重なるので、田植えの合間を見て行う。田植えは水利の関係で、自分の意の儘に自由に出来ず休む事もあるので、その時に行われた。
 大豆は麦と共に畑の大事な作物であり、畑の年貢は大豆で納めるほどなので、おろそかに出来ない。
 大豆蒔きの時、子供の仕事は、大豆の種を蒔いた後に土をかぶせる役目である。少し色づき始めた、胸の丈ほどある麦畑での仕事であった。
 この時の隠れた楽しみは、こっそり所々にとうきびや粟の種を蒔く事であった。あまり蒔くと叱られるので、一畦の中の二・三ヶ所に蒔く。種を蒔く場所は昔からのしきたりで決まっていて、畦の初めから一・二メートルの所と中央部である。
 粟の種は、数ヶ所蒔いても良かった。トウキビはあまり大きく成らないが、春に早く蒔いた物が無くなってから食べる事が出来た。粟は、小鳥を飼うときのエサに利用した。

     7 かいこ(蚕)

 養蚕の最盛期は過ぎた時代であったが、それでも蚕を飼う家は多かった。
 昭和十四年の宮城県に於ける養蚕に関する総計は、次のようになっている。
     桑畑・・・・・・・一万四千三百町歩
     養蚕戸数・・・三万二百六十戸
     掃立数量・・・二百五万七千グラム
     収繭高・・・・・六千五十トン     である。

 養蚕農家一戸平均で見ると
     桑畑・・・・・・・四反七畝
     掃立数量・・・七十グラム
     収繭高・・・・・二百キログラム   になっている。

 蚕の飼養は春から秋にかけ、三から四回行われるが、春に飼養する蚕は収繭量が多いので、最も多く飼育する。

 昭和十四年発行の小学算術(五年生用)教科書に次の様な問題がある。
  「種紙カラ カヘッタ ケゴ 一グラムニハ、ケゴガ ヤク二千五百匹イル。
   ケゴ 一匹ノオモサハ 約何グラムカ。
   マユ 一ツノ重サヲ 約二グラムトスルト 
   ケゴ一グラムカラ マユガ 何キログラム トレル コト ニ ナルカ。
   マユ一キログラムヲ 一円二十銭トスルト 
   ケゴ一グラムカラ トレル オ金ハイクラカ。」と言う問題である。

 この頃、家では毎年二・三回、蚕を飼養していた。春蚕と秋蚕、晩々秋とある蚕の掃立の中、春蚕は必ず飼育し、他の掃立時期のものを一回か二回飼育した。掃立数量は、春蚕が三十〜五十グラム、他の時期は二十〜三十グラムを飼育した。
 種紙の卵の孵化は、地区の中央にある共同孵化場で行い、孵化した「ケゴ」を家に持ってきて飼育する。
 孵化したばかりのケゴは黒色で毛が生えている。非常に小さく、目を凝らして見ても一匹づつ識別できない程である。それが一ヶ月位飼育すると繭を作る様になる。その間に、四回脱皮を繰り返し、脱皮の度毎に倍に成長し、繭を造る頃には六センチ程まで成長する。

 蚕の成長過程(★は、脱皮期)
    孵化→ケイゴ→★一眠→★二眠→★三眠→★四眠→上族→蛹(繭)

 蚕の成長過程は、上記の通りである。
 脱皮する時は一昼夜くらい、桑を食べないで頭を上げたままじっとしている。
 蚕を飼育する器を「ワラダとかサンザ(蚕座)と言った。ワラダは、直径三尺・高さ二寸で、竹で目を荒く編み内側に薄いムシロの様な物を貼りつけた物である。昭和十四年頃から木箱も使われるように成った。
 掃き立て後の稚蚕の飼育は難しく、蚕室内の温度・湿度・換気等の管理に注意する。
 蚕室には、乾湿温度計を二カ所に取り付けて監視し、温度が下がると暖房を入れた。暖房は、蚕室の炉を造り炭火を入れたり、火鉢や大型の練炭コンロを入れた。温度は、蚕の成長に非常に影響する為である。蚕が卵から孵化して、上族するまでの標準的な期間は、春蚕で三十日、夏蚕で二十五日、晩秋蚕で三十五日である。

 養蚕の道具として珍しい物に、蚕の成長に合わせて桑を切り刻むのに使う、普通の包丁の二倍もある桑切り包丁と、一枚板で造った幅二尺・長さ三尺位の桑切り板があって使われていた。
 五十グラムの蚕を飼育しても、初めの内はたいした事ではなく、一人で世話する事ができるが、三齢になる頃から食べる桑の量も次第に増え、また、ワラダの数も倍増する。三眠から起きて四齢になると、蚕は一段と大きくなり、ワラダの数も五〜六十枚に成る。
 この頃から、子供達も桑摘みやコッカス(蚕粕)運びを手伝う用になる。四眠から起きた蚕は、見違える程大きく成る。上族するまでの期間は人手が幾らあっても足りない程忙しくなる。

 春蚕の飼育は、田植えの時期に重なるので、蚕に最も手の掛かる時期が、田植えの終わった後になる様に掃き立ての時期を調整するが、天候や水利の関係で田植えが遅れ、蚕の方が進んで繁忙期の重なる年もある。
 蚕の脱皮した皮や食い残した桑、糞等をコカス・コッカスと言い、取り除く作業を「しただて」と言う。「しただて」はワラダのいる蚕の上に、ワラダより少し小さめの網を掛け、その上に桑をふりかける。蚕は、桑を食うために上がってくる。蚕が桑の上に乗ったのを見計らって網ごと別のワラダに移し、使用していたワラダに残ったコカスを廃てる。
 この作業は、蚕が大きくなる五齢期になると毎日行う。この頃になるとワラダの数は、掃き立て量十グラムに当たり四十五枚で飼育するのが標準なので、五十グラム飼育すると二二五枚に達する。コカスの量も相当な量になる。コカスは、良い肥料になるので堆肥場まで運んだ。

 蚕が繭になると、大勢の人が集まり「繭かき」をするが、手伝った記憶がない。家で最も多く蚕を飼育したとき六十グラムであった。この時は思いのほか豊作だったのか、台所にまで上族の棚を造ったので、窯で火を焚くことができず、炊事と食事を作業場でした。

     ・・・今回は、ここまでです。・・・・
                   ・・・次回をお楽しみに・・・・・

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