蒼  天


 窓外に、地球が青く輝く。
 ――あの時、デーモンの顔を見られなかった…
 手応えを確かに感じていながら、迫り来るものを払う術も無かった。加速を増して追いついた闇が総てを一息に覆う様を、それに気付かず向けられた顔々の輝きを、彼らは黙って見守り立ちつくした。あの時がまざまざと甦る。
 ――ここなら…
 どの次元のどの時期なのか知らないが、今度は間に合うかもしれない。だから、ここでもう一度やり直せと、デーモンがそれでまた不機嫌になるのは目に見えていても言ってやりたかったが、辺りには誰の気配もない。
 船がまた、次元の狭間に鼻先を入れた。

 「おじさん、なにしてるの?」
 子供の声で目覚めた。辺りは明るくもやっても覗き込む顔だけがひどくはっきり見える。自分が何をしていたか思い出そうとしたが、記憶が辿れない。
 とりあえずオジサンではないと答えようとした時には、子供は既に少し先をよじ登り始めていた。もたれていた岩肌が、丈長の植物で厚く覆われて柔らかい。
 息づくもののような温もりを手に、ぼんやり見ていると、上から声を掛けられた。
「おじさん、ほら、ここが目だよ。」
「オレは、オジサンじゃ… メ?」
 言われてみれば、自分がつかんでいるのも足元から膝まで覆っているのも総て、草ではない。
 子供は長い毛の滝を肩と脚とで押し分け奥に入り、緞帳のようなまぶたを両手で引っ張り上げた。濡れた巨大な輪郭が、光を照り返して明るい茶色に見えた。瞳孔の端が収縮したが他には何も起きない。胸の辺りまで持ち上げて覗き込んでから手を離し、次には鼻の方からにじって、さっき彼が登ってきた下の段に降りていく。
 追いつくと、今度は口の端らしきものを手で押し上げて中を覗いて見せる。黄みを帯びた象牙の円錐が並ぶ。ぬるい息がその間から顔にかかる。次には下あごの上に身体をのせて、奥に横たわる舌を突こうと足先を延ばした。
 危ないと言いかけてそれもオジサンかと思い直し、口元に片膝を付いてざらざらの皮を撫でる。温かい、不思議な感触。弦のような透明なひげが疎らに長い。腕にかかる茶の毛を見ていると、安心できる気がした。それにしても巨大な姿…
 ――ここは何処なんだ?
 「まだ、名前を聞いてなかった。」
 振り返って、子供が答えた。
 「ないよ。ここには、僕とこの犬しかいないもの。」

 何という現象だったか、通常空間が闇をついて覗く。
 「あ、また見えた。」
 雲に見え隠れするように、地球が消えては現れる。
 「ずいぶん嬉しそうだ。」
「そりゃあ、さ。」
 ライデンの笑う顔がいい。
 夜道に人を慕って追いかける、月の話を思い出した。

