鬼 な く 夜 の |
―――かの鬼の、離したる子を想うて哭く声か… 開けたままの窓から風が吹き込んだ。虫の食った紙を指の間で震わせ足元に湿気を落とし、回廊へと抜けるのを目で追った先に、乳白の花が揺れた。中庭の静けさにも、夕刻が近いらしい。 「デーさん、デーさん、」 外から呼ぶ声に席を立つ。窓から身を乗り出して見上げれば、さらに一つ上の階で腰まで浮かせたライデンが北西の空を指す。 「すっごい雲が来る。」 「いよいよか… そっちの窓を閉めてくれ、鎧戸もきっちり頼むぞ。」 「オーライッ!」 了解の言葉を放つより、姿の消える方がよほど早い。ゼノンを連呼する声が西から東まで響く中、こちらもきしむ窓を閉めて歩き、中庭に沿った回廊へ出る。館にぐるりを守られた小さな庭も今では荒れて茂みと化し、花をつける事で往年の姿を忍ばせるのみ。それでも、あらかた崩れ落ちた南の棟を隠すだけの愛想はあるらしい。その梢を、風が自在になぶって過ぎる。 広間に戻ると、ルークと顔が合った。 「ん? なんだ?」 問えば相手は上を指して答える。 「ライデンがはしゃいでる。」 なるほど、すぐ上の階まで降りたらしい彼の動きが、調子のいい音で聞こえる。三歩、大股に歩いて鎧戸がきしむ。二度鳴って錆びた鉤、次が窓そして鍵、繰り返して大部屋をぐるり回って。七つ目は勢い余って朽ちかけの戸が落ちる。 「すっいませんね〜 よっろしっくぅ!」 ゼノンはゼノンで外回りでも見ているのか、ほういと返しては何やら音を響かせる。 この二、三日気配を漂わせていたものが、ようやく正体を現そうとしていた。椅子にかけ、書斎から持ち出した日記をまた広げようとして、ルークの声に遮られる。 「ゼノンもうかれてる。」 「なんだ?」 戻ったときに見た顔を思い出す、笑ってはいなかった。 「我が輩はどうだ?」 「とおってもワクワクしてますって顔中に描いて、聞くわけ?」 「…そ、そぉか?」 「そうだよ。エースはいそいそと出て行っちゃうし、嵐が来るってののどこが、そんなに嬉しいんだろうね?」 話を逸らそうかと思えば、おきまりで先回り。ならばと、正面から当たる事にした。 「子供みたいだけどな、いつもと違うってのは、なんかわくわくしないか?」 相手はゆっくり体を伸ばして、それから首を傾げて答える。 「だって、嵐だとかこういう時には、」 鎧戸の落ちる音。 「また落ちたね。外、手伝った方がいいんじゃない?」 「そうらしい。」 言いかけた言葉が少し気にかかるが、救いを与えられたのも確かだ。読みさしで置いたままの日記を閉じて、部屋を出た。 日没の前に闇が辺りを覆った。風に運ばれる木の葉や枝の鞭に打たれる度に、古い館が音を立ててきしむ。 それでも、暖炉に火を入れた居間では、外の荒れようも酒の肴にしてしまう。 「何だか、むこうのハシから崩れてきてる気がするねぇ。」 「隣の部屋がなくなりそうになったら、地下室に降りりゃいいよね? あそこなら、雨もしのげそうだしさ。」 酒が入ってか、今はルークも笑う顔でいる。外に出たついでに捕った肉が、あぶられていい匂いを放ち始める。 「エースはどこに行っちゃったんだろう? 雨が降りだしたら、大変なのに。」 「風にのって、女の匂いでもしたんじゃないの?」 「かもしれないねぇ、濡れるのがわかってて出て行くんだから。」 「ひどい言われようだな。…ま、少しは残しといてやるか。」 ルークが笑う。 「誰が一番ひどいんだか。」 肉を切り、地下の貯蔵庫から運んだ缶やら包みやらを開ける。屋根の下に灯をともしての食事は長い旅でそうそう多くはないし、外では嵐と雨が始まろうとしている。皆が嬉しそうな顔でいる、まして今宵の食卓は豪勢だ。エースの外出もよほどの事だろうから、心配はしても不満を言うのではない。 「やっぱり、人間の作ったのの方が、古くたって旨いよ。」 「そりゃあ、料理やら保存やら、おいしくしたくて工夫するわけだし。」 「人間の残したものの内で一番に敬意を表してやりたいね、とエース先生なら言うだろうな。この酒をこうかかげて。」 言いながら、金に飾った杯を目の高さに持ち、薫製の薄い鴨肉を口に運んでみせる。 斜に構えた表情に、笑いがわいた。 「言うには、一切れだけあればいいな。これは旨いぞ。」 「あんたのがいっちばん、ひどい。」 「なに、ただの八つ当たりだ。」 やっとこ反撃の時が来たとばかりに言い切るが、あっさりと笑いとばされて終わった。それもいい。嵐の気配にうかれていたのは本当のことで、相手を見なかったのは確かに否だ。 「ああ、そういや昼間、何をまじめな顔で読んでたの?」 そうしてルークも、言葉を返してくれるのだし。 