降 り 立 つ 者


                         I
 目の端に、東の空が明るい。
 空が白みかけている。やがて輝かしい日が、低い雲から彩りを差し始める。
 朝――。闇さえ去れば、凍えた足も、指も温まるだろう。荒れた喉の痛みもきっと楽になる。何よりも、冷たい風を避けて休む場所を捜せる。もしかすれば、目指す彼の地が望めるかもしれない。
 けれど直ぐに、歩き始めた時に既に、夜が終わろうとしていたことに思い当たる。あの時にも空を見上げた。確かにあの時も明るみを帯びていたはずだった。あれからずっと歩き続けている。しかし、その間中、朝は訪れなかった。いや、夜が、一度も明けていないのだ。
 ―――いつ、俺は歩き始めた?
 考えて初めて、その時を思い出せない自身に気づく。
 それよりも、歩き始めてから初めての思考であることを認識する。憶えている限り初めての。ずっと、歩いている間、意識の中であろうと、何の言葉も思い出せない。
 不意に、背をなぶるように、強い風が吹き上げた。
 思いのほか長かった髪を舞い上げられて、足を捕られた戸惑いに振り返る。
 視線の遙か先、薄明るい空のすそに、低い岩地の稜線が見えた。
 もう一度、風が足元の更に下から顔を襲う。暴れる髪を片腕で押さえて目を落とせばくねりを切れ切れに見せながら、細い道が谷まで緩やかに落ちていく。その底から、遠く地平を区切って横たわる大河まで、流れが闇の色を送り出している事は容易に想像がついた。
 しかし、その大河を渡った憶えもなければ、濡れた足がこの寒気の重さの中に乾くはずもない。それを越えなければ、自分が立つ高みに辿り着くことができないと判りながら、それでも、遠い稜線の向こうからここまで、確かに一人歩き続けて来たとしか、思いようがないのだ。
 いつの間にか道が昇り始めたことにも気づかなかったが、もう、ここは山道ではない。どうやら、風にさらされて、尾根に立っているらしかった。
 ―――いつ、俺は歩き始めたのだったろう? …それも、何の為に…
 何の為に。何時、何処から、どれだけの長い間歩き続けたのか、こうなっては、さほど重要なことではないのかもしれない。風景に憶えがないのだから、その更に遠くからおそらくはその地平の向こう側からでも、自分が来たことは確実なのだ。それに、現実に今、その何処かに立ってしまっている。それならば今、探るべき事は、ここに立つことのその理由でしかない。
 風が、少し凪いだ。
 冷たく乾いてはいても、体に疲れはなかった。それが意識の不在を記す一つかもしれないが。
 ゆっくりと、歩き始める。踏みしめた道は背に一つしかなく、前に薄く一つしかない。迷うことには意味はない。進む意味もないにしても、それに先が有るのだとすれば、そこが自分の望んだものに違いない。
 歩き始める、歩き続けた、自分のその、目指したもの。至るまでの『道標』。さもなくば、そもそもの初めに思い描いた『夢』…
 ―――誰の顔も、俺は覚えてない…
 一人苦笑するには、顔が凍えすぎていた。
 思い出せるものが一つもない。
 記憶にない道を想定の中で逆に辿っても、何も見つからない。誰か人の声も、顔も、拠り所になりそうなものは、ぶり返すように先ほど戻ったばかりの意識の中には、一つも残っていなかった。残っていない、せめてそう言葉を選んで考えるより他にない。自分の存在を証明できるものが一つもそこに拾えない以上は。自分の存在を仮定する為に。
 ―――俺は、誰の顔も声も、憶えてないのか…
 己を否定するものが己だと思うと、腹立たしい。苛立つのではない、怒りさえ失せていくのに、より近い。そして、一度気づいてしまったことは、頭から離れない。
 前方に意識を集中しようとしては、観念に思考を捕らえられてしまい、その度に頭を強く振る。
 目を落とせば、獣の皮が、土埃に艶をなくした足先までを覆う。飾った角の黒光りする重さが歩を進めさせてきた。冷たく乾いた荒野の風が、荒い毛皮をけばたてる。それでもまだすり切れてはいないから、思うほど遙かな時間を歩いたのではないのかもしれなかった。

