す べ て 緑 に な る 日 ま で


 砂漠を超えた先に小さな家が在った。壁に這わせた豆の、鞘の緑が瑞々しい。
 「旨そーだなぁ…これ。」
 ライデンみたいな事を言う。
 「盗るなよ。」
 からかうと、鼻にしわ寄せたような顔をするから、またおかしい。
 「自分だって、同じ事思ってんのにさ。先に言った方が負けって事?」
「そ。先に言った方が勝ち。」
「はいはい…なら、主が帰るのを待つとしましょう。どうせなら日陰で。」
 風の通る場所を探し壁にもたれるように腰をおろした。歩いて来た砂漠とはまるで違う、草の原と、森の遠景。なだらかな斜面のずっと先に、海があるはずだった。そこから吹き上げる、穏やかな風…
 「寝てもかまわんぞ。」
 心地よげに目を細める、傍らの友に言う。
 「…襲うなよ。」
「なっ、何を、我輩がっ… い、今更、」
 思わずと不意をつかれてで慌てると、連れが意地悪く笑う。
 「オレが寝てる間に戻ってきても、襲って食うなよ。」
 やられたと思うが仕方ない。足をうかさせてからすくう分、相手が上だ。
 「先に言った方が勝ち、ね。」
「そっ、先に言った方が負けーっ… 耳まで赤いよ、どうしたの?」
 笑いながら大きく伸びをして、それから肩にもたれてくる。髪に顎をくすぐられて、その熱射に乾いた感触に、砂漠の旅を思い起こす。軽口をたたくのもずいぶんと久しぶリだった。
 日が暮れかかる頃、家の主が戻ってきた。向こうで獲物をかざす。首の長い鳥だ、草の青い色が腹からあふれている。ずいぶんと歓待してくれるらしい。連れを肩で揺り起こす。

 「砂漠を渡ってくる姿が見えたので、これを捕りに行っていたのです。」
 あぶった残りの羽をむしりながら、この家の主は言う。奥では大きな鍋が複雑な香草を煮出している。親切に迎え入れられた旅人の手には、川で冷やされていた大小の果実がある。
 「人はそんなに少ないのか?その、ここまで遇されるくらいに。」
「ええ。」
 あっさりと、男は頷く。
 「ここは街からもずいぶん離れていますから。世間を疎んで来たとしても、先は砂漠だけですしね、いずれ戻っていきます。」
「砂漠からは来ないの?」
「来ません。」
 立って、鍋の様子を見、鳥の首を巻くようにして入れる。束の間の静寂を破って、問いかける声。
 「来ませんて、誰も?」
 男は鶴首の容器から液体を鍋に注ぎ入れ、卓に戻った。残る片手で運んだ杯につがれた酒が、強い香りで鼻をくすぐる。
 「追われてか逃れてか、砂漠は、どちらにも死を選ぶところです。」
 微笑でも浮かべていそうな、あまりにも静かな言い分に、連れがすっかり腹を立てているのが判る。
 「なら、我々はどうだ?」
 代わって問いかければ、また穏やかな顔が向く。
 「人には超えられないのです。貴方がたは、それを超えておいでなのでしょう?」
 瞬時に鳥肌が立つ。当たり前のように言われて身構えたのを恥じて、ゆっくりと息を吐き出す。それでようやく、連れの気配を感じとれた。彼の方がよほど余裕があるらしい、目があれこれを探るように動く。
 鍋が噴きこぼれた。
 「食事にしましょう。」
 一人変わらぬ顔で主人が立ち上がり、部屋には先程までの和やかな雰囲気が戻った。
 食事が終わってからまた少し話をし、その後で寝室に案内された。木を組んだベッドの上に、干し草が厚く固められている。
 「満腹に酔いも心地良く、我寝台に在り、夜涼やかに過ぎる。これが至福でなくて何だろうな?」
 独り言にもつい酒が回る。
 「ホント、何なんだろう、アイツ…」
「良かろうが。何であれ、厚遇されて害なしとなれば。」
「そりゃそうだけど。なら、何でこんな処に住み着いているんだろう?ヤツも人間じゃないって事なのかな… そんな言い回しでもなかった気がするけど… ま、いいや。眠いから、寝よう。」
「やけにあっさり寝ちまうんだな、あーだこーだ言ってるわりに。」
 言って笑うと笑いが返る。
 「その余裕はどこから来るのか、知りたいものだ。」
 友は目を閉じて、じきに寝息をたて始めた。それが答えだとあしらわれたようで少し悔しい。
 「襲うぞ。」
 一つ言ってみて、自分で照れては情けない。