「あれか…。書斎から持ち出したんだが、日記だ。達筆すぎて、読むのが大変なんだ。」 「日記ぃ? 何でまた。」 ライデンもゼノンも体をのりだしてくる。 「日記って、つまり、記録の事だよね。」 「古い屋敷だから何か残してるかと思ったんだが… 書きかけのは見あたらなかった。」 「持ち出したのか。」 「どうかはわからんが。ま、それで新しめのを捜してぱらぱらやってたら、面白い事が書いてあってな。」 「あんたの面白い、は一般に通用しない時があるからなぁ。」 ルークが茶化すから、つい、大ごとにもしたくなる。顔を作り声をひそめて話し出した。 「その昔、山の奥に鬼が棲んでいてな。諌めに入った男に惚れて子までなしたが手放した。今頃の季節になると、それを思って泣くらしい。」 「鬼?」 「鬼ねぇ」 「オレは鬼じゃないってば。」 「要するに、人智を超えた魔物だろうが、これがずいぶんと長生きらしい。」 不意に、風が大粒の雨を屋根にたたきつけ始める。 「まさか、今でも生きてるってんじゃないよね?」 「この季節はずれの嵐を、どうやって説明する?」 風の息が、生き物のように細く高く走る。 「かんべんしてよ〜」 「やっぱり、オンナかぁ。」 「放ってはおけないよねぇ。」 「どーやってそれを知るんだよ?」 「それは、やっぱ、人智超えた魔物だかんね。」 「ベクトルのね、方向だよ。」 「ゼノンまで本気で納得しないでよぉ… たく、デーモンが変な事ほじくり出してくるから。」 すっかり意気投合して話を進め始めた二名から酒の瓶を取り上げて、ルークが椅子の向こうに移る。 「いや、我が輩の面白いというのはな、いい歳をした書斎の主がそれを信じてたらしい事の方なんだ。そういうのは大抵は子供の言われる事だろう?装丁して残すための日記に、教養をひけらかすのと並べて書くからには、それなりにここらでは知られるか信じられていたのだろうと思ってな。」 「じゃ、決まり。」 「エースが感じるんだから、きっと若くて綺麗なんだろうねぇ。」 雨はそう長くは続かず、風もいくらか勢いをやわらげた。幸い館は崩れ落ちずにすみそうだと、各自適当に部屋を選んで眠ることにした。書斎で更に古い日記を捜し読む内に、夜が更けていく。 遅くなって、エースがずぶぬれの姿で戻ったのを出迎える。 「こんな晩にもデートとは、ご苦労なことだ。」 「嵐の晩でなければ、会えない相手もいるのでね。」 灯をかかげ先に広間に入ると、うたた寝でもしていたのか、ルークが長椅子の上で体を起こした。用意の布を抱えてきて、戸口に立つエースの頭からかぶせる。 「ねえ、鬼はいくつに見えた?」 「鬼? なんだ、それは。」 「酒に鴨の薫製まで放って、あんたが会ってた相手の事。」 「ああ、それで精根尽き果てたのか。わかってるなら、早いとこ寝かせてくれ。」 ルークに絡まれたくらいでは動じもせず、エースは火の残る暖炉の前に転がった。それに、一切れずつの肉と一杯きりの酒を手渡して、ルークを連れて部屋を出る。 「あれは、本当に鬼に会ったらしいね。」 「そのようだ。ともかく寝かしてやれ。そのうち、面白い話のつじつまを合わせてもらえばいい。」 「送ってくれなくていいよ。」 「灯を渡しては、吾輩が戻れん。」 きしむ回廊は昼間よりも確かでなく長い。 「ルーク、昼間、何かあったんじゃないのか?」 尋ねると、傍らの足が止まる。中庭ではまだ風が吹き荒れている。それが震動になって、曇りの消せない窓を鳴らす。 「…もう、いいんだけどさ。嵐の来る晩て、あの声が聞こえそうで厭だと思って。あの、女の歌う声。…本当に歌ってたのかもしれないけどね。」 「歌? …あれか。詞はともかく、あの声は嫌いではないがな。」 「オレは嫌い。でも、そんなのと関係なく、あれは忘れられない声だよ。それがね。」 「そうだな。」 「うん。…おやすみ。」 「え、ああ。」 気がつけば、もう角の部屋まで来ていた。感慨にふけりかけたのを見透かされただろうと思い、言葉が続かない。 「送ってくれてどうも。帰りは真っ暗で怖いねぇ…」 意地悪い笑い顔を傾けて、ルークが灯火を吹き消した。 「な、なにを…」 「じゃ、おやすみ。」 急に濃く見える闇の中で、声が戸の奥に消えた。 「たく、何をするんだ、悪魔が悪魔を相手にして。」 呆れてはみたが、不意をつかれたのに苦笑する。すぐには何も見えない。いや、壁に手を伝わせて戻ればいい、ただそれだけの事だ。 その壁の向こうの、中庭では花がまだ揺れているだろうか。 |
◇鬼なく夜の◇完 |
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