                         II
 何かの声。人の声、でなく。
 風の啼く音があるとすれば、それに一番近いかもしれない。
 視線を上げて、ようやく先が無いことを知る。辿っていたはずの道が途切れて、その先は背に負うのと同じ、奈落。立つ地より高い何も、周囲にはなかった。
 ―――ここに、俺は、来るのだったのか?
 辺りに、白み始めたままの闇だけがけぶる。他の何も、自分と、自分の立つ地の他は、何もない。
 文字。足元に浅く、山頂を横殴りする風に、そのおおよそをそがれて。
 一枚岩らしい。
 今は足の下に灰色の。かつてそれは磨かれていて、朝に夕に輝いたに違いない。多くの人の手で、見渡す限りこのもっとも高い処に祭り上げられるだけの意味を持ち得た『碑』。あるいは、尊く葬られただろう、『言葉』。
 それは、予言か、でなければ天啓の詞ででもあったか…
 けれど、全ては、遠い昔の話にすぎない。今、風に朽ちて岩の文字は薄れている。目でなぞろうにも、その古い文字を知る者とてない。読めない文字に、意味なぞ有り得ない。意義のない言葉を記された碑は、ただ古い岩でしかない。今となっては。
 ―――これが、俺の…
 思いたくはない言葉が、走る。
 ―――俺の『意味』は、たった… こんな事だったのか?
 誰も応えるものはない。もう風も啼かない。求める時には、何も答えを返してはくれない。総てが、ここに辿り着いたことそのものが初めから間違っていたのだと、例えば望んでみても。
 真実なぞ何処にもないのだから、それを伝えるまやかしすら本当はない。そして何処までも終わりがなく、実は幾度となく移ろい変わっている闇。その中に手探りで死に生まれを繰り返しながら、己の頂点に立ち尽くそうとすることの、どれだけの『意味』…
 ―――総てがこうして土に還るのだとしても、俺は… 俺はきっと本当は…
 振り回す腕が空を切る。既に意識の伝わらない指の先が巨大な文字を綴る。何よりの高み、その更に上に立って、ほとばしる言葉を天空に記す。誰が何処に何を残そうと成就されなければ『予言』はそこに終わり、真に『神』が降り立とうが、言葉はやがて忘れ去られる。たとえどれだけの真実と真理があろうとも、それがどれほどの意味を保とうとも、文字も言葉も、いずれ形と共に消える。
 どこまでも高く、天空は遙かに遠く在る。及ばぬと識りながら腕を延ばしても、その更に先に、総てが意地悪く高笑いして見ている。
 乾いた涙が、こわばった頬をまっすぐに伝い落ちた。
 文字に落ちる前に、それさえも風に葬られて、失せた。

                         III
 冷たい気配が、足から背に伝って抜けた。
 凍てついた光が顔を下から照らす。
 頭を降って払った涙が風にさらわれるより先に、恐怖を覚えた。
 灰色に朽ちて見えた岩が、いつの間にかその底を透かして見せている。いにしえの文字を浮かしながら、薄い光の屈折の末に、奈落がその下にどこまでも深い。尾根伝いにここに来たはずが、その道すら今は無い。せり上がった頂の先一つだけに、その岩が支えられていた。ぐらりと、風ごとに傾ぐ気がする。
 それでも、奈落が目を惹いて放さない。遙かに谷が、落ちる水が光るのが見える。脚で辿ったにはあまりにも急な勾配が、覗き見る者を突き放つ。隔てられた者には、現世は遠く薄青く、ただ美しい。何か懐かしいような恐怖が、地の底へ心まで誘う。
 ―――夜が、明ける…
 何処か下の方から、いくらか明るさが増してきている。岩の透明さは、捕らえた光の総てを照り返し、そして同じ総てを透過させるに違いない。意味もなく、言葉だけを綴る自分を意識の中で浅く笑いながら、目は光景に時が流れるのに奪われたままでいた。
 東の空は色を変えてはいなかった。もとより、東が、今はそこではないのかもしれないが。ならば、夜が、闇が明ける、その始まるところがこれからの東方になるのか。それがこの、地の底からだとしても。
 しかし、光はそれ以上の強さを持たずに終わった。
 頭上に広がる闇も、色を変えない。
 その、見上げる視界の端に、人の立つ気配が見えた。
 ―――いや、人ではないのかもしれない。
 もっと、別の存在を思いついていた。例えば『神』、例えば往く末を伝えるもの。例えば、『魔』。
 だから、直視するのは憚られた。また、見ようにもその姿は濃い影の中に立っていたが、それでも思考の中央を占拠しつつあるその姿に、憶えがあった。そう思った自分に誤りがなければ、それが唯一取り戻した、意味のある記憶だった。
 ―――俺は憶えている。確かにこの姿を憶えている。
 一つ一つ、自分にとっては長い時間を費やしながらも、意識の奥底からその姿に関するものをすくい上げることが出来た。映像として、言葉として、儀式の、作法として。そして、それに付随する様々の事柄が共に引き出されて蘇り、己を盛り上げ、人型を造り始めた。『存在』という意識を、ようやく取り戻して。
 陰が、近づいてくる。
 風に揺らぐ岩は、何を意味するのか。遙かに天空に突き上げた山頂のその先で、地の底と天空の双方を透かし見せる岩に、記されて古い文字に存在が許されるのだとすれば。その上に孤立する一人に何かが与えられるなら。
 均衡を保っていた岩が傾ぐ。更に振れれば、すがるものもなく落ちる。刻まれた文字は浅く、こんな時でさえ爪を立てる役にも立ちそうにない。再び、絶望が思考を呑む。体が硬直する。
 中空の影の中から、黒い鉱物質の視線が空を切りながら自分に降ろされるのを、意識しながら、待つ。理由が不要なほどの明確さで、それに囚われれば全てが了わる予感があった。

 もう一度、闇を透かして岩が揺れた時、その上に影は一つしか残らなかった。
 それもゆっくりと宙に浮き上がり、昇り始める。体にまとわりついていた闇をわずかずつ払い落とした顔に、薄く笑いを浮かべながら。
 食らったものも、同化された者も、まるで同じ姿をしていた。
◇降り立つ者◇完


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