帰 虚 来 |
宙を手でかけば、ここが水底とわかる。 指の間を圧する重さも、歩くにはさほどの妨げではないが。たなびく波間から降りさす光は、はるか頭上で潮に淡く溶けて、いかにも不思議な色合いを見せる。 細い魚が銀鱗きらめかせて傍らを行くのを、追うように振り返ると、館から歩み来る姿が見えた。足を停め肩をかしぐ気配に戻ってみると、彼の手が流藻草を払う下に、木彫りの像が横たわっていた。 「沈んだ船の、守り神か。」 進路のため見開かれた目を、今は海底の澱に向けて。友は何も答えない。役を果たせなかった乙女の硬い頬を指でなぞり、しばらく待たせてから、目を上げて笑いかけた。 「主役が抜け出しちゃ、困るな。」 つられてしんみり気分でいたから、たじろぐ。 「いやその… 酔い覚ましだ。」 「さますほど、呑みも飲めもしないくせに。」 意地悪く言ってくるりと背を返す、その身体を包み込むように、白い澱が舞い上がる。 「少しばかり飽きてきたしな… 辺りを散策するほどならいいらしい、先から何も起こらん。」 「何も、って… 試してる、って事か?」 らしからぬ頓狂な声に思わず吹き出す。呼吸に労はないといえ、ここは重い水の底。踝までつかれば窒息する、と自称する御仁が安穏でいるはずがなかった。 「無理してつきあわなくとも、かまわんぞ。」 意趣返しに、たっぷりと余裕を込めて。それに、目をむかんばかりの反応が返る。 「それなら、何処に居ても同じだ。」 肩を並べ、珍しい生き物を指し触れながら、歩いた。進むたび別の岩肌やら群れを見つけて飽くことなく、何しろ連れが、開き直ったこの時とばかりに先を行く。 ひと休みしようと、まだ生き物の着かない船の残骸に腰を下ろした。 「なるほど、まやかしか。」 ずっと背にしていたはずの館が、変わらない距離に建つ。珊瑚に真珠の装飾も色鮮やかに、飲み舞う声も先刻と少しも変わらずに届く。どうやらこれは、くくられた庭の境に沿っての自由でしかないらしい。 「なんなんだろうな、これは。」 声に出して言ってみる。だが、酔いしれるにも疑い惑うにも、等しく何者かの手の内に在るのだから、今更浮き足立つこともない。 「エース、」 辺りに目を配る連れに問う。 「…あんた、カメを救けた事がある?」 「ない。…『浦島太郎』か?でも、確かに『竜宮』のような舞台仕立てだな。」 「そのものだろう、誰かの。…いじめられる役も乙姫が兼ねてしまえば、亀の出る幕もない。こうなると今風の話だな。」 「やれやれ、お姫サマと王子サマか。…しかし、太郎ってのは、ただの漁師だ。」 「申し出て、土産まで貰って元の浜に帰る。…末永く共に暮らすのでなければ、氏素性はいらない、勝手に創ってもすむ事だからな。つまりは、『竜宮』で『太郎』をもてなしたと、『乙姫』が満足するって図式だ。」 伸びをして、エースがぼやく。 「なら、連れ込まれて遇されて、飽きられる身の上って事か。まぁ、精々、束の間の逢瀬へのご協力に励みましょう。」 「ずいぶん長い逢い引きだったじゃない。」 もうしばらくというエースと別れ宴席に戻ると、早々にルークがからんでくる。 「あいび… 我輩が、誰と。」 「オレとじゃないのは確かだよね?」 強引につがれて杯を干せば、また満たされる。何に腹を立てているのやら、常にない横柄な横座りの足先に力がこもっているのが、恐怖だ。 「あー、わかったわかった… 次は一緒に抜け出せばいいんだろう?」 「いいよ。オレもう、部屋に行って寝るから。」 「おいっ、ルークっ! …ったく、何をあいつは…」 不機嫌が移って口の中で動くまま、新しく運ばれた大皿を賞味していると、いつの間にかゼノンが隣にいて、酒の香りを漂わす。 「ルークが行っちゃったよぉ。デーモンが行かないと、あのまんま眠れないんじゃないかなぁ〜…」 よくぞやってくれる。酔いにまかせて大きい声がまた良く通る。向こう端で何か図体のでかいのと意気投合しているライデンが気付いて手を振るほどだから、辺りはばからぬどころではない。 仕方なくかおかげでか、また席を外すことになる。 長い回廊の先に部屋を訪ねると、ルークが寝台に大の字に転がっていた。白珊瑚と真珠の輝きにそぐわなさすぎる格好だ。が、彼は意にも介せず、横目使いに声の主を見て背を向ける。その身体の下で折れ曲がる紫の上着の裾を引きだして広げてやり、寝台の角に腰を下ろす。 「何がそんなに気に入らないんだ?」 