桜 の 森 |
人界との境の地に住まう友人は、深い瞑想に入っていた。 壺を揺らして、春の宵にさまよい出る。桜の、みごとな森。爛漫の枝に重なるおぼろ雲さえ、花に色染めて美しい。 たなびく上に、月が濃い。 老木の元に腰を据えて酒を酌む。根に抱かれてのびた若木もが花こぼして咲き競うさまに、杯を乾す。 また満たした鏡に、人影が映り込んで顔を上げれば、この世ならぬ姿が立っていた。花色の衣が長身を覆うその姿は闇に明るく、肩からすべり落ちた髪が白銀を辺りに放つ。 ―――これは人ではない… どうやら月か花か、これにでも籠もる精らしい。 どちらにしても、樹下にふさわしい麗姿だ。 「酒はいかがだ?」 微笑してうなずいた相手に、雫を切って差し出すと、白く細い指を揃えて受ける。その中に注いだ酒が、薄い紅の間に流し込まれるのに、見惚れた。 「どれ、もう一つ。」 勧めれば、辞さずに杯を空けて小さく笑い、わずかに頬染める。 「あなたにも。」 返されて、乾かす。心地よさに笑うと、もたれた幹を揺らして花が散る。合わせたように風が吹く、舞い踊る。 くみつ酌まれつ、花を愛で月讃え、いにしえの詩をひいて謡ううちに、酔いにまかせて舞い始める。切れぎれに見覚えを交えて、あらかたは興にのせて形つくる。回る身を追う絹袖に重ねるように、かの白銀の髪も空に漂い、桜に染めた指先がゆるやかに流れを描く… やがて疲れて、先の老木の根に崩れた。荒い息をつきながら眺めるうちに、まだ舞っていた客も間近まで寄って地に手をつき座り込む。淡く色を透かした肌に浮いた酒の香りが甘く漂う、それにまた酔う心地がする。 「―――ああ、風が快い。」 笑いながら言うのに、笑い返す。それにまた戻る声に花が舞う。風が過ぎていく。 「…もう、帰ります。」 「送って行こう。…その、路が同じだけでも。」 相手はまた少し笑い、手を伸ばして天空を指した。その、白み始めた空を巡りゆきて、もう月はない。 「私の今宿っている者は、これが明けた現世に居りますので。」 ーーそれではこれが、力貸すという『貴仙』というものか… 「それは残念だ。」 「私もです。…それでは失礼して、お先に、」 屈むようにして立ちかけて、前に落ちる長い髪を、手で束ねる姿に問う。 「では… また、ここに来られるか?」 座したまま見上げる、その細さが人の姿を離れて若木のようだ。ならば花の咲く高さの目を伏せて答える。 「…私の寄り代が強く望むお方に、一度お会いできればと思っておりました。幸にこの花の盛りが果たしてくれましたが、…これを夢に知れば、その者がどう変わるか私の及ぶ処ではありません。」 ―――我輩を望む、か。その顔が見えるようだな… 半ばは苦笑、いくらかは自負がにじむ気がする、それを笑って払う。 「…ならば、これをうつつの夢に見るその主に、伝えさせてみるか、『それで変わるほどの者を、我輩は望んでは来なかった。』とな。…また、逢えるといい。」 言って笑う顔に微笑が返る。 「また、お会いいたしましょう。」 そうして、白い姿は朝の花霞に薄れた。 しばらく見送ってから、今を盛りの梢に視線を移す。明け始めた春の日に、変わらず花は美しい。 ―――さて、こちらの友は、瞑想から戻ったろうか… 目覚めていれば、この不可思議の噺を肴に酒を酌もう。まだ独りでも、腹をこしらえて、今度は昼の花嵐に吹かれに来るのもいい… どちらも良いな。 人境の森の花盛りには、夢にうつつに、人の世と別の界とを結ぶ力があるらしい。 |
◇桜の森◇完 |
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