雨の始まる日 |
回帰線上から入り、大洋を眺めながら一巡りする。 かつてはこの惑星でも活発だったろう地殻の対流の名残りが、細い突起を波間に連ねている。海の色の不思議さは、それに沈んだ大陸の地形にでも由るのか、未だ続く噴火の為せる技か。 高域を飛ぶ船からは、魚影も海流も確認のしようがなかった。それは唯一の大地の上空にさしかかっても変わらず、ただ一面の乾いた草原と疎らにのぞく岩地だけが見えた。 「久しぶり!元気そうだね。」 空防が開ききるのももどかしくすり抜けて、この地に尋ねた友人の腕をつかむ。 「何とか、風にも間に合ったみたいだし。」 二つめの言葉を聞いてから、友人がようやく答える。 「うん。でも何だか少し、痩せたんじゃないかなぁ?」 「え?」 予想外の問いに間をあけてしまってから、それが自分でもおかしくて少し笑う。 「ちょっと、ハードだったかな、この頃…」 一人に馴れてからの今の方がよほど大変なのだと、この旧い友人にさらりと言ってしまうのも無駄でも迷惑でもなかったろうが、セ・エ・ラクシュアはそのまま口を閉じて辺りに目を投げる。 草群れは、地に降りてみれば腰ほども高い。成長のあらかたを終えて乾いた先端に、綿毛で弾けそうになった胞萼が揺れている。遠く地平までを眺め立つ二人に、穏やかな風が通りすぎる。 「静かだね。」 「…この間、デュー・ザ・メイルが来たよ。」 「え? ――いつ?」 慌てて顔を戻すと、友人はまだ向こうを見たままで話をしていた。 「この前の乾季だったかな… ちょっと、風には早くてね、残念がってたけど二晩で帰った。」 「相変わらず忙しい奴だからね。それで、次には雨期の真ん中に来たりするんだ、アイツは。照れ隠しに、不機嫌そうな顔なんかしてさ。」 笑いながら言うと、共通の旧友も情景を想い描いたらしく、声を立てて笑ってくれたから、もう一つ。 「挙げ句に、どっかでオレのことを、まったく間のいい奴だ、とか吹き込んでるんだ。」 夜半に目が覚めた。意識の奥底に潜むものを呼び覚ますような気配が、地下の寝室にまで満ちている。今ならどんな先の『きざし』でも予言できそうだとも思う、それも腕の一降りに託して。そんな感じがする。 居間では、この建物で唯一地表にのぞく、屋根を兼ねたドームに星の光が盛大に降り注いでいた。快晴の夜空の闇が、だからよけいに深い。視線を地に引き下ろすと少し先の草の原に友人のシルエットを見つけて、外に出る。 剣のように細い葉で手を切りそうで、肩の辺りで空をこぐように進む。草群れは疎らに株を茂らせていながら、思う以上に茎が硬く抵抗がきつい。金属に置き換わりつつあるような乾き方だ。それでもまだ、折れるほど枯れてはいない。 気付いて振り返った友の顔は妙に表情を離れ、目が暗がりに色帯びて見えた。彼が笑いを作ってくれるまでのほんの短い時間を、ずいぶん待ってやり過ごした気がした。 「何だか、目が覚めちゃって…」 歩き出すのについて草原を離れ、夕刻に色を変えて見せた大岩の根にもたれて遠景を眺める。星が異様に明るい。 「風の…吹く前は、何かに呼ばれる気がするんだな…」 彼のいつもの口調に、不安が少しおさまる。 「そう、それそれ。…なーんだ、オレ、ちょっと嬉しい気がしてたのに、皆そうなのかぁ。」 「誰でも、ではないようだけど…」 「でも大抵はそうなんだろ?そーか、これで少しは解ったと思ってたのに。ちぇーっ…」 独りでふてるから、傍らの友人が不思議そうに明るい色の眼で見る。きっと彼には解らないだろう、自分のことを言われてるなどとは。セ・エ・ラクシュアが説明する気がないらしいと悟って、話を続ける。 「…それで、外に出ると、それがいっぱいに在る。…風が一つもなくなって、それでも草がざわついて。夜は、本当はこんな感じだったのかな、みたいな。」 「ああ、ホントだ。風がなくなってる。」 「…もっと知りたくて歩き回る。土の上も、草の中も空も海も歩く。裏側の月にも行ってみたことがあるよ。けどねぇ、」 自分と同じ世界と、もう一つ不思議をも、一緒に見ているかもしれないとよく思わされた友人が、長く息を吐いた。 「どうしたの?」 今度は本当に、とても長く待った。万象が一巡りするほどあったかもしれない。肩先が触れる近さの彼の横顔と、その向こうの広い草の原とそのずっと先にあるはずの海も、それから辺り総てに満ちてはいるが目に映らないものを、見ている内に夜が明け始めた。 日が昇り、原を朱に近い黄金に染める。息を潜め忍んでいたもの達さえ、照らされて気湿と共に昇華するようだ。 始まる。…何処かで胞萼が一つ弾け、綿毛をいっぱいに広げた種子が空に放られる。それが次の連鎖を急かして走り、大陸を駆け抜けて向こうの海まで飛び越していく… ときめきと緊張に気持ちだけは忙しくなる、とりあえず座り直してみた。 「夜が明けたねぇ。