タニアの話
III/ 暁の色を ◇ 戦士タニアの話


 厚い雲が切れた。魔界にも明るい季節が訪れる。
 友軍として迎えられ、紺碧の魔王の石の胸飾りと皇太子の深紅の石の手甲をつけて、軍事総司令を世話役に従えた小娘を、苦情はともかく表立って遮れる者はない。
 その、《六翼落としの勇者》タニアは、出自を示す闇と光の《雫》を首の飾り輪の裏に付け、あいも変わらず手足をむき出しにした軽装で、王宮と町中とを問わず、勝手気儘に駆け回っている。それでも、特別の待遇で魔界に住まうにふさわしい教養なるものをたたき込まれ、エースに及第点を授かるまでにはなっていた。その、披露の時も数日後に迫っている。
 デーモンは、エースと共に王宮の近衛連隊を補佐して、舞踏会への賓客を迎える準備に忙殺されている。世話役よりも養い親然として、大事ならしい時にタニアをかまってやれないと思うのが、大分こたえているらしい。呼び出されて、ルークが彼女の気晴らしの相手を頼まれた。
 確かに、タニアの疲れた表情と赤い眼は、見る側を不安にさせるが、デーモンの方も変わらずにひどい顔だった。
 希望を聞かれて、剣の稽古と遠乗りがしたいと答えるタニアに、それだけでいいのかとルークも重ねて尋ねる。
 「今の内に、子種を貰う約束もしておけ。」
 かねてからの彼らの大問題を茶化して言ったが、それも承諾どころか、強く求めれば、そのまま寝室に向かいかねない顔で、デーモンがタニアの次の言葉を待っている。呆れて、ついきつい言葉がでた。
 「知ってるか? 子供がむずかるのは、母親の精神不安定を映すからだ。いっその事、舞踏会が終わるまで王宮に泊まり込んで、帰ってくるな。」
「何だそれは。」
 癇にさわったらしく声を荒げておきながら、すぐに真顔になる。
 「その方がいいと言うなら、そうするが。」
 それがかえって腹立たしい。本当は、タニアを巻き込んで二人がかりで手荒な言葉で励ましたかったが、さすがにそれもできないほど、口調が情けなく思えた。今度は、タニアが怒って叱りつける。
 「それはだめだ。忙しいのはデーモンなんだから、ちゃんと屋敷に戻って休むべきだ。顔を合わさない方がいいのなら、私が他に行く。」
 「ほら、タニアの方がよほどしっかりしている。じゃあ、今夜はゼノンの屋敷にでも泊まる事にして、剣の相手を捜しに行こう。…もし何かあったら、連絡を入れる。」
 戻す顔のままに冷たくつけ足しても、相手はただ言葉を返した。
 「わかった。すまないが、宜しく頼む。」
 引き受けはしたものの、あのエースをもお供に引っぱり出して、しかもその肩を借りて寝たという強者の、今のひどい顔をどうすれば回復してやれるか、さしものルークにも算段はなかった。
 街に向かってしばらく進むと、総司令の馬車が王宮へと山沿いの道を猛進するのが見えて、ルークは馬を止めた。
 「さて、タニアは何処に行きたい?」
 怪訝そうに見返す娘に、笑いかける。
 「何か考えることがあってそんな顔をしているなら、端から全部やればいい。本番は間に合えばいいだけだ、出かけるにも時間はたっぷりある、何処でも行って戻れるさ。俺だけで不安なら、ゼノンでも何でも、引っぱり出せばいいんだし。」
「デーモンに心配をかける。」
「判らなければいいんだよ。音信不通なら何もなかったことにする、そう言ってあることだし。」
「あれが?」
 頷けば、呆れたという顔で、やっとタニアが笑う。それだけで、随分と違って見える気がした。
 「それは、まだ先でもいいんだ。…ここまで来たから、新しい剣ができたかとどうか見に行こう。」
 ルークは肩をすくめる。
 「考えるより、危ないことを思いつくものだ。」
 言われて否定もせずに、タニアが馬の脇腹を蹴った。
 ゼノンの屋敷は、海寄りに街を外れて建っている。外観だけ見れば離れを工房に改造してある程度だが、内部はかなり手が入っていて、かつての離宮の優雅な面影はない。それでも妙に馴染んでくつろげるのが不思議だが、同じく下賜されても主しだいでこうもなるのだと、エースが評したことがある。
