家事と
 農作業のお手伝い

第一回目 家事の手伝い

昭和十年代で小学生時代を過ごした者達にとって、家事の手伝いや野良仕事の手助けは、極く当り前の事であった。年齢や体力に応じて、それぞれが出来る範囲で雑用を手伝った。
 家事に関する子供の仕事として、庭掃除・板の間と縁側の拭き掃除・お膳出し・雨戸閉め・水汲み・風呂炊き・薪木運び等である。

 庭掃き(掃除)は毎日ではなかったが、汚れ具合によって一日置き位に掃除した。
 板の間の拭き掃除は夕方に毎日行い、掃除が終わるとお膳を出して揃える。初めに釜台を出し、次に各人のお膳をそれぞれの席に揃える。そして、子供達の用の飯台を出し食器を揃えて子供の仕事は終了する。
 外廻りの仕事としての水汲みは、炊事場の水瓶を一杯に満たし、その他に大きな手桶二つと小さな手桶一つに汲んでおく。井戸は車井戸であった。
 当時、井戸から水を汲む方法として、竹竿に桶かバケツを取りつけて汲み上げるのと、てこの原理を応用した撥ね釣瓶が一般的で、井戸に屋根があり滑車を取り付け、ロープの両側に桶を取り付けて交互に水を汲み上げる方式の車井戸は殆ど無かった。

 風呂は五右衛門風呂なので、沸き上がるまで付いて居た。燃料として杉葉・大豆の殻・小豆の殻・荏胡麻(ジュウネン)の殻等で、燃える物は何でも焚いていた。
 大風の吹いた後に杉林に行って、風で落ちて杉の葉を拾ったりして、焚く事もあった。
 煙草を作付けするようになると、葉を取り終えた煙草の茎を乾燥して燃料にした。煙草の茎を燃やすと煙で喉がおかしくなる事もあった。又、山に生えている、熊笹に似た竹殻を焚いたりした。竹殻はそのまま焚くのには長すぎるので、半分に折って焚いた。その他、生の竹を刈り取って乾燥させた物も焚いた。これは、弾力がありなかなか折れないし、折れる時に竹が裂けるので手を切る事もあり苦労したものである。
 燃料に種々雑多な物を焚いたので、竈(かまど)の中や煙突が煤で詰まって、竈の燃えが悪くなるのが早かった。特に松葉や煙草の茎などを燃やすと早く詰まったものである。その為、竈の中や煙突の掃除は度々やり、燃えが良くなるように土管を都合して、煙突を高くしたりしたものである。
 風呂が沸くころには、籾殻を竈の両側に入れて燻し、それにより風呂の湯が冷めるのを防ぐようにしていた。
 近所の友達の家では鉄砲風呂なので、焚きつけに薪を使い、薪が燃えると亜炭を入れる。風呂が沸くまでに、一回か二回、亜炭を継ぎ足せばよいので、楽な風呂焚きであると羨ましく思ったりした。
 夕方に燃料となる薪木等の運びも子供の仕事である。
 当時、家で使用する燃料の量は一日当り、冬季を例にすると、柴木が一丸(直径約五十糎・長さ百五十糎位)、大豆殻一丸(直径約五十糎)、割木十五本位、それに籾殻百リットル位消費していた。これらは、毎日補給していた。

 又、この当時に、籾殻を専用に炊くことの出来る鉄製(鋳物)の竈が流行し始め効率がよく経済的だったので、ご飯は専らこの籾殻焚竈を利用して焚いた。
 籾殻は、完全燃焼しないと、取り灰が暫くしてから発火する恐れが有り、灰の取り扱いには、厳重な注意が必要であった。
 寒さが厳しくなると、炊事や掃除・馬の飼料を調合するお湯を大釜で沸かしたり、暖房用に日中でも炉端に火を焚くようになる、その分使用量も多くなり運ぶ量も必然増える。雪が降ると薪木を木小屋からソリに積んで運んだ。

 私は、兄弟が多くこれらの仕事を二人一組でやる事が多く、姉達が小学校の高学年の頃は、家の中の仕事は姉達がして、外の方の仕事は男兄弟の受け持ちで、年齢順に力仕事をした。
 私が、小学五・六年の頃、姉や上の兄が小学校を卒業したので家の中の仕事も小学校に通う男兄弟だけでする様になり、夕方遅くまで遊んで帰りが遅れると兄達にさんざん叱られることも度々あった。
 すぐ上の兄は体格が良く、力も強く、進んで仕事を引き受けて私の倍も働くので、兄に随分助けられた。
 特に雨戸閉めは、戸袋から雨戸をレールに乗せる時、うまくゆかず中々乗らなくて苦労すると、力のある兄に助けを求めると兄は直ぐに来ていとも簡単に雨戸をレールに乗せるのであった。
 歳の離れた幼い弟や妹がいる家では、年上の子が小学校の二・三年になると、子守りとして宛てにされ一人前の様に扱われ、任せられる様になり友達と遊ぶ時でも背負って子守りをしていた。私は兄弟の末の方で下に弟が二人いたが、歳の差があまり無かったので、背負って子守りをした経験は無かった。

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