白  跡   

 先客の姿に気づいて、相手は軽く片手を挙げる。
 シークレイも、挨拶を返す。それからドックに背を向けて、無重力の中にもう一度意識を放った。

 「邪魔してもいいか?」
 声をかけられて顔を上げると、先程の男が銀のトレイを胸元に持ったまま立っている。ラフな服装の許されるこの施設の中では、髪までおおうパーカーも珍しくはない。が、何か別の意図でるあるように思える。
 しばらく相手の顔を眺めてから、我に返って慌てふためく。
 「あっ、どうぞ。すみません、ぼんやりしてて…」
「時差ぼけか、はたまた、瞑想の名残りか。」
 古株と言い切るには未だひっかかりのある、そんな笑い方をしながら男が言葉を並べる。シークレイの斜めに腰を下ろして、嫌われものの合成ミルクを旨そうに飲み、彩りの少ないサラダには小さなフォークを突き立てた。
 「あれは単に、ストレス解消になるんです。」
 相手の子供じみた行動を目の端で追いながら、生意気な答えを返す。
 「あの昼寝が?」
「ええ。」
「大抵は神経が不安がるもんだ、重力なしでは。」
「でも、寝てます。」
「さては…」
 男は唇にグラスを当てたまま、若造の目を覗き込む。
 「余程、重たい記憶があるらしい。」
 それともまだまだ怖いものなしのガキか、とでも言うように、その目が笑っている。
 「重いかどうかは判りませんけど。」
 判ってはいるが、からかいがあからさまに見て取れて、シークレイはむっとした顔をする。
 「そう、怒るな。」
 相手は声を立てて笑う。対面して話すのより、オクターブ音が高い。少なくとも制服に身を固めた時はそうはしないだろうと、新兵は思う。
 「あんなところで昼寝をする奴も珍しい。こっちもそうそうは居ないが、会うのは今日が初めてだ。何処かから、戻ってきたばかりなのか?」
「初陣から。」
「なるほど。」
 何を納得したのか、満足げに彼はまた笑い、続けた。
 「《西の若獅子》殿か。」
「なんですか、それ。」
「君のコードネームだ、無論《裏》の話だが。」
 まるで、彼らのゲームだと、シークレイは腹の底で吐く。征く者は決死だというのに、司令官方には酒の肴か、賭の札らしい。
 外から来た一群に知り合いを見つけたらしく、相手は軽く手を挙げ、席を立ってから、もう一度顔を戻す。
 「明日も昼寝に来るか?」
「わかりません。記憶がどの程度重いか。」
「それに期待しよう。」
 肩で笑いながら去る後ろ姿を見つめながら、シークレイは相手の名の候補をいくつか数え上げた。ここには司令クラスは山ほど居る、そのどれなのかは判らなかった。

 「徹夜か?」
 加速の度合いを測りながら軽く流している姿を見つけて、あの男が近づく。休暇や自由な時間に、わざわざ不快な訓練を積みに来る者は当然少なく、他には誰もいない。
 「今度は、夜なんですか?」
 問い返す。
 「新米どもが働かされてる時間が、夜だ。」
 その理屈には反論できない。訓練終了と同時に前線に放り出され、幸運にもどうにか戦果を納めてきたのだが、ここにはもう次の期の新兵が配属されて立ち番をしている。
 言い返さないまま、体が憶えているままの基礎トレーニングを流すシークレイにぴったりついて、相手も動いている。それに気づいて驚くが、意にも介さない顔の男は、やがてゆっくりと身体を転がして離れた。
 被っている簡易メットの中でパーカーの帽が取れて、短く立った黄金の髪が、薄明るい中に輝く。
 ――《北の荒獅子》…
 その名を知らない者はない。憧れた、だから丸暗記させられる戦記と勝法がそれなりに理解でき反論もした、北の戦場の英雄の一人だ。
 それがこの男だと思ったのは直感だが、疑う余地もない気がした。この国は区切られてからの歴史は浅い。目の前にその雄者が現役でいても、不思議ではない。
 向こうの壁を蹴って、男はシークレイの傍らに戻ってきた。そのまま前を通過していくのを、服の端をつかんで止めようとする。応じない相手の顔を覗き込んで、その目が表情なく宙を漂うさまに一瞬驚き、呆れる。
 ――こんな所で…瞑想とは、よくも言ったもんだ。
 放ろうとして、恐怖に襲われた。
 視点を定めない空洞の、何が恐ろしいのか判らないまま、硬直した腕がその対象を振り切れない。首筋から、肌が粟だってその感情を全身に、広げ伝えていく。ゆっくりと、髪が逆立ち始めた。背中にべったり貼り付いた時間が、永劫剥がれおちない気がした。