 片が付いたところか、馬の足音に気付いて、ゼノンが工房から出てきて手を振る。示されるままに屋敷の方に回れば執事が出迎えて、陽気がいいからとバルコニーに案内された。家事一切を引き受ける、その細君が挨拶に来て、直ぐに支度をするから遅い朝食につき合って欲しいという。居れば居たで手の掛かる主は、しばらく仕事に掛かりきりだったらしい。タニアが手伝いをかって出るのをからかう。
 「かえって、邪魔になるんじゃないの?」
「馬鹿にするな、これでもキャリアは長いんだ。魔界の貴族のやらないことなら、何でもできるよ。」
 威張って言い、大笑いする細君に付いていったかと思うと直ぐ、酒の瓶と杯を二つ手にして、戻って来た。
 「かるい奴を選んで貰ったからね。」
 そして又、階段を駆け降りて行く。ゼノンは傍らを風のごとく走り抜ける姿に、元気がいいねと笑いながら来て、厚布にくるんだ剣を卓上に置いた。
 「気晴らしさせてくれと言われた。とても、そうは見えないだろうけど。」
「疲れてはいるらしい、しばらく眠ってない顔だね。」
 さして心配でもなさそうに言いながら、かつての養い親は手元の包みを解いた。
 タニアの身長に合わせた、小振りの両手剣が、くだんの胸飾りと手甲に合わせて金の細工に飾られている。鞘から抜かれると、不思議な反りが光を集めて刃先に流し、卓上に雫を落とす。ゼノンの手がそれを元に収めるまで、ルークはあまりの美しさに見惚れていた。
 「今、替えを打っているんだけど、なかなかいいのが出来なくてね。」
「替え、だって?」
 やっかみのような不満を言えば、軽く笑い返される。
 「だって、武器だもの。使って、折れて当たり前の道具を、タニアに一振りだけ持たせるわけにはいかないよ。」
「やれやれ… つまり、いずれは戦士だと言うことか。」
 その嘆息には答えず、ゼノンは剣を包み直し、杯を並べて酒を注ぎ分ける。細かな気泡が、陽光にきらめいて見えた。それを口に含んで小さな刺激を楽しみながら、ルークは次の行き先を考える。この美しい武器を手に入れて、いずれはの戦士が眺めて楽しむわけがない。少しはここで発散するにしても、この時期に多少の傷を負わせることを前提にすれば、兵舎に行くのが妥当に思えた。
 食事が済むと、タニアがさっそく剣を振り回し始めた。少し酒が入ったせいで勢いづいたのか、調子を見たいというゼノンに、早々に切り上げる約束を先に取り付けてからつき合って、二人がかりで相手をつとめる。
 どちらもけして剣技が苦手なわけではないが、全身に防具が要るような先の読めない相手に巡り会ったためしがない。ゼノンが敵に回したら大変だと囁き、誰がそんな馬鹿をと答えるが、その戦い方以上に、剣を振るうのに我を忘れるタニアの背に、高くはばたくような闇に、ルークは恐怖を感じていた。
 
 それからは、午後の大半を兵舎で軽傷者の山を積んで過ごし、遠乗り代わりに山際の道を大きく回って、王宮に向かった。タニアが魔王や皇太子の宮と奥向きに顔を出している間、ルークは出向いている兵や士官をねぎらって歩く。
 エースと顔を合わすと、すかさず苦情が出た。
 「タニアをうろつかせるな。」
「気晴らしを頼ませてるんでね。文句は世話役にどうぞ。」
「この忙しいのに面倒を増やすくらいなら、デーモンを連れて帰ってくれた方がまだましだ。」
「あれじゃ役に立たないから頼む、じゃないの?」
「言えば、タニアごと置いていくような奴にか?」
 鼻先で笑い、別の調子でつけ足しながら、すれ違っていく。
 「めどがついたら、先に帰す。」
「タニアに、人界の子守歌でも教えておくよ。」
 答えて、ルークも歩き出す。いくらも進まない内に、タニアがエースを捕まえて話す声が廊下に響いた。また、エースと彼の手を焼かす者の、噂の種がまき散らされ、拾い集められるに違いない。
