若  木   

 娘は、毎日、朝と夕に来た。
 出くわした時こそ恐怖を見せたものの、何度目かには、漁小屋の戸口にもたれて動かないダリアングラウドに、離れた川辺から声をかけた。
 「怪我をしていて動けないの?」
 してはいるが魚くらいなら自分で捕れると、なるべく娘のに近い発音で、彼は答えた。それで納得したのかどうか定かではないが、彼女はその言葉にうなずいた。
 川の澄んだ水を壺にくみ、木陰に植えられた苗木にかける。そしてもう一度壺を満たし、頭上にそれを揺らしながら、離れた村に帰っていく。毎日、朝に夕に同じことを繰り返す。遠ざかるその後ろ姿は、照り返しの中で妙に長身に見えるが、身体つきはまだ子供のものだ。
 今朝は振り返った顔に、ダリアングラウドが愛想よく手を振ったから、娘は少し笑い、余計に幼さが見えた。
 彼は娘に名を尋ねた。タマラ、と言葉が返ってきた。昔はこの辺りで何かを意味する言葉だった気がしたが、やはり思い出せずに娘の後ろ姿を見送った。
 この近くの村もさして豊かではなかろうが、何が不足してもないらしい。旅人が古い漁小屋に住み着いて彼の食を獲る程度には、殊更に騒ぎ立てもしてこない。
 ダリアングラウドは、だからほとんどの時間を、遠い風景と長江を視界に収めたままで過ごすことができた。

 乾き、荒れ、果てしなく続く大地。
 荒野は、厳しいなりに安定した日々を繰り返す。
 遠い山並みに落ちる雨が谷を這い、流れを作る。
 川は広野を刻んで進み、夜の寒気から河辺を守る。潤いを得て、小さな森が点在する。そこに、僅かな、一群れずつの部族が生きながらえるほどの、実りと猟果が与えられている。
 幾度となく、幾時代を経て、彼はこの河の上空を通っていた。
 大河を覆う熱帯の森、地平まで途切れなく続く群れ。天に届く石の庭園、それにかかる無限の虹。結晶を果てしなく連ねる都市、泡のうちに際限なく縮小を重ねる人の姿…
 そして今、そのどれもが、大地に片鱗すら留め得てはいない。ただ流れだけが死生を含め形を変えつつ、僅かな生き物の存在を許し守っているだけだ。
 朝に夕に湧き立つ霧が、すがるように沿うささやかな集落と茂みとを、抱くように包み込む。
 タマラの苗が、昼の照り返しに葉を巻き夜の冷え込みに頭を垂れ、風に大きく揺らぎながら、与えられる水で今日一日を生きながらえる。
 ダリアングラウドは、それも黙って眺める。

 「ひとつ、尋ねてもいいか?」
 彼が珍しく水辺に腰を落ち着けていたのを見た時から予測はしていたのだろう、タマラはさほど驚きもせず彼に顔を向けた。
 「その木は、お前が植えたのだろう?何かまじないでもしているのか?」
「おまじない?」
「違うか?ここは村からだいぶ離れていて、誰も来ない。ここで水をくむ必要もないだろう。それなら、人目から守られて、育っているわけだろう?その木は。」
 タマラは、ダリアングラウドの目を見、それよりは赤い金の髪に視線を流し、それから川面に目を戻す。そこには濃い色の肌と黒い髪の娘の姿も、彼と並んで揺れている。
 「これが育っているうちは、旅に出た人も元気なの。」
 言葉はそれで途切れたが、彼は続きを待つ。それだけでは、誰にも見られないところにそれがある説明は付かない。
 「でも、私がやってはいけないことなの。飾り帯ももらってないから、本当は何もできないの。」
 贈る行為は、求めるものへの代償と決まっている。あるいは、契約の印だ。彼女の言う飾り帯というのも、おそらくは求婚か何かの形式なのだろう。それにしきたりがつきまとうとなれば、道理外れた行いに返るものは、規模の差こそあれ厄災と定まる。それも、反するもの以外に降りかかるといった。
 「それなら、どうして苦労までしてやる?」
「わからない。」
 娘は、黒い目を一度向こう岸に投げる。横顔が朝の光の中で、彼女を大人びて見せる。好きだという単純な言葉を口に出せないだけでは、少なくともないらしい。
 「でも、他に何をしたらいいか判らなかった。どうしても何かしたくて、しなきゃいけないと思って…」
 村を旅立つ若者を見てしまったのだと、しばらくの時間の後にタマラは言った。
 若い男女が別々に住む村だから、その若者を話に出る以上には知らない。ただ、偶然でも見てしまったことを忘れられなかった。母親がしないと知って、だから代わりのつもりで植えたのだと、言葉を拾うように、語った。
 その言い方が、反する行為への厄災が誰に降りかかるかすら承知のように、決然ときこえる。ダリアングラウドは、苛立つ思いがした。
 娘の生真面目な気負いが判らないではない。伏せたまま定めた視線の先に、彼女が自分のすがるものをどれだけの覚悟で見据えているのかを思えば、胸が痛む。
 それでも、だから増して、腹立たしい。殊更に、現実の言葉を借りてそれを放った。
 「枯れたら、どうなる?」
「帰ってこない。」 
 即座に、はっきりとタマラは応じた。顔を上げて、きつい目で、彼を見上げている。
 彼も応えて、その目を正面から見返した。
 タマラの黒い瞳が涙をあふれさす寸前に、ダリアングラウドが譲った。そうしながら、娘がたぶん泣き出さないことが判っている気がする。
 川面に、小さな魚が銀鱗を光らせた。
 お前はそれでも信じるのか、詰問とも激励ともつかぬ言葉を、何度か飲み下した。ただの疑念だったのかもしれない。

 風の強い夕刻、遠くに色づく星が流れた。
 ダリアングラウドは傾いだ小屋を出た。
 タマラの苗木のある木陰に目をやったが、暗がりには葉の照り返しも見えない。いつにない風に、幼い木が耐えきれるのか気になる。
 かつて大地が豊かだった時には、誰の手にも、どこに放って置いても幼い苗は育っただろう。旅立ちを若木になぞらえること自体、本来は確実なはずの約束だったに違いない。
 一片だけを繰り返しなぞり伝える、この住人たち。それは、今では厳しい偶然にすがる、願い事にしかなり得ないというのに。
 何と愚かしい話だ。それを、疑いもなくすがるなど。
 それでも、あの娘の選択と結果に、誰の手も加えてはならない。彼は彼なりの気負いで、そう定める。少なくともこうして思い惑う者の不確かな助力なぞ邪魔なだけだ、自嘲しつつ加える。
 ダリアングラウドは若木の方角に背を向け、振り返らずに歩き出した。彼も、何を伝える術なく廃れゆく寂しい種の、一人には違いない。

 墜ちた飛行艇の上空が、救援者の合図に染まった。
◇若木◇完


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