風  齢   


 ステーションから随分な距離を飛んだのに景色は一つも変わらず、建物らしい形も見えない。方角を違えたか不安を抱きながら、かの友人の毎度の鷹揚さも無視できず、そのままに飛行を続ける。

 行く先々の補給地で、引き取った子供からの短い手紙が彼の到着を待っていた。差し出しのステーションも転々としている。養い親を選ぶのは後でいいと勧められたまま、素直に彼の友人と知人の間を移動しているらしい。
 戦下とはいえ、他に連絡の手段がないわけではない。けれど報告には先の時間など関係はなく、義務でもないそれを受け取れば後見の側も委細構わず、本邸に連絡を入れる際に、言葉を加える程度で済ませていた。
 降りに返事を書きかけても、一つ考え始めれば何を答えられるものかに至り、加えて戦を離れたことには途端に思考は敏捷緻密と大胆を欠く。多忙と目先の急にも紛れて、封をしたことは一度もなかった。
 長征の前に思い切らされた休暇にふさわしい景色が眼下に続く。狭い海岸線を隔てて深い青、荒野と濃い茂みを交差させる平原。その更に遠景に山並みが連なる。ここに住む友人に似つかわしい、そしてきっと一言で括られるに違いない、大いなる営みの姿。
 元のステーションまで至りかねない頃、草原にいっぱいに手を振る姿が見えた。高度を下げると子供が彼を呼ぶ声が届く。
 「お・じ・さー・んっ!」
 舞い降りた車に走り寄る子供の顔は色を重ね、目がその中で煌めく。仮の親はその眩しさに戸惑いながら、無論ささやかに満足もして応える。
 「一人か?」
「うんっ! 
「でも前に来た所だし、ちゃんと手紙も書いてきた。通信機も持ってるんだよ、ほら。」
 腰に着けた小さな箱を叩くのに頷き返しながら笑う。
 「さては、あいつはまた何かに熱中しているな?」
「絵を描いてた。」
「今度は絵を描いてるか。始まるともう、何を言ってもまるでだめだろう?」
「何も食べないから、心配になっちゃう。」
「心配になるか、なるほど。うん、それはいい。」
 これでは、どちらが面倒を看ているのか判ったものではない。共同だとでも考えておいた方が良さそうだと、と保護者は己の立場を忘れて考えた。
 「そのうち、腹が減ったなと思い出すだろう。で、それより、今度の冒険の目的は何だ?」
「冒険!」
 無邪気に、大きな声で子供が答える。
 「よし、冒険だな?」
 すばらしい返事に機嫌を良くし、非常用の一式を持ち出すと彼も車を乗り捨てた。

 日が落ちる頃、二人は森に入り野宿の準備を始めた。
 巨木の上に寝床を作りテントを張る役をかってでると、子供は一回りして立派に食料を集めてきた。虫追いがてら木の下で火をおこし、根やら果実を木の葉で包み焼き上げて熱いと騒ぎながらかぶりつく。
 欠けた月の下で香草を煮出した即席の茶をすすり始めてから、子供が尋ねた。
 「おじさん、手紙出したんだけど、着いた?」
「ああ、いつもちゃんと着いてる。」
「ほんと?」
「全部、きっちり追いかけてきて、届く。」
 数も確かめずに断言する。どこで隊の移動に遅れても、誰の手紙も先の中継地に転送されて待っている。それなりの戦渦の中、例えばそんなことを守り約されているのだと内心に自負して。
 それから気にはしていたことを口にする。
 「返事を出したことはないがな。」
「ううんいいよ。それにね、手紙書くの、わりと好きになったんだ。これはどういう風に言おうかなって考えるのがね、おもしろいの。」
 炎が揺らぐ向こうから、子供の目が光を彼に照り返す。宵の蔭が、その顔に揺らめく色を濃くしていく。
 「いろんなとこに連れてってもらったり、お話をしたりするの。父さんともそうしてたけど、いつも一緒にいたから、うんって言ってただけだったんだ。でも、おじさんは遠くにいるし、ここで僕が何してるか知らないんだから、どうしたらいいかなって思うんだけど、いろんなのがどんどん増えていっちゃうから、やっぱり全部書けなくなって、少し困るんだ。いつも、あんまりうまく書けないや。」
 自分の言葉の幼さがもどかしい、そんな感じで少し傾げたまま見上げる顔をしばらく見続けてから、彼は尋ね返す。
 「ずっと街に居たいとか、こういう処で暮らしてた方がいいとか、思うことがあるか?」
 誰かと居たくはないかと続けるのは、未だ憚られる。相手よりも幼く、己の答えが一つもでていない。
 「あのね、どっちも好きだよ。どこも、やっぱりちがうような気がするし。」
「それは、お前がどんどん違っていくから、そういう風に思うんだろうな。」
「そうなの? でも、おじさんて友達がいっぱいいるんだもん、今度おいでってみんな言ってくれるけど、きっとぜんぶは回りきれないや。」
 本当に感心したらしい声音がおかしかった。
 「まあ、多いと言えば多いかもしれないな、ろくに地面にいない割には…。」
 今は離れている者も多いが、どれも袖を別ったわけではないと彼は思っている。旧交を温める余裕が自身にないことを、悔やんでこそ居ないが。この子供も、軍を離れて偏狭に逃れた領有の残したものだった。
 「うん、あちこち行くのが嫌でなければいいんだ。」
「僕、いやじゃないよ、ぜんぜん。だって、どこもおもしろいもの。」
 きっと彼の目が念を押すようだったのだろう、子供は笑いを返しながら言った。逆に励まされている気がして苦笑いする。子供だとばかり思っていると、相手は顔を向けて進むだけに別の表情を見せる。立ち止まって見守る者より長けているのだ、そんな気がする。
 気がつくと、金属の器の底に香草の細い葉が乾いて張りつき、小さな薄い影を作っている。見上げる空に、いつの間に昇ったのか、もう一つの月が赤い。
 「…そろそろ寝るか?」
 うん、と頷いて子供は焚き火に土を寄せ始めた。

 二つの月の巡る下で、戦地に立つ子供の夢を見た。
 前進する姿を目で追いながら、それが思い出なのか、これからの予知か不安なのか、彼には判らなかった。
◇風齢◇完


このページの初めにもどる     『懸軍万里』の扉へもどる
TOP
「「伽眺風月」へもどる」