直に、風が吹くよ。」 「うん。」 待つほどもなく、遠い南の海に雲が湧いた。雲は大気を突くほどに巨大な柱になり、まず、細くねじれた突風が吹き抜ける。間をおいて何本か続く。それから太い帯が、乾いた原の草の根を這い、次に本物の風が走りだした。 綿毛が一息に舞いあがる。いっぱいに白銀を開き、光に煌めかせて風に乗り運ばれていく。遠くに、できるだけ別の処に。 遙かな昔に、ここで死んだ詩人が綴り送った、最後の長い、美しい詩の一節を胸中で何度も繰り返す。 ―― 遅れてはいけない、逃してはならない。 その、たった一日の風の日のために… ―― 翌日には、ほとんどが終わっていた。遠くから来たのか乗り損なったのか、いくつかの綿毛が頼りない風に漂っているのを見ると、自分たちの見送った子供達がちゃんと遠くに運ばれて行ったのかと心配になる。 恒星を巡る内の半分が、雨季。その弱まる頃に芽吹き、茂って季節の終わりの風に次代を託す。それだけのための植生が虚しいようで、なにか答えが欲しくなる。何に自分が苛立ち始めたのかすら、判らないのに。 「何だか、難しい顔してるねぇ。」 起きてきた友人に、声を掛けられるまで気がつかなかった。慌てて、彼のためのお茶を入れる。 「そんな顔してた?」 「明日には雨が始まりそうだよ。もう、風が湿ってきてる。」 「えーっ、湿っぽいのは嫌だなぁ…」 「降り始めは豪快、だけど。でもそれも、しばらく続くから、今日の内に帰った方がいいかもしれない。」 「…そうしようかなぁ、来たばかりだけど。何か、このまま居ると落ち込みそうな気がしてきたし。 …詩や映像なんかとは、全然別のもんなんだよね。昨日は思ってた以上にすっごい感動的だったけど、現実にはその次の日って、こうして有るわけだし。」 受け取った器で手を温めている友人は、どの日も何度も過ごしてきている。風の前の晩をあちこちで過ごしてみたというのだから、その後の日もやはりあれこれ繰り返したに違いない。 「…風の前の日にね、わくわくしてあちこち歩き回るんだけど、」 「うん。」 聞きたかった、あの続きの始まりに身を乗り出す。 「だんだんに不安になってくる。…でも、同じなんだよね。何処にいても、居場所がない。何にも、自分は必要ないんだし、居ても何もできない。どうしたらいいかと思ってる内に風が始まって、そして、終わってしまうんだ。」 「…切ないね。」 「うん。でもねぇ、それが本当は当たり前なのかもしれないしね。ただ立っているだけだから、風の邪魔になるだけだろうけれど、それがものすごくいけないことだとは思わなくていいんじゃないかな、みたいになってきた。全体ってのは大きくて、少しぐらい変えられてもいいんだ。」 「…うーん…」 急に腕組みで考え込んでしまった相手に慌てて、常はおっとりした友人が、焦って言葉を換えて続ける。 「えーと、ね。一しか引けないような、そんな小さなものじゃないんだよ。えっと、自分が一つ足そうとしてどうなるもんでもないし。それで、どれも含めて、全体が一つの方向に進んでいってるんだろうから。」 それでもまだ腕を重ねたままドームの外を見る。もう言葉に詰まってしまったらしい彼の困り顔などお構いなしに、景色は何処までも穏やかだ。 「…んー、かなわないなーっ。でもオレ、やっぱりラッキーかもね。観光に来て、あーキレイ、じゃあまたねってだけで終わんなくて。」 とりあえず少しは意図が伝わったらしい、そんな感じでこの地の主も穏やかな顔に戻った。 触れれば手が切れそうだった草も、湿気を吸って柔らかく垂れている。己の代の仕事を終えて、もう生気がない。後は強い雨に倒されて地に伏して、終わるだけだ。 草も空も風も、季節を送りやってしまった、それもたった一日で。けれどそれも、流れていく内の断片でしかないのだし、充分に必要な部分なのだろう。外から来ただけの自分がそれを、その中に立つことをどう考え嘆いても変わりなく、そしてそんなことさえ当たり前に包容して。 振り返って、見送ってくれる友人に尋ねる。 「まだ、次の風の日までは、ここに住んでする?」 「そうだねぇ… 多分まだしばらくは居るかな。」 「じゃあ、また来ようかな。もう一度見たいな、今度は別の処で。」 「雨があがる頃も、きれいだよ。半周期くらいゆっくりするのもいいし。」 「オレにそれを誘っても、世話やくの大変だよー。」 そんな面倒は相応の別の友に任せることにして、またいつか、の曖昧な言葉で別れを告げる。 上空に出ると、雨季の重そうな雲海が、海岸線から陸に腕を延ばす様がよく見えた。 この地で命を絶った詩人は、何に置き換えて風の日の居所のなさを思い詰めていたのか、知る由もない。 |
◇雨の始まる日◇完 |
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