神 々 の 庭   

 『川沿いが栄えていた頃、人が往き来した洞がある。』
 岩塔の一つに住まう僧が、遠い山を指して教えた。
 『川が在るのか?』
 尋ね返す。風が土を食らってこの奇景を仕立てたかと思えば、水の流れの仕業だったか。それにしては、何の潤いも感じられない荒野ではないかと。
 『かつては。』
 それだけを答え修行者は目を閉じ、客の質意を封じた。既に瞑想に入ったらしい相手は、息すら潜めている。彼は礼を述べる機会を逸し、邪魔を詫びる心でことさら足を忍ばせ塔を離れた。
 振り返ると岩の尖塔は、胎内に人を抱えた姿そのものに見えた。凍えるほど強い日差しが洞に濃い影を作って男の顔を隠していた。その向こうにも、顔を戻した先にも、岩の塔が果てしなく続いている。何処にも生の気配がない。
 「苦行に安らぎに来たのではない。」
 彼には、これも選んだ叉路の一つ。定めた目的へ至る旅の、とある断面でしかない。

 いつまでも目が慣れないことを不審に思い始めた頃、ようやく明るさを認めて足が速まった。急がなければ閉じてしまいかねない、脳裏に浮かぶ言葉に苦笑する。光を見て闇を改めて意識する、その構造は何だろうか。
 荒野と暗がりの中を長く歩いて来たせいか、外の世界はひどく美しく見えた。
 薄くたなびく霞の向こうに、何処までも長く続く緑、柔らかな色合いの実りが梢にのぞく。細いが穏やかそうな流れ。小さな集落と、ゆったりと歩く人の姿。争いを逃れて谷間に楽園を築いた民の昔噺が蘇ったようだった。あれも長い洞窟を抜けた先に広がり、求めても二度とは辿れないものだった記憶がある。
 道を行って人に出会うと住まいに案内され、魚と果物、酒も添えてもてなされた。言葉は古くすぐには通じないが、大抵のことは手真似と表情で伝え得る。それから暖かな寝屋に案内されて、不安も抱かずにたっぷりと眠った。
 数日を過ごす内に、真にこれが楽園なのだと知った。
 周囲を荒野と山に囲まれながら、ここだけは風から守られ、水が湧く。それが霞となって暖を守り緑を育て、相乗して温室な春を保っているらしい。外から侵される不安もなく、恵みを一つに集めて。
 草の上に体を伸ばし、熟れ落ちた果実を食べて酔いに浸り、起伏なく日を過ごす。その日常に違和を抱かなくなってようやく、気づかずにいた疲れが抜けていくのを感じ始めた。
 自身の選ぶ道をそのままに進むことは、少しも辛くないとは言わないが、けして苦行ではなかった。定めた目的が先にあり常に見えている、迷いはしても疑うことはない。己の内に外の民に、手応えを得たと思うことも多い。その旅にこれほど疲れていたとは考えたことがなかった。
 『ふしぎなものだ。』
 彼が一人吐くと、傍らでまどろんでいたこの地の友人が夢の中から答える。
 『ただ、不思議に思えるだけだ…』
 確かに意識する総ては、それ以上ではないのだろうが。
 幻覚に近い夢想に入り損なったまま、幼いものの姿を未だ見ないことを考え始めていた。

 「急ぐ旅ではないが、目的を定めている。」
 別れを切り出すと、友人はゆっくりと表情を陰らせた。久遠の地に過ごしてきた相手にはおそらく意図は伝わらないだろう、それでも言わずに去ることはしたくない。彼は言葉を続ける。
ここは楽園だ。ここに安らいで初めて、疲れていたのに気づいた。…穏やかにここで暮らせるものなら、それが至福なのだろうと思う。けれど、自分の求める満足は、それとは別のものだ。」
「別のもの…? それは…」
 言葉を探すように瞬きを繰り返して、それでも相手は次を続けられず、あきらめて彼の口の再び開くのを待つ。
 「ここでは必要のないものだろう。いや、遠い昔に捨てたのかもしれない。」
 哀しそうに、友人が顔を歪めた。そう見えたのも、ただ何かの加減だったかもしれない。ここで憶え得る感情ではないだろうから。
 霞の切れる辺りまで同行し、言い伝えられるその先の道を教えてくれてから、この地の住人は彼の手を取った。生きているものの温もりに、ここに来て初めてふれたように思えた。彼はそれを強く握り返し、笑ってみせる。
 あの奇異の荒野に屍を重ねようとする僧達も、触れれば生きていると解ったかもしれないと、思い返す。
 「さようなら。」
 相手が静かに言う。
 「ありがとう。世話になった。」
 惜しそうに、それでも握った手が離れた。腕を上げて挨拶に代えて彼は歩き出す。楽園に住む人はずっと見送ってくれていたが、彼は振り返らなかった。

 谷間の出口からしばらく進んでから振り返ると、重くたちこめた白雲が切れて、至福の地のあった辺りから、人工の弧が光を照り返しているのが見えた。
 ――争いと闘いとは違う。
 最大の週末は、もはや間近に迫っている。
 また、彼は先を見据えて歩き出した。 
◇神々の庭◇完


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