 川底の砂をすくい、揺らしては流す。流してはすくう。繰り返される動作は機械仕掛けのようだし、注がれる視線に他の色なぞ映らないだろう。強い日差しと水の反射で肩も腕も赤銅に光り、そして乾いている。顔には深いしわが幾筋も刻まれて、この男が、縁の欠けた皿一枚で叶えられる夢の最大限を今もまだ信じているようには思えない。
 午後の太陽は垂直に照りつける。岩陰に入っている身は何とかしのげるが、川原の石の上の光景は陽炎に揺らいで確かではない。ようやく、男が川から上がってきた。人に気付いて、真っ直ぐに歩いてくる。
 挨拶すると、相手は暫くモゴモゴしてから口を開いたが、枯れた声は風が吹くようで聞き取りにくい。
 「…おぉす。あー、なンだ、独りか?」
「ぶらぶら、旅をしてる。ここは、採れる?」
「見りゃ、判りそうなもんだ。」
 無論見渡す限り生き物の気配なぞないが、男ははさして不機嫌でもなげに答えて、近くの影の中に寝ころんだ。ひどく疲れたような緩慢な動き。
 「東から来たのか、向こうの景気はどうだ?」
 尋ねられても、過ぎてきた道筋には栄える街など形も残ってなかった。
 「…ずっと、ここでああしてるの?」
「ここは十五からだ。その頃はけっこうこの辺も賑わってたもんさ。親父の従兄弟はこんなでかい塊を向こうの山で掘り当てたそうだ。」
「それで?」
「金に換えに街に行ったきりさ。待ってた女房がいなくなって、子供も誰かに連れて行かれた。それで、一年もたったら文無しになって戻ってきたとさ。そのうち一人去り二人減りで、ここもみんな居なくなっちまったな。」
 作り事のような、誰ででもありそうな話。見ている内に大きさを示した掌がどんどん離れていくのが可笑しい。
 「あんたは?どうして一人で残ってるのさ?」
「そりゃあ、」
 男は濃い陰の中で、歯茎を剥き出すように笑った。急に欲望が甦ったような生々しい生気を感じたが、言葉の方はそうでもない。
 「オレには女房も子供もなかったからさ。それにでかいのを拾い当てて殺されることも殺って盗ることもなかったし、大水で流れが変わったりもせんし。…それに、これがいつ出来なくなる仕事でも…ないしな…」
 言葉の尻は消え入るように、寝息に変わっていった。
 「つまり、自分では離せないって事か。」
 自分の独り言に妙に気分が苛立って傍らを見ると、老いた男はそのまま石になっていた。
 ――オレが、こいつの時間を区切ったっていうのか?
 丸みを帯びたその人型を、踏み砕きたい感情にかられながら、川縁を離れてまた炎天を歩き出す。男が旅人に煙草も食料もねだらなかったのを思い出した。

 「やり直せたらいいのに…」
 言ってしまった自分の言葉に驚く。そんな事をまた考えていたのかと思い、そして唇を歯が突く痛みを感じ取る。
 正面のコンソールパネルの情報に、もう一つの惑星と寄り添うような、地球の青い姿が映し出されている。
 顔を前に向けたまま、エースが横目に言い捨てる。
 「デーモンは頭は切り換えても、場所を置き換えられる奴じゃない。」
 そんな事は判っている、言い返すのも不快で口をつぐんだまま、パネルの映像角度を切り替えた。

 闇を踏み外して、奈落を墜ちた。
 絶叫―― 漆黒にすがろうとした爪が空を裂いて、一瞬覚えのある横顔と肩が見えた。それもすぐに向こうの世界の眩しさにかき消され、姿を切り抜いた残照だけが目を射す。
 どこまでもどこまでも、感情以外に外圧のない落下が続く。上昇しているのか、あるいは、高速で真横に移動しているのかもしれない。
 先の自分の声がオーラのようにまとわりつく、それだけが見える気がした。
 ――声か… オレは誰に求めるつもりだったんだろう?
 声は相手を求めるものだ、自身以外の存在を認める、反応を期待するものだ。声高に唱えているような、何かのそんな一節を思い出す。掛けるだけが言葉ではない、掛けられて受け取るものが言葉だと、次の行を足してみる。
 ――みんな、当たり前のことしじゃないか。
 超常の事態の最中、暢気にお返事を考えてみる悠長さが自分にあるとは思わなかった、それに苦笑ひとしきり。
 途端に古い映画のように、砂漠の光景が暗黒を切り取って眼下に広がる。足跡を長くうねらせた、姿二つがあまりに小さい。一人が振り返るように太陽を見上げた。
 それも、フィルムが巻き上がるように直ぐに消えて、また総てが元の奈落に戻る。
 見えるもの聞こえるもの触れるもの味わうもの…どれもがなくとも、例えば夢は現実のように見える。
 今がそれだとは思えない。

 地球は、どれだけ眺めても飽きない。
 激しく寄せて引き静かに戻す、感情を胸に繰り返しながら、青く美しい惑星を見ていた。
 亜空間を繋いで赴く、平穏な旅の途中。別の次元でもこの惑星は、どれも違わず心を魅せる。思い入れた深さ故か、成就できなかった事へ募ってやまない悔いの念か…
 「…だけど、きれいだねぇ…」
 傍らに立つ連れを見る。ゼノンは自分の言葉とそれへの反応に気付いた様子もなく、いつもの横顔を窓の外に向けたままでいた。

