『 方  舟 』


 陣中、見舞われたフルーツが、南国の香りを部屋に充たした。
 それが殊更に、彼を急きたてる。
 卓上に据えた宝玉の珠の透かす先に、戦局はなお膠着している。天界魔界、双方が将雄を懐に収めたまま、消耗戦を繰り返す。どの持ち札も、現況では確実でもなく、かつ、無為に捨てるは惜しすぎる。この先も向かい合う、その永さを前提に量るとすれば。
 同じものが袖を別って以来、どちらが何を加えたわけでもなければ、己をどう置き換えたこともない。だからこそ、永劫の戦いが続いている。勝利を収めるには、今は《機》しかない。強大な《力》を制する側にのみ、勝利は約されるだろう。かつては天界の側が五次元の《気》を捉え得、魔軍は闇の空域に封じられた。彼が軍を率いて絶対の牢獄を破った時には、天人達は更に着実に歩みを進めるべく、《思考》を持つ小動物をその支配下に置きつつあった。
 その陣に迫ってから、随分な時が経ている。
 束縛の闇からの復活の華々しさに比べれば、今の戦況ははかばかしくない、の程度ではない。地獄で安穏とする貴族どもに彼の凋落が囁かれるのも不思議はなかろう。が、そんなことではない。太子は見透かしている。今、殊更に、彼が言葉にして自問することを。だからこそこうして試すのだ。
 そして、自分はどうそれに応えるのだ?
 いかにも南国の、鮮やかな色彩が彼の視界を攻める。その意味するものと闘いながら、彼は妖美な珠の奥底を見据え続けている。

 音もなくドアが引くと同時に、室内に友人の他に無いのを見取って、エースは指先で襟を開いた。流れ込む湿りが、喉元に心地よい。
 磨き上げられた鏡石の緑黒の卓上には、戦術の地図やら方術書やらを押しやって、フルーツが盛大に積み上げられている。その瑞々しく冷たげな皮の色合いを見るだけで、渇いた喉が潤い甘さがしみ渡る気がする。誰もが、魔界を離れて久しい。
 「これは、珍しい。」
 傍らに種が山とあるのを彼が見落とすはずがない。のぱした片手にかるく二つ収め、後ろ手に、廊下に姿勢を正して戸の閉まるのを待つ副官の胸元に片方を放ってやりながら、顔は奥の戸口を覗き込む。背で室内からの物体に動きを止めたドアが、静かに閉じた。
 「デーモンはまだ籠もっているのか…」
 「そーぉ。何が気に入らないんだか… 皇太子からの差し入れってったら、少しは嬉しそうな顔でもするかと思えば、しかめっ面のまぁーんま。」
 ライデンが不機嫌に訴える。
 「…ダミアンからか!?」
 思わず、エースは手の果物を見た。
 かの皇太子は、彼ら魔族には絶対の存在である。天界を是としないものが魔界を率いた時から今に至るまで、彼は父王の右に立ち、軍事を統べてきた。彼らの歴史が戦闘に終始する以上、直接的には皇太子が実権を任されていると言って過言ではない。
 そして、デーモンは自身の族の後継者として、彼に近く、魔王の左に在った。それだけ間近に見続けたからと割り切るしかないほど、デーモンのかいま見せる皇太子への敬愛と信頼の意志は強い。
 相手もそれを承知で、かえって功労なぞは他の軍臣や民に対するより冷淡に見える。デーモンが個として下賜されたものに至っては、あの終焉の闇から魔界を救った時の、水晶玉一つ。たとえそれが真理を占う特別の《力》とやらを持つ宝だったとしても、最初で最後の褒美であることは何ら変わらない。それでもそれが象徴とでも言うのか、彼はことあるごとに見据えて籠もるし、口の悪い友人どもに、寝る前にはひざまずいて拝礼するのだと酒の肴にされようと、不機嫌顔で無視している。
 そのダミアン皇太子殿下からの、前例のない心づくしを、なぜ喜ばないのか。今更、旧い友人、それもとりわけストレートなライデンを相手に照れる必要もない。唐突な陣中見舞いに、あからさまに含みを見たとして、まずはかの尊き名に反応しないとは…
 「ま、そりゃ、誰がくれたって、食いモンには変わりないし、ウマけりゃそれでけっこうだけどさ。」
 ライデンはそう言いながら、向かって座を占めている相手に、山の頂点の巨大な果実を放った。胸元を急襲する存在を案外す早く手に収めて、古い巻物から顔を上げたゼノンが室内を見回す。
 「ライデン、ルークは?」
 そう言われてようやく、エースも彼の不在に気付く。
 ルークは参謀職だ、デーモンの近くにいる方が圧倒的に多い。いや、むしろ逆だったか、ともかく、彼は陣内をうろつき回るタイプではない。ましてやこの蒸し暑い時に、むさ苦しい連中と権威振り回す奴らのひしめき合うところを。第一、こういう状況のサポートは彼の役目だ、単純に当人が不機嫌になって相手を我に返らせるだけにしても、大抵の場合はそれが一番に手っ取り早い。
 「ああ、えーとぉ… デーモンには、ザリューライトに向かうって伝えてくれって、少し前に出て行った。」
 ライデンが、必死に地名を思い出す顔で答える。
 ザリューライトは、最新の前衛基地の一つだ。彼が訪れても不思議ではない。が、エースは割って入ってライデンを問い質す。
 「デーモンには、伝えてくれ、って?」
「うん。そんでさっき、こいつ持って入った時に言ったけど、聞いてはいたけど、ムッとしたまんまだったね。」
 とっさに閃いた言葉を遮って、ゼノンが席を立ち瞬時に部屋を出て行った。
 それを見届けるだけで、残る二人はまだ身動きもできずにいた。ただ、ドアがその勢いに反応できずに破壊されるのではないかと、少なくともエースは思った。外に控えていた従者が怪我を免れたのは、ひとえに職務に忠実に、背を壁に押しつけたままで主人の次の行動に身構えていたおかげだったろう。
 電光石火とは、例えばこういう時の彼の行動である。
 「全く、超越したお仁だ。」
 エースは肩をすくめ、苦笑する。ライデンはまだ唖然とした顔で、彼以上に呆然と壁にへばりついたままの軍服を隠し終えた、無表情なドアを見ていた。

