風 の 景 色


   かつて、一人の技師がこの都市を捨てた。
   脱出は成功し、逃走の末に、彼は辺境の惑星に降りた。
   墜とされたのかもしれない、生死の確認はなかったが、
   その地は人の長く住める環境ではなかった。
   報道はむろん無い、情報は常に管制を受けている。
   それでも、切れ切れのそれを声もなく、
   人々は肩越しに押しやったから、事を知らない者はなかった。
   そして彼らは無言で、その上に、都市での一市民の生活を重ね、
   否定の言葉で『彼』を意識の底に埋めた。
   都市は、常に、平穏なものでなければならなかったから。


 ふわりと、一度だけ浮いて見えて、その後は、薄明るい闇の底に吸われるように落ちていった。細い身体がゆっくり旋回する様が、目に幾重にも焼き付くように思えた。誰も声を上げず、『アプロディーテ』だけが、制御された機能の内で、それで彼をすくい上げるつもりなのか、サイレンを何時までも高く鳴らし続けた。

 都市機能を管理する『アプロディーテ』。
 巨大な白い柱の中、重力を消した筒状の空域は、保守のため程度の機能制限に影響を受けないはずだった。技師は勿論、指揮にあたる科学者達も、入念に整備された救命装置を当然身につけていた。
 が、『彼女』の育ての親とも賞されたドクタ・ヴィラは、あっけなく転落した。
 誰も口に出して異を唱えないままそれは事故として処理され、未だ活躍すべき優秀な学者の遺体は、『再生』のために施設へと急送された。

 「こんにちは」
 厚い黒髪を風にはためかせながら歩いてきて、彼女は強い声で言った。背に果てしなく見える荒野の、原始的な光景にも風の音にも、負けない厳しさをビィラは感じた。
 かすかに憶えのある顔に微笑を返しながら、相手の名と経歴を記憶層に探る。ターナ、『アプロディーテ』特殊機能担当の技師出身の若い科学者。ヴィラの全身では、身近ではあっても、上層の学者が技術畑と会話をする機会はない、ただデータに、邪魔を承知で切らずに通した長い黒髪の印象の強さだけを加えていた。
 「ひどいところね、ここは。」
 背を振り返りながら、そう言う。
 今では、ドクタ・ターナ。都市の社会では異例を重ねて科学者の地位につき、めざましい成果で、彼女も事故死の後に『再生』の幸運を得ていた。自分をたどるような彼女を、もたらされるデータの一つには、今度は留めてはおけなかった。
 強引なほどの希望かなっての赴任したばかりの先で、突風に、以前と変わらない髪が生き物のように逆立った。それが人に襲いかかりたがっているように見えた。
 「中へ…」
 乱気流を避けて、半ば地に埋めた造りの小さな施設を、彼女は思いきり冷ややかな顔で見やる。
 「少し、案内して下さいますか?」
 言って、先に歩き出した。初めて異境の地を踏む歩調ではなかった。
 この辺境の星では、強い風がない季節は、冷たい雨が降り通す。資源もそうない、珍しい植生も動物もない。ただ、『外』を観測支援する基地程度の位置づけと、片手間ともいえる、この惑星の探求と分析。この地を一度望んだ変わり者の、都市への帰還がかなうことはおそらく無い。
 「何も無いところね。」
 うねりの上を、風が走る。
 「わたし、あの事故を見てた。死んで、『再生』を受けて、センターに戻ってすぐ他に移って都市を離れて、あの星を出て… あれから、あなたをずっと見てきた。
 初めは、何もせずに見ていた自分がおかしいと思って。でもだんだんに、あなたが何故変わって行くんだろうと考えるようになった。それで、あなたのした事をたどってみた。でも、無駄だった。最後にあなたがここに来たとき、それが分かったわ。」
 風の息が、二人の足下をふらつかせた。持ち去られそうになった厚い肩掛けを巻き直して、ターナは足を踏みしめた。
 「あの男ね。追いかけて、ここに来る為だったのね。」
 その死体は、発見されなかった。海に墜ちたか草の波に呑まれたままなのか、それとも何処かで未だ孤独な逃亡を続けているのかもしれない。もとより、捜索は初めから熱心になされてはいないが。何度か、ヴィラも陸と海を越えて人の姿を捜したことがあった。動く影を見かけたことはなかったが。
 「自分が、同じ事をしてるんだと分かった。…だけど、ここは、何も無いじゃない。」
 理不尽なほどの怒りはこもってはいたが、声に震えはない。
 風がやわらいだ。遠くに、銀の綿毛がふわりと浮いたのを示されて、彼女はゆっくり体を回した。また一塊り、空に漂いながら形を崩していく。離れながら、風にあおられて高く舞い上がり、遠く流されていく。
 「きれいね。…一生をかけるには足りないけど。」
「あと二、三日たてば、銀の風になる。」
 初めてのヴィラの言葉を、彼女は身体を返して正面から受けて、また顔を彼方に戻す。
 ヴィラも肩を並べて、彼女の目の追うものを捜しながら応えた。
 「彼は都市を出たかっただけかもしれない。何かでこれを知って、見たかっただけなのかもしれない。…今は、それもどうでもいい。」
「わたしもそのうち納得できる?」
 彼女の横顔を、銀の種が一つ横切った。黒髪に映えて美しく見える。
 「さあ…僕は、生まれ変わらなければ何もできなかった、考えること一つ…」
「そう…迷惑な現実ね。…寒くなってきたわ、中に入りましょ。」
 勢いよくターンを切ると、彼女の髪と肩掛けが舞い上がって乱気流を起こした。
 長い雨から解放された銀の草は、西からの風にいくつものうねりを絶え間なく走らせる。そうして頭を低くしながら、誘う相手のない地味な色彩の花を付け、波打って風媒にいそしむ。やがて、小さな実が銀の綿毛を一斉に風に広げる時が来て、美しい乱舞の後に一息に雨期が始まり、種は地にたたきつけられて次の季節を待つ…
 
 どちらにしても、生きていれば、ヴィラとターナをここに到達させた男も、同じ光景を一人何処かで眺めているはずだった。
◇風の景色◇完


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