ゆ ら し の               


 「十年早い。」
 いつもなら充分に効力のある言葉を、独りでもう一度口にする。酔いの勢いで絡んだルークが、今は傍らで心地よげな寝息をたてる。向こうのボックスではデーモンがスタッフ達とやけに景気良く次の打ち合わせらしき喚き合いに興じていた。
 ―――されど十年、たかが十年…
 「あれぇ、寝ちゃったんだねぇ。」
 ろれつが回りきらない御同様が来て、ルークの隣に腰を落ち着けた。手にした長いグラスに氷も炭酸の泡も見えないのが、この店を借り切った客達の、今日の状態を物語る。皆、とんでもなく疲れていて、それでも打ち上げと称する宴会を開き、さて次はこれはどうだあれがしたいなんて盛り上がる。それに呆れながら、楽しんでいる自分でもあるし。
 「そっちもずいぶんと眠そうだ。」
 笑いながら言えば、ゼノンもこくりと頷く。飲んでもいないグラスを離す気配もない。
 「今日は、何だか気持ちがいいよね。他のとこには悪いようだけど、今日はものすごく気持ちがいい。」
「これがそう毎日じゃ、身がもたない。」
「そうだねぇ…山あり谷あり、奈落ありと…」
「だから、野が海が美しい。」
 いつだったかの、やはりこんな時にがなり合った言葉を続ければ、ゼノンもカウンターに顔を埋めて寝入ってしまった。明日には離れて、また夏になるまで来ないだろう小さな町で、次を語り今に安らぐ。格別の酒を一口、また飲みたいと思うことも。
 ーーこれがそう毎日じゃ、味がもたないな。
 独りで笑い、薄まることのない色を干した。


 「なんだ、並んでつぶれたか。」
 デーモンの言葉に我に返った。店内の賑やかさも、いつの間にか和らいでいる。
 「さんざんに絡んでくれたぞ。ずいぶんと露骨な表現をしてくれたようで。」
「何が?」
「花見の時の事だ。」
 ああ、と空に答えてから、相手は不敵な笑みを浮かべる。
 「誰が、とは言ってないがな。」
「誰かが、とは言ったわけだろう?」
「それは言ったかもしれないな。」
「ったく…ま、ナナメに歩いてる御仁にくどいても仕方ないか。」
「ナナメになってる御大に、気を使わせて申し訳ないな。」
「口の減らない。」
 呆れれば、また笑う。デーモンに笑われては、もう勝ち目はない。
 「そんなことは、とうの昔から判ってたことだったな。」
「昔から、か…それ、うまそうだな?」
「今から飲んだら、明日、声が出なくなるぞ。」
「もう、今日だから手遅れだな。かえって気合いが入って、常よりよほどいい仕事が出来るかもしれないが。」
「常ってやつが、あんたにあれば。」
 答えながら、ルークの小指の半分ばかり、グラスに注いでやる。それを口に含んで目がくるりと回る。
 「ライター」
「こんなとこで、馬鹿騒ぎの仕上げに火を噴くな。」
 言えば、静かな声が応じた。
 「そんな記憶を残すな、か?」
 思わず、ルークのつっぷした頭に目が行った。
 ーーいや、ゼノンか?それとも…
 「我輩は何も憶えてはいないがな、どうも色々を回りは憶えてくれているらしい。」
 戻した視線の先で、立っていたデーモンがスツールに腰を落ち着けた。
 「自分が忘れているのは、それはそれで悪いことでもないと思っているが、見ている方は少なからず辛いかもしれんな。」
「何の、例え話やら…」
 どうやら、一人でもないらしい。苦笑もあらわに言って、自分の空けたグラスに酒を流し込む。
 「その言葉通りに答えれば、必要がないから憶えてないんじゃないのか?こと、あんたの場合は、事実があろうが目の前の自分を押し切るしな。」
「…それは、誉め言葉か?」
 デーモンが笑った。その顔で、また酒をねだる。
 「どちらにもご随意に。」
 優雅に答えてみて自分でも笑い、酒は思い切り向こうに遠ざける。
 「憶えている必要もないさ。断片だけ後生大事に抱えて、何になる?良くも悪くも、憶えていれば、忘れるだけの何かが要る。うまく使えたとして、どれだけの効用があるものやら、期待は出来ないしな。」
 手を伸ばしていながらも、デーモンの横顔が神妙に見える。
 「見ていると、結構面白い。」
 言いながら、口の端がほころんでしまった。一度諦めかけて、今度は背筋まで伸ばし、目的の物を手に入れる。蓋を回しほんの少しグラスに入れて、瓶を押してよこした。注ぐのを待っているんだと、その目が訴える。
 「あ、最後の乾杯がしたいのね?」
 それがちょっと嬉しい気がして、口調が甘くなってしまう。
 「で、何に?今日の結果か、忘れた過去か、その上の未来か。」
「我々に、」
 デーモンが、迷いもなく。
 「共通項か。では、どこにでもいる我々に、この二人で乾杯しよう。」
「っ待あったーっ!」
 ライデンの叫ぶ声が、遮った。静かだから、てっきりどこかで潰れているのだと思っていたのに、また元気がいい。
 「やー、また遅れて来ちゃったなぁ。」
 手近の誰かのグラスを突き出しながら変なことを言うから、まだ寝ぼけているらしい。
 ライデンが加わって、乾杯はやけに派手になった。残る二人は、それでも起きる気配がない。
 ―――また、夏が終わるか…
 北国の短い夏と重ねて、自分達の何度目かの夏も、終わろうとしていた。
◇ゆらしの◇完


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