 言葉。これほど鋭利ながら不確かなものはない。
 彼がそれを覚悟せず、そして殊更に思い知らされていないわけがない。それでも打ちのめされる度、彼は総身の気力を奮い興し、跳ね返ってくるものに対峙し続けてきた。そう課することに疲れたとも、導こうとする相手に失望したのだとも、思いたくはない。が、真摯な言葉で言えば、現状での彼の行動は《啓蒙》である。同時に、最悪の表現を借りても、それは確かに《啓蒙》でしかない。
 羊に道を説いてどうする、柵を越えて荒野の先を目指すと思うか? 高い声でルークは彼を詰問した。
 否。彼は言葉にせずに答える。どれも、彼らには、加えられた余剰でしかない。とりあえず守り生を約してくれる主を離れる者があっても、誰が続きはしないだろう。群れることの安全を彼らは本能として知っている。それでも…
 いや、ただ従順に《力》を供されるのではなく、確かな味方に加えてこそ、《思考》は彼らにも意味を持つ。能を備えた者の強い信念の上に、《力》は最大に発揮されるはずのものだ。気付くに至らなければ、《思考》も彼ら自身も、その存在に値することなく、道具として失せる。己の意味を持たぬ者を使いたくはない。
 こうした彼の姿勢と、それが招くだろういらぬ評判。ルークに限らず友人達が心配するものが、判らないではない。が、それを思いやるほどには、今の彼には余裕がなかった。

 蜃気楼のように、淡いオレンジの太陽が揺らぐ。
 座り込んだ岩は不安定に振れながら、その位置からは丸くふやけた壁に見える惑星を回っている。雲に和らげられた緑や青の色合いも姿も、今は幻でしかない。歪んで重なり合う次元が、彼にそれを見せているだけだ。昔日にここにあった惑星の本当の姿を、彼は見たことがない。前に訪れた頃には、この辺りには何も、宇宙そのものすらなかった。彼らがようやく闇を破りこの辺りを通過したのは、それが砕けたずっと後だったし。どちらにも、今見える光景の、その真意はわかりはしないと彼は漠然と考える。
 当たり前のことだ。総てが、どちらが正しくどちらが本来の姿を見とれるのかなど、判じられはしないだろう。だから、彼らは、自分達は闘ってきたのではないか。己の信ずるものを試す、回り道ながらの手段として。それでも、疑念を抱いてしまった以上、盲信には戻れない。かといって、そのことを掌に温めることもできなければ意識の底にしまい込むなどするわけもない。結局は友人にぶつけ、相手は投げつけたままに受け取ってしまっただろう。彼を引きずりたくてした事ではないにしても。
 何かが頬をかすめ、細く皮膚が裂けた。間をおいて湧きでた血が、前方に走る。次の瞬間にはそれが扁平な球形になって浮き、それをまた何かが突き抜けて砕いた。顔の半分に朱い霧がかかり、片方の眼球をその脂が覆う。自分の血ですら、形を定めない…
 その中に、三角翼機の微細な白い影を見つけて、彼は意識を集中し次元の揺らぎを押しやった。
 自分を捜して来た、また別の友人が傍らに腰を下ろすのを、膝を開いて座り込んだままで、ルークは待った。それから、一つ息を吐く。
 「何だか、ああいうデーモンの傍で落ち込んでいたくなくて… でも、何処にいても、何が変わる訳じゃあない。」
 ゼノンはゆっくりと身体を伸ばしてから、答えた。
 「ここは、きれいだねぇ…」
「うん…」
 ルークも小さくうなずいて、それに比べれば愛らしい自分の意識を、次元の《意志》に任せて解き放った。並ぶ二人が同じ光景を展望するかなど、重要ではない。誰か友人が、捜して見つけてくれることを、たぶん望んでいたのだから。今はそのことが嬉しい、それだけでいいと思う。
 血に染まったルークの片眼は、皇太子から下賜された水晶玉を前に自問を繰り返す、デーモンの顔を遠くに見ていた。