「あんたの、そういう細かいとこっ。」 「あんたが後で、しわが気に入らないのどーのって、騒ぐんでしょうが…」 「…そうだけどさ、うん。」 くるりと首を回して、にっと笑うから、つい目が泳ぐ。今更この顔に照れてどうすると思いつつ、逸らしてしまうものは仕方がない。 「エースと一緒だったんだろ?何、話してたの?」 しかも、話し相手作りの芝居に引っかかったらしい。それは少しばかり不快だが、いつも同じような罠にかかる気もしないではないし、今更だ。 「我輩への答えの方が先だ。」 相手はバレたかと小さく舌を出す。こいつ、しかもしたたかに、酔ってもいない。 「ここ、オトコ居ないんだよね。」 「あんたね〜…」 あまりの言に呆れて、長嘆息。 「だって、気持ち悪いよ。一人も居ないんだよ、オレ達の他に。」 「竜宮だから、斉王の他は魚だの何だのだし、その王が留守なら仕方ない。」 なだめにかかれば、雲のような海綿の枕を天井まで放り上げて、ルーク。 「その、オヤジの斉王はいつ帰るのさ?オレ達、いつどうやってここに来たか、憶えてる?どれくらい、あの宴会やってるんだろう、そう思わない?」 ゆるやかに昇っていった枕がようやく落ちてくるのを、腕を伸ばした先で、受け止める。ここにも水が、それと同質のものが満ちている。 「それも、悪くはないよね。…けどさ、」 今度は跳ね起きて、手から奪い、埋もれ木の戸に投げつける。ぶつかった音もなくそれは床の敷物に落ちて、ゆらりふらり転がる。そういえばここに来てから、不快な音を聴いた気がしない。 「オレ達の他にはオトコが一人も居ない、それもまあいいよ。けど、オレ達にもそれがまるで要らないんだって、そういう勝手な思い込みが気にいらないっ。それであの娘にそう言えば、それは失礼いたしましたって、パンパン手を叩いて料理みたいにきれいに皿に並べて、言っただけのものを出して来るんだ。」 そう、連れのこういう、言葉のきつさ以外には。 「オレ達はあの子の思うままじゃないし、あの子だってオレ達の言うままじゃないってのも、これっぽっちもわかんないでさ。」 「まあまあ、落ち着いて… あんたにそう何もかもきっぱり言われたら、彼女の立つ瀬も、我輩の立場もないでしょうが。」 「いいの、オレはワガママなのっ!そういう役割分担なんだから。」 「…ついでに、それで解決しちまう、いい役回りでおいでだ。」 「まあねぇ… それにしてもさ。」 身体を起こしたついでに上着を脱いで傍らに置き、伸びをする。 「…彼女、オレ達をいつ帰してくれるのかな?」 「それは、」 やっと回ってきた台詞を、できるだけさりげなく返す。 「帰ると言えば、伝承どおり帰してくれるだろうが。だけどあんたの説じゃ、あの子だって、いつまでも我々の言葉をうのみに従ってはいけないんだろう?」 枕はもうないからと安心していたら、丸めた上着が顔めがけて飛んできたが、それも簡単に避けてしまえる。 「けど、どうやってそれを教えたもんかなぁ…」 「で、その方法がこれなのか?」 岩陰の向こうをうかがいながら、エースが問う。 閉じられた不思議の庭で、鬼ごっことかくれんぼを一緒くたにやろうというのだ。体力無視の、本気で子供の遊びを。 「そうらしい。ルークがやると言い出したんだから、我輩は逆らわんが、あんたまでつきあわなくてもいいんだぞ。うまく行く保証は無いんだし。」 海中でさえなければ、こんな不安顔を見ることもあるまいと思うと、妙に楽しい。久しぶりに走り回るのもまた、嬉しい。大丈夫な気になってくるのは、あまりにも楽天家過ぎるだろうか。 「気分をほぐしてから、ここの狭さを体現させるつもりなんだろう。気付かせる、そのきっかけさえ在ればいい、多分そういう事だ。」 「あいまいな戦略だ。相手の容量に頼りすぎてる。」 「…だから、用心のためにこうして我々が組んでいるわけだ。しかし、仮にもこれだけの秩序を重ねた上でこっちを引き寄せた『力』だからな、その先がぶっつりと無くなるとは、我輩は思わんぞ。」 背をもたせた岩壁を、極彩のヒトデが這っていく。 「…デーモン、あんたはいつでも『信者』ってやつに期待してるな。ここまで来ると、立派だというより、呆れる。」 「そうか?我輩には、当然のことだが?」 きっぱり言い切れば、エースがまた笑う。 「言って、くれるものだ。」 そう、乙姫がどれだけ居ようとも。 今も頭上で、海上からの光が潮流に同化している。 |
◇帰虚来◇完 |