 街に戻って、軍事と参謀と共用の士官用食堂で夕食をとれば、部署一つ分ほどは王宮に回っているから閑散としていて、下級兵用のはさぞ寂しいだろうと、タニアが面白がる。覗きに行きかねないようすだったが、腹を満たすとすぐに眠そうな顔になったので、デーモンの屋敷に戻ることにし、タニアもそれに従った。

 仕事がら昼夜を問わずに詰めるのが多いのと、そこにある私室で十分に間に合うのを理由にするエースを見習い、かつ口実にして、ルークは魔界に家を持たない。物に縛られるようでうっとうしいのもあるし、責務を離れてくつろぎたい時は、専用の寝室に来客用にと居間まで用意された、友人宅で用が足りる。それが誰からの賜り物の離宮であろうが、自分の物でなければ、知ったことではない。
 執事は常と変わらずに迎えてくれたが、タニアの顔に大分安堵したようだった。デーモンが早く戻るだろう事と、夜食の用意を頼んで、階上に向かう。
 先に昇ったタニアが、街の側でない方の、あまり使わない居間に入るのに従う。西に開いた窓から、中庭を挟んで、屋敷の主が寝室を置く低い離れ棟が見える。その更に向こうの夜の暗がりに、果敢と勇猛で名を馳せる、デーモン族の領分が広がっているはずだ。
 「明ける頃に、デーモンを見ることがあるんだ。気晴らしだと言うけれど、この頃は、 遅く戻った晩ほど、出ていく。」
「それを、毎晩、確かめているわけか。」
 指摘すれば、思い煩う娘が寂しく笑う。
 「ただ、ここにいると見てしまうだけだよ。自分が本当にタニアになれるのかも、何が出来るかも判らないし、急かしておいて、何もしてやれない。」
 タニアの横顔に、室内にもある夜の蔭が差している。ルークは肩をすくめてから、努めて明るく答えた。
 「それはどうかな。エースとダミアンの因縁に、奴の絡みだ。彼らだけで終わらせるべき話だろうさ。後から来た者には、知らないって強みがあるんだと、俺は思うけれどね。」
 それを、ルークらしい、と笑う。
 「なら、タニアらしい強みも、いつかは見せなきゃね。端から全部、やりたい事をやって。…今日はありがとう、おやすみ。」
 そのまま自分の寝室に向かう後ろ姿を見送りながら、いつかが、少しも先の話ではないだろう事をルークは思う。それも、かけた言葉そのままに、総てを端から並べて、タニアならやるに違いない。


 舞踏会が幕を上げようとしていた。
 魔王と皇太子の玉座を奥に据えて、同じく魔界の祖である大公爵と、近隣や天界からも招いた種族の長を向かい合わせた、桟敷席が長く連なる。その中央で、粋を揃えた楽曲にのせて、典雅な踊りと優雅な駆け引きが、直に始まるだろう。
 毎度ながらの皇太子の花嫁選びに加えて、今回はタニアのお披露目があるし、天界の雷神族の御子であるライデンの、婚約したての姫君も招待されたとあって、近年にない華やいだ雰囲気に溢れている。
 昨夜早い内に、タニアが連れ戻しに来たのをいいきっかけとばかり、彼女に付き添わせるのを口実に、エースがデーモンを帰してよこした。代わりにと王宮に詰めていたルークは、警護用に隠された高みの小部屋の一つで、エースを捕まえた。仕事のあらかたを終えて、ホールを監視しながらも、一息入れていたところらしい。奥向きからの差し入れだろう、焼き菓子やら飲み物が、小さな卓の上を彩っている。
 「タニアじゃないけど、まったく魔界ものんきなものだ。」
「これはこれで一大事だから、面倒な話だがな。」
 エースも、さすがに口が軽い。
 「それにしても遅いね。ゼノンもまだ見えないし。」
 言いながら、招待席の、話題の天界の姫君の観察にいそしむ。白菊姫の名のままに、白の小花で飾った細身が美しい。
 じきに、入り口の方に声があがった。さざめく人垣が別れて深紅を敷き詰めた床を
開ける、その花道を、一目でタニアとわかる姿が、長い黒髪をなびかせ、大礼服の