 真理を告げると伝えられる玉はその面に彼の顔を歪めて映すだけで、何も示さない。
 ルークは、彼の避けてきた言葉を突きつけた。教えを説き導くとしながら、意に沿い従うものだけが救われると脅すなら、それは《選民》ではないのか。
 それを指し示し、そしる己は、何をしてきた?言葉を言い換え繋ぎ交わしながら、己の否とするものをそのままになぞり重ねていたのではないといえるか?それを疑念ではなく実は承知していたからこそ、あの闇の中の闘い以上の虚無の思いを、曖昧な言葉と相手への無為に置き換えて、こうして抱いているのではないのか。言葉は裏腹だといいながら、自身すらが不確かで己に答えられもしない。疑惑は彼のうちで急速にあの闇を広げていく。記憶が、彼をまた戦慄させる。
 闇の空域、無為の牢獄の中で彼らを覆い尽くしたのは、見えないものへの恐怖ではなかった。目に見え触れれば温もりのある自分の手が、何を成せず救えないことではなかったか?あれを、お前はもう忘れたのか。
 …お前は、なぜ、天界と闘ってきたのだ。初めからの敵だからか、誰の眼差しに応える為にか、己でなければ勝てないと信じるからか。違う。いや、違うと思うからこそ、闘うのだ。自身がもっとも不確かで応えないものだと知るからこそ、進むのだ。はるか遠い先に奉ずる、絶対のものを確かにするために。…己が、その力で。
 この地の小さな住人達にも、それは《神》なぞではない。己ではないか、最大の《力》を持ち得るに至った。造られた《選民》の伝説に奢り口約束の甘さに酔って、天界の策と力に不審もなく従っていていいはずがない。