 街の雑踏の中を歩いている。賑わいやら飾り付けやらが何を当て込んでのセールなのか判らないが、午後の早い時間にもかかわらず人が多い。
 気晴らしや気紛れに街にはよく出る。旅の支度や次の季節のスーツ捜しのこともある、誰かと落ち合って飲みにも行く。どちらにも、沈んでいる時は何にも出会えないし、気分のいい時は掘り出し物が向こうから飛び込んでくる、あれこれ脈絡のないことを思いながら歩く。
 路地に入って一番先に目についた店を覗く。エスニックの小物や布が一杯に広げられて、並べてあるものは確かにどことも変わらない。それでもひとつ、鮮やかに色ガラスをはめ込んだ、逆錐のイヤリングが周りを圧倒する。
 耳に金の輪を三つばかりぶら下げた髪の長い女が、奥で腰を上げながらにっこり笑った。若くはない、十年ほどガンジスとユーフラテス辺りで水回りを済ましてました、そんな感じがする。
 「ちょっと髪が長いんだけど、これ、引っかかっちゃうかな?」
「ああ… 長くないから大丈夫だと思うけど。ウェーブで半分隠れるし、かえってうるさくないかも。ピアスにも戻しますよ。」
「穴は無いんだ。じゃ、これ。」
 女の子の三人連れと入れ替わりに店を出て、空を見上げ腕の時計を確かめる。そろそろ、駅に寄ってロッカーから荷物を出した方がいいだろうか。

 制御室に入ると、案の定デーモンがコントロールパネルの地球を眺めていた。追い払われたのだろう、他には副官も誰もいない。並んだ椅子に腰を下ろした。
 「…デーモン、あそこでもう一度やり直したいと思わない?」
 片眉を少し上げたまま、答えがない。
 「オレはさ、思うよ。何度でも何度でも、今度は少しは違うことが出来るんじゃないかって、きっと思うよ。…いつかずっと先でも、本当にやり直すかもしれない。その時はさ、来てくれるだろ?手伝いになら。」
 言うだけのことは言った。これは自分の言葉だから、向けられた顔の、いぶかしげな目が和らぐまでの長い間を、待つ。
 「タフな奴だな。…ダメージの大きな割に。」
 呆れたような顔に、少しかすれた声。
 「おかげさまで。何しろ皆さん、面倒見がいいから。」
 とびきり明るそうに笑いながら答えると、デーモンはまたパネルに顔を戻した。その頬がもうひくついているのは、機嫌良さを耐えているせいだ。何がそんなに嬉しいのかと、鼻にしわを寄せる様を実演しながら、たとえ誰でもいいけれど今は自分がデーモンの脇にいることに満足して、出来るだけ顔を並べるように地球を見上げた。

 街は薄青い霧に包まれ始め、時は既に夕刻に近い。石畳の道端にタロットを並べていた娘が顔を上げて、今めくったばかりの一枚を彼らに差し出した。それは暗号でも謎かける手紙でもなく、骸骨が立って笑った『死』のカードだった。
 温めていた手を直ぐには出せなかった。デーモンが革手袋のままで受け取り、エースが覗き込みながら低い声で何か言うが聞き取れない。ライデンが割り込み、ゼノンは向こうから札を読もうとしている。それを、一番近い位置から肩越しに振り返って眺め、また目を戻した。
 見上げたまま、娘はとても困った顔をしていた。通りがかりの彼らに出た『宣告』を思わず渡してしまって、それをどうしたらよいか判らないのだろう。受け取り損ねてしまった立場にしても、動きがとれない。
 カードがエースからデーモンに戻り、そしてルークに返る、それを今度は手を出して受け取る。
 「逆位置、逆さまにして返してやれ。」
 ルークは言われるままにした。
 娘はまじまじとその経緯とカードを見ていたが、もう一度顔を上げて硬く笑った。
 「…ありがとう…」
 また歩き出してしばらくしてから、デーモンに文句を言った。
 「ありがとうはおかしいんじゃないか?ごめんなさいなら、判るけど。」
「そうだな…」
 答えはしたが、デーモンは笑っていた。エースがその肩を肘で突いている。だって変じゃないかと思いながら、また馬鹿にされるのも腹が立つから、別のことでわいているらしい後ろの会話に入り込むことにした。
◇蒼天◇完

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