「デーさん、水の匂いがする。」
 不意にライデンに明るい声を掛けられて、我に還った。
 「みず?」
 問い返しながら、内心おおいに慌てる。いつの間にか言葉が途切れていた、その事すら頭を離れていた。そのままどれだけの長さを二人で歩いて来たのだろうか。荒野は、いつの間にか砂漠に変貌していた。
 が、ライデンは前方に意識を集中したままで答える。
 「うん、これはやっぱり水、…流れている水ですね。」
「また、空軸が歪んでなければいいがな…」
「えー! そんで匂いだけはこっちに来るってのもありなわけぇ?」
 ムキになって問い質す相手の無邪気さに笑いながら、それでも楽観はできない、言葉だけは慎重を期す。
 「無いとは言えん。さっきの砂漠もそうだったろう?パネル一枚分の砂嵐だけで。」
「ちぇーっ! オレ様は、水が飲みたーいっ!」
 ライデンが空に向かって咆える。彼がそこまで言葉にするからには、流れは確実に近い。歩くほどに食べたい飲みたいを言わなくなった、その性分をデーモンは殊更に痛感している。だから自身の気細さに腹を立て、それを隠すために声のトーンを無理矢理に上げる。
 「よし、その野生のカンに期待しよう。…どっちだ?」
「まーっすぐぅっ!」
 ぶんと腕を振りあげて、ライデンは大股に歩き始めた。

 一つめの小さなオアシスは枯れていた。次の泉は干上がり、灌木がわずかに色を残すだけだった。大地の乾きが、一つ前の時代までの潤いを知るだけに、荒々しく見える。
 その光景の一つ一つに単純な疑問詞を発しながら、ライデンはなお先に進んでいく。デーモンは律儀にそれぞれに応えながら、足元から突き上げ増幅していく不安に引き込まれまいと、必死になっていた。
 地の中を、砂と砂の間を水が彷徨っている。
 地表の流れは既に跡形もなく、伏流が湧きあがるオアシスも、現に後退している。別の茂みがこの先に、これからの時間に育つ希望があるとは、あまり思えなかった。拡散し方向を失くした水が、再び地上に湧きでることが果たしてあるのだろうか?

 「デーさん、人だ、誰か居る。」 
 再びライデンの声に引き戻されて、意識を現実に向ける。一人でもないのにどうかしているとまた思いながら、問われている次の行動を検討する。
 「水守かもしれないな。とすれば、あそこが源流か… 野生のカンはどうだ?」
「あれは絶対に冷たくて、ウマい!」
「そういう事じゃ… まあ、その顔なら、毒も甘露にして分けてくれそうだな。」
 何を言われたのかと首を傾げ、笑って済まされて忘れたライデンが先に歩き出す。楽天であるのも悪くはない。デーモンも、一応は周囲に気を配りながらそれに続く。
 人の姿は、来訪者に顔を向けて待っていてくれた。
 デーモンが姿勢を低くして言葉を掛ける。
 「すまないが、少し水を分けてもらえまいか?」
「喜んで。」
 相手は微笑したまま簡潔に応じた。
 礼を言ってから振り返り、急に遠慮しだしたライデンを手招く。どちらの目にも、それほどに湧き出す流れは予想外に細く浅く、頼りない。
 「どうぞ。あなた方に差し上げて、途切れたりはいたしませんから。」
「ホントに?」
 念を押して相手に肯かれてようやく、ライデンは手をこすり合わせて外気を払い、澄んだ水に差し入れた。一瞬、冷たさにだろう、ぴたりと動きが止まる様を眺めながら、デーモンにはこの心細い流れのすぐ先が見えるようだった。この水量では、伏流にまではなり得まい。目の前の少しばかり先で、焼け乾く地表を逃れて潜っても、四散する間もなく砂に捉えられて終わるだろう。
 「…一人で寂しくはないか?」
 尋ねれば、男とも女とも精霊の類いとも判らない、森人が穏やかに笑う。
 「さして無為とは思いませんし、流れも守りも私一人ばかりではありませんから…」
「その誰に会うことはなくとも?」
「それでも、一人ではありません。」
「…確かに。」
 デーモンは応える言葉が拾えずに辛い気がしたが、相手は変わらず静かな顔を向けたままで、居る。
 「デーさん、」
 ほんの二すくいで全身まで潤いましたと満足顔で、ライデンが呼ぶ。
 その、腰を落として水面に見惚れている脇で、清涼に手を浸す。すくった掌に、自身の疲れた顔と重ねて何かが映り、揺らいで消えた。口を触れると、それだけで渇いた肌にまで生気が甦る気がした。先刻のライデンの声といいこの水といい、癒されて初めて気付く乾きには、戸惑い苛立つばかりだ。
 それも見通しているのかどうか、守人は一つも変わらない声で言う。
 「人を捜しておいででしたら、このままお進みなさい。」
「上流に?」
 ライデンが身を乗り出して尋ねる。相手には、目に見えるだけが総てではないらしい。
 「確かに我々は仲間を捜しているが… 何かご存じか?」
「ここに居ても、時に空の先の景色が見える事があるのです。」
 守人は水に目を落として続ける。
 「これも源流から来たものの一つです。そこからは、総てのものが流れ別れていきます。逆に辿れるのは意志のあるものだけですから、その方も気付かれれば源流に向かっておいででしょう。」
「気付くって、そうじゃなけ…」
 ライデンが気弱く問うのを、デーモンが遮る。
 「この方角だな?」
 「ええ、…どちらにも、あなた方の進まれる先がその方位です。」
 不審げな目に、たたずむ姿が少し揺らぐ。浅い水流が底砂を透かして見せる。
 「ここは、意志を映すところなのですから。」
「…い・し…?」
「あなたがたの、」
 それ以上を言わずに守人は唇を閉じ、顔を上げ、柔らかく微笑を浮かべた。何ももう答えはしないのだろうと、それは思えた。
 示された先にも、ここまでと変わらず、熱気が揺らいで見える。
 「うーん… イシかあ。デーさん、わかる?」
 ライデンが、困ったよと訴える。
 「あー、意志だからってのはだな… つまりは、ルークが、完全にその気にならなけりゃこっちの次元には出て来れないって事かもしれんな。」
「なんだよ、それぇ…」
「言い換えれば、こっちも、疲れたぞと思ってたら、ここから向こうには行けないって事だろうな。」
「…うーん、そっか。そんなら、デーさん、張り切って行こーか。 …あれ?」
 気がつくと、そこには守人ばかりか、流れも形すら残してはいなかった。
 呆けてしばらくその辺りを眺めてから、二人は並んで歩きだした。
◇窓◇完

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