 「ルーク !!」
 唐突に、デーモンが奥の間から現れた。
 叫んでから、彼は相手がいないのに気付き、残った二人と見事に平らげられた卓上を見るが、それはあからさまに無視した。
 「ルークなら、何処かに行ったんだろう?」
 返すエースの口調も視線も、殊更に冷たい。それに一瞬表情を変えてから自制にかかる様に、彼が何かを取り戻したのが見て取れた。
 「ゼノンが行ったけどさ、オレ、捜しに行こうか?」
 ライデンもそれと解ったのだろう、鏡卓に脚を放り投げた格好から半身を立ち上げ、張り切った声で問う。どんな瞬間よりも、輝かしい顔で。
 「いや、」
 デーモンの目が、宙にものを追うように動く。ライデンと変わらず、加えて詰め襟の胸元をはだけたままで、エースは言葉を切ったデーモンを見上げ、その視線の先に据えているものを見ようとする。
 確かに彼でなければ、あの闇は終焉だったろう。崇拝が、あのときの彼の強大な《気》に影響したのも否定はできまい。が、この指導者もその上に君臨するものも、絶対だと奉じているわけではない。彼ら自身の選び守る地位や方向とて尚のこと。
 無論、それらの相対の上での己の立場がいかほど怪しいものかも、わきまえたつもりではいる。それでも。
 それでも、デーモンのこの仕草を見る度に何かが自分の内で騒ぐ気がする。
 そして彼らの雄将は、命を下した。
 「ライデンは、天界を攻めろ。」
「てっ、天界ぃー !?」
 勢い余って椅子を壁に蹴り放って砕きながら、ライデンは悲鳴に近い叫びを上げた。
 「そうだ。空域は任せる、天界を落とせ。」
 「待て、」
 エースは姿勢を起こし、それを遮る。
 「どういう事だ。」
 デーモンはそれにかまわず、今度は顔を彼に向け、続く言葉を放つ。
 「エース、ルークとゼノンに南に征けと伝えて、北へ我が輩を追ってくれ。」
「北… 北極か!?」
 弾かれて立ち上がり、はだけた胸を合わせる。頭上にずらした制帽をかぶり直しながら、デーモンの意を探る。落とすと言うからには、今は軍勢の薄い天界、この全頭領格が急行すべき両極。敵も味方も、今は力は同等にしかない、持ち駒を使うに有利な状況を、専攻することで作り敵の同等の強さを一気に逆手に取る。そうでもなければ、互いを倒すことはできないだろう、その、ここしばらくの探り合いを切るに足る現況、それは何だ?
 少なくともこの次元の生き物どもの、言葉尽くし語り継ぐことに執着する習性に乗じて、天人達はすでに《神》という地位と信頼を確立させている。暗示として与えられた、いかにも象徴的な数多の伝説。敗者には不徳と奢り、不名誉ばかりがつづられ、悪魔の密やかで甘い誘いに加えて、彼らの脆い心まで道具立てを並べて。
 伝説! 《神》は、この面倒を一息に押し流して見せようとしているのか? 自分たちは、鮮烈の放つエネルギーが時空を歪めるのに馴れすぎていた。いかに、環境の激動をものともせず生きながらえる種族とはいえ、この続く暑さに疑惑の余地はいくらでもあったはずだった、それに思い至らぬほど愚鈍になっていたとは、不覚。
 「おーし!何だかわかんねーけど、考えるのは任せて、行ってくるわ。上手いこと行ったら、危ない方に加勢に征くからさ!」
 ライデンは、満々に自信をたたえて放ち、勇ましく駆けだしていった。事の初めから信じる側に組みし命懸ける立場の強さを、エースは真顔で見送る。
 そして次の瞬間には、彼も長い廊下を走った。ライデンの愛用機が飛び立っていく、そのすさまじい雷鳴の轟く中、彼は途中からぴたりと後ろを追う副官に命令を放つ。
 「半陣は残して護衛につけろ、人選は任せる! お前達は、総指揮に従え!」
 デーモンの無視して放る領域を彼がカバーするのは、毎度のことだ。あらゆる可能性とその確立を並べて検討しても、足りないのは判っている。それでも、随分長く身近く付き合ってきた、それがデータの不足を補ってくれるはずだ。彼は自身を信頼する。何より不確かなのが自分だと、彼も知っているからこそ。

 手配するまでもなく、行程の途中、その声で連絡が入った。
 期待するほどではないが、声は明るい。なに、戦地に立てばそんなことは言ってられない、参謀職とはいえ彼も無敵の将の一人である。同行するゼノンの電光石火の確実に疑う余地はない、二人に急を告げ、そのまま極北に機首を向ける。確かにこれが想定上の合理ではある、けれどそれ以上に今のルークにはゼノンを組ませた方が共鳴は高いだろう。それで残る自分が相棒になることの効率に、差し引きが十二分マイナスにはなるまいと弾いても、デーモンはきっとそれ以上の期待はしてはいまい。
 彼の計算法の、何と懸命なことか。奴は、自分の認める位置でしか己を加えない。何を除しもしない。その記した答えに、誰がどれだけを加えるのやら。エースは、低く笑う。とりあえず今回はデーモン閣下のイコールの上に、不当分記号でも書いてみようか。多少は遠慮がちに。

 衝突は既に始まっていた。
 デーモンに従ったエースの軍勢は、上空から極冠を取り巻いて攻めかぶさっている。デーモンと彼の精鋭の手勢は既に氷上に降りているようだ。ライデンが天界を落とすと確信していなければ使えるものではないが、いかにもデーモンらしい一手ではある。
 中空を押し下げられてゆっくりと降下する天使どもの上から見ても膨大な、強弱の光輪。何処かで遠望する人間には、白く輝く巨大な噴煙にでも、それは見えるだろうか。
 デーモンの《覇》と、それに歪められて幾重の次元から絞り出された《気》が、辺りを色淡く満たしては方向を定めて瞬時に突き抜ける。それに共鳴し上空を掃射する、色様々の多重の閃光。逃げる場も間もなく粉々に砕けて舞いあがり吹き荒ぶ、天使達のダイヤモンドダスト。すさまじいばかりの寒気が、結晶になって走る。
 これが奴の、見る度に底知れないと戦慄させる、そして今の《力》… いかにも、随分と長くデーモンに付き合ってきたものだ。エースは目を細くして中空を見下ろし、次の瞬間にはきつく見開いた。背後に迫った大羽根の天使を、振り向きざまに閃光で打ち落とす。
 重圧を更に急速に増すよう指令を放ってから、エースは青い氷柱となって急降下し、眼下にデーモンの姿を捜した。


 戦いは、今も続きそして新たに始まるのだ、幾重にも誰にとっても。
◇方舟◇完

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