デーモンを従えるようにして悠然と進んできた。
 「やってくれる。」
 エースが言う、その声が、笑いらしい色を含んでいる。
 魔界にある勇者とはいえ、姫君にふさわしく誂えたはずの幾重の厚絹の脇を腰まで開いて、タニアは金色の鎧に、足甲まで着けていた。出生を秘める飾り輪も、皇太子ゆかりの手甲や魔王の石を据えた胸飾りですら、彼女にはただ武具の一つでしかないらしい。そう思わせるほど、この華やいだ場に不似合いなはずの鎧の、金の色が映える。
 「デーモンが魔界で初めに誂えた《礼服》だ。あれで、ああして歩いた。まるで同じ事をする。」
「あれが?」
 問いには答えず、エースの横顔が笑っていた。何を思うのかは知る由もないが、かつてダミアンにデーモンを引き合わせた彼が、今、デーモンがタニアを手に入れたのを見ている。ここまでに、どれほどの時間を待ったのだろうかとルークは思ったがまだ先があるだろう事も確かだ。
 玉座から始まり、順に型通り品良く挨拶して回るタニアを、二人は肩を並べて眺めた。
 「一度くらい、タニアの踊るのも見たかった。」
 言えばエースが、常のさめた顔に戻る。
 「後で誘ってみたらどうだ?その姿なら、タニアにリードさせて、充分に酒宴の慰みになる。」
「二つ折りになって、あの腕の下をくぐれって?」
 それに近い身長の差を指摘されて、さて、とエースが目を逸らす。釣り合いで言えば、ルークの相手を務められるのはエースとダミアンくらいのもので、まさか彼らでも皇太子を余興に使うわけにはいかないのだから、彼には都合が悪いのだ。
 タニアは最大の仕事を終えるとデーモンと別れ、ライデンに声をかけられたのを幸とばかり、桟敷に入り込んで、白菊姫と話し始めた。姿はまるで違うが、年の頃はそう変わらなく見える、何やら随分と楽しげだ。ライデンが傍らに立って、それを見ている。
 ルーク達も広間に降り、面倒ながらも一通りの礼を済ませて、デーモンと合流し、蔭になった席を占めた。運ばれてきた飲み物を手に、こちらでも話が始まる。
 「まったく、何を考えているのか判らん。昨夜は王宮に来て我輩を連れ戻すし、今朝顔を合わせれば、戦士になると言い出す。なだめて引く相手でもないから諦めたはいいが、見合う装束なぞまだ無い。言うままに我輩のを引っぱり出して、ゼノンを呼びつけて何とか直して貰ったのだ。」
 ぼやく言葉のわりには、何やら嬉しそうな顔のデーモンを、エースが一言で片づける。
 「親馬鹿の、極みだな。」
 「謀られたって、気がしないか?」
 ルークが重ねてたたみ込めば、目をくるりと巡らせてから、いいではないかと小さく言う。誤魔化すのを見ると、半ばは気付きながらも、タニアがどう押し切っていくのかを見ていたと言うところだろうか。それも、自分の方があの小振りの手の内に、はまったとでも思って。
 「親のつもりでのんきに眺めていると、危ないよ。あれは、ようやく育った娘じゃなくて、アンタに子種をせがむ、得体の知れない魔物なんだから。」
 浮かれるのをつい諌めて、不快な顔を待つ間を楽しむのは、どうも性らしい。それに肩すかしを食わせて、真顔でデーモンが言う。
 「近頃言わないところをみると、少しは先送りする気になったのだろう。いずれ、それも考えてやらねばならんが。」
「崇拝するダミアンの紹介だからな。」
「それより、《黒のタニア》が望んで、叶わないことはなかったと言うからね。」
「いや、叶えない望みはなかった、と今は言うべきだな。」
 エースの一言が、意味ありげに響く。
 こちらに気付いて、タニアが手を振ってよこす。飾りを着けない利き腕が大きく動くのが、華やかな舞踏会の桟敷に妙に目立った。それに律儀に頷いて見せてから、デーモンは気のおけな過ぎる友に振り返って言った。
 「いや、次が控えているからな。待たせては悪い。」
