サ イ ク ロ ン


 ゼノンは眠っているらしい。背を向けて横たわったまま、静かな息をたてている。野営ともいえない休息の間とはいえ、長い衣服を重ねたままだ。よくも疲れないものだと半ば呆れて、エースは小さな火に苔を一塊り押し入れた。
 炎がかすかに緑の色を見せて、薄く煙を立てる。次のかけらを乾かしておこうと手を伸ばした時、鋭い音が聴覚を引き裂いた。
 「ゼノン!」
 確かに叫んだはずが、自分では聴き取れなかった。目の奥にえぐられた深い闇に溺れて息が出来ず、そのまま死ぬのかと観念した。ならば、長命を誇る魔の力の、何とはかないことか…
 胸を押し肩を開かれる痛みに、意識が引き戻された。
 重いまぶたを持ち上げ、ゼノンの角だけをどうにか確かめ、やっとあれこれに安堵した。暗い中で火を肩に受けた顔までは見えないが、厚い手がまだ規則正しく胸を押し続けている。
 「……だ…」
 唇の動きを見て、やっとゼノンは身体を引いて声をかけてよこした、らしい。目はそれ以上開けられなかったし、耳は轟音にまだかき回されている。金縛りというやつに似ている、努めて呑気に考えようとしたが、脂汗が全身からあふれて止まらない。その臭気が辺りを満たしているようで、嘔吐までこみあげた。
 しばらくしてから、不意をくらった側の頭が熱く脈打つのを感じられるようになった。耳に血が流れ込んでの音が、実際以上に響いたのかもしれない。そう思うと幾らか気が休まる。聴力を無くしたのでなければ、いずれ治癒もするだろう。
 乾いた布が、流れる汗を幾度となく拭ってくれる。用意をして出た旅ではないから、ゼノンは装束を裂いて使っているのだろう。たっぷり布を使った彼の上着がなくならないうちに回復しなければならないと、一つくらい冗談を言ってみたかった。その方がいいねぇ、ゼノンが笑う顔を思い描く以上をする力がまだないまま、エースは安息の眠りに落ちた。

 目覚めると、辺りの景色が変わっていた。
 色だけが動いたのでも形がゆがむのでもないと、一つずつ確かめた末に安堵してから、目だけで周囲を見回し連れの姿を捜した。ゼノンは近くには居ないらしい。昼の明るさの中でも焚いている火がまだ細くないから、離れてからそう時間はたっていないようだ。
 用心しながら頭を起こそうとして、呻き声を上げた。それでも激痛をこらえながら慎重に半身を起こし、火ににじり寄る。かなりの時間を自分が眠って過ごしていたのが、灰の重なりで読みとれた。火から離して、乾かした苔のかけらがいくつか積んであった。
 ここは、前のよりは屋根が広い。明日には崩れるかと思うほど危うい廃墟だが、降り止まぬ雨の中で眠るわけにはいかない。こうして昼夜なく火を焚いていても、思い湿気が感情に重圧をかけてくる。
 その壁の後ろから、ゼノンが姿を現した。黒の上着はなく、薄い白布が雨をしたたらせている。石の段の下で頭の雫を振り払ってから、首を低くして屋根の下に入ってきた。
 「ああ、起きたねぇ…」
 にっこり笑いかけながら言うゼノンの声が、残った方の耳に届いて、エースはひどくほっとした。
 「上着は?」
 一番気にかかる事を尋ねたら、意外にもあははと声をたてて笑った。
 「あの銀のやつを火にかけてしまったら、盛大に燃えたんだな。夜で、燃やす物を捜しに行くのも何だか億劫だったし、寒くなりそうもなかったから、残りをちぎって燃やしてしまった。…あれは何ていう生地だったのかな?けっこう面白い色が出たよ。」
 何と言葉を返したものか、エースは真面目に悩んだ。それから諦めて答えた。
 「確か妙な名前だったから、デーモンがメモをとってたかもしれない。」
「そうかな、戻ったら聞いてみよう。」
 火の傍らに腰を下ろし、ずっと腕に抱えていた物をやっと床に置く。堅い布目のおかげでどうにか風体を留めている。非常用の袋らしい。錆びた缶を簡単に手でちぎり、剥くように外側を削った半分を、その間に壁に持たれて体勢を整えたエースに差し出してくれた。
 「何だか久しぶりだな。」
 大味とはいえ、スパイスの効いた肉片が有り難いほどに旨かった。皆で肉を焼いて騒ぎ明かしたことがあった、あれはどれくらい前だったろうと記憶を辿っても、出てくるのはどれも笑う顔ばかりだった。今頃ルークは独りで何処を彷徨っているのか、デーモン達はどんな地を歩いているのかと気にかかる。誰も、自分がこんな不様に怪我をしているとは思ってもいないだろう…
 「これは白桃だ、きっと小さな子供がいたんだな。」
 器用に、割った缶のシロップもこぼさずに、食後のデザートが手渡される。唇をつけると錆の味も混ざったが、構わずに大口を開けた中に、スライスされた果肉を流し込んだ。
 これを密かに楽しみにしただろう子供は、遙か以前に短い命を絶やした。雨に空を、大屋根を隕石で失って、人は滅びた。万華鏡の色片の一つであるこの世界では。
 「…この辺りで、別の時空と重なっている気がするんだよね。その怪我の時も、何か別の形が見えたようだったし、ここの荒れ方は雨や地震のせいだけでもなさそうだ。」
「早いとこルークとの再会を果たして、元の世界に帰りたいもんだね。食べ物で急に里心がついてしまうのも、わびしい気がするけど。」
「急に元気が出たようだ。」
 ゼノンがまた笑った。
 傷に響くのを警戒しながら、エースもつられて笑う。
 ゼノンは言わないつもりらしいが、雨の中瀕死のを抱えて場所を移動したのといい、らしくもない可能性を口に出すことといい、あのときに何かを見聞きしているに違いなかった。
 エースは、自分の耳を貫いて走った物が、ルークの絶叫する声だったのではないかと考え始めていた。 
 雨の降る音だけが、止むことなく聞こえる。
 ゼノンが新しい苔の塊を火に落とし、緑の色が炎の中にしばらく揺らめいて見えた。
◇サイクロン◇完


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