 「それは悪かった。」
 グルーライリァ・オブスタインが快活に笑い、詫びる。今浴びてきたシャワーのしずくが髪から垂れる。
 偶然酔い醒ましに来た彼の友人が、《死体より始末に負えない状況に人身御供まで巻き添えて漂っている元英雄》を見つけてくれたのだ。
 「こっちは、ただ何気なく瞑想してたんだが、はた迷惑だったか。」
「あれは、目を開けてるだけで、寝てたぞ。」
 気のおけないらしい友人が、言い返す。
 絶叫していたと言われればそのまま信じるだろう状態でいたのをきっちりと救助されたシークレイは、恥ずかしいのと疲労とで口を出す気力もない。
 「そうしようと思ってたんだが、上手くいかなくてな。出てきた戦艦を数えていたら死体があふれるわ、死神はわくわで、面倒になって放ってしまった。」
「ジョークのつもりなら、もう少しマトモな言葉をお願いしたいね。ともかく、この労働の貸しはそのうち返してもらおう。さて、飲み直しにいくか…」
「酔いは醒めただろうが?」
「気分良く酔いを醒ますのも楽しみのうち、でしてね。」
 言い切った後で、自分の倍は借りがあるんだからなとシークレイを指して念を押してから、彼は出ていった。
 「いや、本当に棲まなかったな…」
「いえ…」
「昼寝ができるものかどうか、試してみたんだが。」
 相手の苦い笑い方からして、どうもそれが本音らしい。できずに、徹底して訓練されている瞑想に入ってしまったのだろう。それにしても半端ではなかったと、いくらか落ち着いてきたせいで思う。
 勧められた茶が豪勢な香りを部屋に満たすのに任せてしばらく沈黙が続き、それから相手が自分のカップに盛大に酒を落とす音が響く。
 「一度、船の外に放り出されたことがある。」
 グルーライリァが、話し始める。
 「あれが一番怖かったな。これで終わるのかと思った。それから、いろいろなことを思い出して…だが、どれも何か引っ掛かりがあって満足できたことがない。悔しいと思って、そう思いながら死ぬのかと思うと余計に腹が立った。」
 薄いカップの端に口をつけて、笑う。
 「こうしているから、呼気の切れる前に拾われたわけだが。が、あれからだな。何につけ、物が見えてる気がしだしたのは…見えてるってのは違うか、自分が見てる姿がそうそう違ってない、とでも言った方がいいかな?」
 ――この男は、自分を懐かしがっている。もう、老人の一人だ。
 シークレイは、余裕をいくらか取り戻し始めていた。未だ艶やかな男の顔を見る。
 「幾つの頃、ですか?」
「初めて勲章を貰う前だ。」
 相手が答える。ならば、自分の今と変わらない。それで、こっちを子供扱い。
 ――嘘だ。それをその時に悟った訳じゃない。それとも自分は特別の存在だったとでも、信じ込んでいるのか?
 顔を向き合わせたままでシークレイは内心に思い、それも見えているだろう英雄は、もう一度目で笑う。
 「それでも、今でも一つひとつを後悔する。もっと自分が見えていれば殺さずに済んだと、死に神がからかう。その時々には必死で最善を選んでも、思い出すたびに若すぎて、すり切れる寸前でいたなと。」
 その、現実の若造には答えるべき言葉が見つからない。だから今が辛いのだと言われればそうかもしれないが、だからとそれで楽になり、何が選べるわけではないのだ。託される言葉の厚みを、知りようがないのだとまでは、賢明に感じ得ても。
 「僕には、きっと本当の意味は判りません。」
 だから、はっきりと返す。答えられる言葉では、シークレイは応える。
 「それはそうだ。」
 相手はあっさり受けて、顔を変えずに言う。
 「私も、判らなかった。こうるさい爺様方に説教されて、今でも理解できずにいることは、夢の中で数えられるほど幾らでもある。きっと墓場まで抱えていくのもあるな。そんなものは案外ただの自慢話かもしれんしな、実のところはどれも。まあ、これは違うぞと、この小若い爺さんは主張しておきたいけれどもな。」
 言葉の最後の方は、ほとんど笑う声に負けて、オクターブを駆け上がっていた。
 説教された小賢しい英雄の卵は、やはり判らないだろうと相手に宣言を突きつけて、それでも不快も残さずに先達に送り出されて別れた。
 そのまま、《北の荒獅子》はまた新たな戦域に旅立ち、《西の若獅子》の方は再度前線に押し出されて、それきり会えずに終わった。

 「それで?」
 相手が続きを促し、その言葉でシークレイは我に返ってその顔を見る。幾つも若く、そのころの自分よりはるかに賢く大人びて見える。ほんの子供だと考えると同時に。
 「ああ、それで…その後で判るようになったこともいくつか有ったし、判らないことも未だ沢山残っている。」
「ふうん?そういうもんかな?」
「だと、思うよ。」
 そして、あの英雄が教えられた時より、自分が伝えられた時より、より今が二人の間に距離がないのだと思う。重ねられた感情が言葉を補って伝えるのを、繰り返してきたのだから。より早い時にそれをもたらされ、身近に置くのだから。
 「やっぱりよく判らない。」
 子供はきっぱり言って、移動用のパイプを蹴ってスピードをつける。追いかけながら、シークレイはそう返される立場をじっくりと味わう。そう、悪くはなかった。
◇白跡◇完

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