 目覚めると既に日が高い。戸口に立てば、主がすぐ気づいて振り返る。手元から、よい匂いが漂ってくる。
 「もうじき出来上がります。向こうの茂みの先に流れがありますから、水を浴びておいでになるといい。この辺りには、危険な物は居ませんから。」
「そうだな… そうさせて貰おう。砂山の後に水浴というのも不思議だが。」
「ええ、ここまでは海からの湿った風が届くのです。砂漠からの風とぶつかって、朝方にはずいぶんと靄が立ちます。昼は熱を遮ってくれ、夜にはそれも晴れて星が見えるのです。」
 穏やかな以外に表情を変えないこの男に言われると、二人の立つわずか数歩の距離に、その景色が見えるような気がする。二つの風のぶつかり合う様が、そこにわく蒸気が、昇華した光が、その繰り返しの時間の永さが。
 「その… 繰り返しです。」
 確かにこの男は、それを見ている。自分はその立つ姿をも総景として、見ているのだから。諦めるでもなく、思いつめるでもなく、ただ穏やかな顔で、彼は居るのだ。
 「デーモン、ひたってんなら、オレ先に行っちゃうよー。」
 不意に連れの声にはがいじめされて、我に返る。
 「せっかくいいところだったのに。」
「オレはね、友人の幸福よりも、自分の洗髪とメシの方が大事なのよ。」
 事も無げに、言い切られる。
 小さな川で水を浴びて着替え、青草の上で髪をすいた。焼けた肌にいいからと教えられた葉を揉んで、腕に脚に貼りつける。乾くのを待つ間に、どんどん日差しがきつくなる。なるほど、風が水を落としてくれなければ、砂漠に違いない。けれどもここでは、鳥が鳴く。茂みの先を、小さな四脚が走っていった。
 「アイツが何者か知った事じゃないけどさ、あんまり深入りしない方がいいよ。アンタは、状況ってヤツが狭くなるほど張り切っちゃうんだから。」
「ずいぶんな言われようだ。」
 否定しても無駄そうで、ただ笑う。
 「深入りするつもりも、そこまでの余裕もないが。しかし、ひとつ、あの男がそれでどうするのかを、聞いてみたいとは思うんだ。」
「どうするって、何を?」
「何をするのかって事だ。」
「て、何を?」
 髪も乾いたらしい。風にひとすじ二筋が流れる、それを押さえる細い手も、見ていて嬉しい気がする。砂嵐と微風とは、別のものだと。
 「…我輩にも、判らん。ただ、そう思うだけだ。」
「ふうん… まぁ、いいや。」
 先に立ち上がって、連れが歩き出した。
 「でもさ、さっきのは、百年やそこらの短さじゃあない言い方だったよね。それに、デーモン、アイツはきっちりアンタに向かって、それを言ってた。」
「そんな簡単に言わんでくれ。」
 確かにそうだったろう、だからといって、訴えられる理由らしきものはない。その先は遮られた。そうでなくとも、彼が言ったかどうかは判らない。けれど誰よりも、この友人のつきつける物事の的確さを知ってもいる。
 それはそれとして、旅の様々な疲れと飢えを満たされつつある二人にも、もてなし主の作ってくれた食事は最上に旨かった。

 数日の後、世話になった礼を言い、出立を切りだした。
 もとより、急ぎの旅だからこそ広大な砂漠を直進して来たのだ。いつまでも甘えて休息しているわけにはいかない。
 主は、それでも変わらず穏やかに答える。
 「それなら、朝早くにお立ちになった方が宜しいでしょう。霞が晴れる前に向こうの森に入れば、昼の間はずっと木陰を歩けます。」
 頭に描いてある地図に、さらに幾つもの行程を刻んでくれた。その先の海も、港で遭うだろう姿も知っているのではないかと思うほど、当たり前の口調で。
 話が尽きた時に、連れがぽつりと言った。
 「…そして、また一人になるのか…」
 男はその言葉に、本当に静かに笑い、そして答えた。
 「独りだと言えば、独りですね。そうでないと言えば、そうでもなく。」
「そうでもなく?」
 聞きとがめれば、細い指で川を遠い森を示す。
 「ここが静かに老いていくには、多分私も必要なのです。私が鳥や兎や魚を獲らねば、実や芽やを摘まなければ、連鎖が崩れるでしょうから。ここから奪ったものの代わりを果たしている、そのまま終わるのかもしれない、今はそういう思いでいるのです。…初めは…初めはただ、ここまで待っていようとしたのですけれど。」
「何を?」
「何を?」
 二つの、別の意の声が問う。
 「出会うはずの、あるいは訪れるはずの、何か… あまりに昔のことです、細かな事はもう忘れました。」
「オレ達、いや、デーモンをじゃないの?」
 その言い方がまるで宣告のようで、胸を射した。彼は笑って見せるように唇の両端を上げて、しばらく視線を伏せた後、変わらぬ調子で言った。
 「だとすれば、待ち過ぎてしまいました。いえ、その間に奪い、得るものが多すぎたのかもしれません。」
 過ぎる者には、彼の前に横たわるものを垣間見ることしかできない。
 「ならば、それも別の出会い方だろうな。」
 それ以上を言うのも分ではなく思えて、翌朝の出立を決め床についた。

 なだらかな勾配を、二人の悪魔が足早に下っていく。霞は肌に細かな水滴を結び動くたびにそれが流れ落ちた。やがて木立の中に分け入り、豊かな香りを頼りに果実を捜して一息入れる。
 「それにしても、あいつはどれだけの時間を待ったって言うんだろう?」
「まだ、待つのだろうな。本当の日が来るのをか、捨てられぬもの達が果てるまでをか…」
 考えてみれば、確かめようもないものを、この風は海から来るのだと信じている。
◇すべて緑になる日まで◇完
   

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