風 の 音 が と お く き こ え る


 鳥は風を待っているようだった。
 真上から太陽が照りつけ、焼かれる地表からその熱が立ち昇る。わずかにせり出した岩の、下から気流が吹き上げてくる。それでも何が不足なのか、白い鳥は首を傾げたり翼を膨らませかけたりしながら、まだまだ翔びたつようすがない。

 一人だけ、川を渡れない子供がいた。
 深くも、急な流れでもなかった。大人達は家財と家畜以上に手が回らず、無論、引き返すだけの余裕もない。赤子を片腕に抱いたのが母親らしい、向こう岸で名を呼ぶ。兄弟らしいのが叫ぶ。どこかの女が、声をあげて泣き始めた。
 それでも子供は、川に入ろうとはしない。簡単な作りの服が、目印のように白くはためく。
 ―――…どうして…
―――水が怖いのか?
―――そうだ、待て。お前だけでも残って…
 砂塵を巻き上げて駆ける仲間の、意識の声が交差して届く。走るそれぞれの内に共鳴する。
 向こうの岸では、既に移動が始まっている。羊と牛の群を追い立てる声、荷車のきしむ音、幼子が怯えて叫ぶのを叱りつける、甲高い言葉。どれもが川を離れようとしている。こちら岸に残った子供の背からは、その顔は判らない。
 ―――羊であれば、迷うこともなく渡れたものを…
 耳に近い距離で低く吐く、声の主を肩越しに見た。疾走しながら、その唇がまだ何事かを綴って動いている。
 ―――こんだけ、走りながら!
 驚くよりも呆れながら、その横顔に目にあふれる、言葉以上のものを知る。
 ―――走りながら… いつも、こんな顔をしていたのか? こんな顔で、
     人間達を追い立ててきたのか? オレ達は… いやオレ達の目的は…
 何かが耳の奥で爆発した。走りながら、渾身の力で叫んでいた。
 「行くな! ボウズ、行くなっ!」
 味方の、絶句に近い意識波が、衝撃となって集まる。
 白い服の子供が振り返った。襲いかかるはずの敵の群の中に、声の主を求めるようにその顔が巡る。
 風を駆け抜けて間近にいたり、もう一度同じ言葉を叫びながら、思い切り腕を伸ばす。子供の黒い目が大きく見開かれたまま、待ち受けている。それにようやく届こうとしたとき、掌を鋭い痛みが走った。粗末ながら実用に長じたその武器は、子供の身体を突き抜けて更に、敵の手をも血で繋げていた。
 そして人間達はひとつの命も渡さずに、別の天地を指して遠ざかっていった。
 悪魔は、流れを越えずにそれを見送った。砂塵と風がおさまった頃、デーモンが踵を返す。
 「…何故だったのか聞けなかったな。」
 そう仲間に言っただけだったから、それ以上の事を尋ねることもできない。子供の身体から槍を抜いて、もう動かない人間の身体を水に押し出した。そうしてみても、子供が川を渡れるかどうかは判らない。


 不意に鳥が羽を開いた。
 何度目かの気流が勢いよく吹き上げ、広げられた翼が、それをいっぱいにはらんだ。
 その長さと白さに目を奪われている間に、鳥の大きな身体は助走もなく浮きあがり吊られるように上へ上へと昇っていく。
 気がついた時は、遙か上空に、羽を広げたままの姿が小さく見えるだけになっていた。青だけの色に、細い筆で空の高さを描き加えたような、静止の情景。
 「まるで、絵のようだな。」
 声を掛けられて初めて、連れが戻っていたことに気付いた。少しばかり動揺する。
 「…なんか、夢中で見てた。ずっと、翔ばずにいたんだ。」
「ふうん?」
「一番いい風を待ってたみたいだった。いや、翔ぶのができなかったのかなぁ…
こう、きっかけをうまくつかめなくてさ。」
「…ふぅん…」
 気がなさそうなのを相手に、必死で説明しようとする、その事の方をいぶかしがられているのかもしれなかった。友人が高地の照りつける日差しの下でもわずかにしか襟元を広げていないというのに、嬉々とした顔でいるだろう自身が照れくさくもあった。
 「さてと。オレ一人でのんびりしすぎちまった。急がなきゃない旅だってのに。」
 尻を払って立ち上がりながら言うと、連れが少し笑う。
 「ま、この辺で少しばかりくつろぐのも悪くはないさ。」
「へへっ… 優しいこと言ってくれるじゃない。」
「口ばかりは。」
 軽く流しながら、鳥の飛び立った岩先を見ている横顔。
 「どしたの?」
 尋ねるとまた、先の気のはいらなそうな顔で呟く。
 「…いや、ずっと見てたんなら、その間中、そのふわふわ頭が風になびいてたんだろうな、と。見損なったかと思うと、そっちの方が悔しいような気がする。」
 独り言のように、低くかすれる。
 「…おっさん、それ、くつろぎすぎ…」
 あまりに呆れてしまったから、声がひっくり返りそうになった。

 急勾配を、今度は駆け降りる。元より、谷沿いに迂回するよりは中腹なり高台を越えようと言う無茶な旅だ。休息を挟みながらでも、緊張に疲労が重なる。
 その荒い呼吸の中で、絵のようだとも形容される、飛翔を思い描く。
 鳥は飛び立ち、中空に在る。そして、その孤高の姿に導かれる連想の情景は、けして悪いものではない。
 ―――『だからぼくは窓をひらき 空をこえてあなたに呼びかける』――― 
◇風の音がとおくきこえる◇完


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