 笑う目をエースが見返し、口を開こうとした時に、踊る人垣を抜けて来るゼノンの姿が見えた。ライデンも気付いたらしく、女性二人に声をかけて座を離れ、途中で飲み物を銀盆ごと調達して、給仕を気取って届けてくれた。
 可愛い姫君だだの、ほっとくとタニアにさらわれるぞだのと、声を揃えて言えば照れ笑いしながら、頭を掻く。
 「元々、決まってたようなもんだし、そろそろとは思ってたんだよね。だからさ、ま、気合い入れて頑張ってみました。」
「うん、長くなるかもしれないからね。」
 間合い良く一同の元にたどり着きながらの、ゼノンの言葉に、エースは杯を口から離し、デーモンが片眉をつり上げた。けれど、どちらも何も言わず、目の端で互いの顔色を探り合っている。ルークは呆れて、声に出した。
 「まったく… 同じものを見てるのに大人は面倒でかわいそうだって、タニアの声が聞こえないか?」


 薄いながらも、雲間からさす陽が、眼下から広がる魔界の景色に、穏やかな蔭を加える。
 いつからなのか、闇に籠もっていた皇太子の間の帳が、開かれるようになっていた。明るさに目を細める事もせず、頬杖をついたダミアンが、街へと続く道のりを眺めている。
 初めての会見以来、暗がりの奥に浮く輪郭から思い描いていた顔と実際とが、さほど違わなかったことの不思議を、ルークはぼんやりと考えていた。
 心定めて魔界に入った時、既に、皇太子は玉座で優雅な微笑を湛えていた。ルークは、情報を制しながらダミアンと共に戦場に立ったというエースの雄姿も、それに加わった頃のデーモンも見てはいない。ましてや、彼らの間の特別の感情など、知ったことではないと思っていたし、かけひきの道具にも使ってきた。
 しかし今、タニアが現れて、ルークも一絡げに過去にまとめ、その濃い闇で魔界を強烈に照らそうとしている。それを、闇の世の皇太子と魔物どもが、眺めるつもりでいて、突きつけられている。何か妙で、ルークも薄く笑いを浮かべていた。

 遠く、名を呼ぶ声が届いたような気がして、北の尖塔を見上げると、何時の間に登ったのか、一杯に手を振るタニアの姿があった。窓に寄ると、その腕が海の方角を示すが、目を凝らしても、その示す先には何も見取れない。
 塔を向くと、タニアは高い手すりの上から、もう飛び降りていた。マントを大きく膨らませて落ちる姿に、下の警護が気付いて騒ぎ立てる。
 途中で、絡まる蔦に手を伸ばし、塔の膨らむ胴を蹴って勢いを殺しながら、中宮の屋根先に無事降りると、そのまま目先の高みから高みと飛び移って来る。
 「…窓を開けてやれ。」
 ダミアンの声と、ルークが肩に気を込めて枠ごと落とすのとが、同時だった。転がり込むのに間に合ったかと思うのから一瞬おいて、舞うように、タニアがつま先から桟に降り立つ。身体の動きを追いかけて、黒い髪と首の飾り輪が肩に落ちた。
 「南の沖だ、海がせり上がっている。先に大波が来る、港に回って報せながら、行く。」
 波が先に来るならその後ろに、海面を押し退けるほどの力が降りている。タニアが行くからには、いよいよ神界が兵を挙げたか。その大軍は、直に姿を現すだろう。海という、人界をかすめる方角をあえて選んだからには、この、彼らの《聖戦》を知らしめす算段に違いない。
 「無茶はするな。」
「うん、先に行くよ。…ダミアン!剣を貸して。」
 ルークが自身のに手をかけるよりも早く胸元に届いた、剣を受け取って、くるりと回して重さを確かめる。魔界の皇太子の宝剣も、この娘にかかっては、頼りなくとも有る分いいだけの、予備でしかないらしい。空いた方の腰に着けると、身を翻して消えた。ほどなく下から、馬のいななく声と、蹄が地を蹴る音が高く響いた。
 瞬く間に見えなくなった姿が、騒ぎに集まる者達の囲い、開ける道を、風を起こして駆け抜ける。その様を、ルークは心中に眺めた。闇を駆って嫁ぐ《末摘花の姫君》の、馬車を飾る白い小花が散るように、タニアが急を叫ぶ声は、道沿いに走り隅々へと広まって行くだろう。
 その背に、ダミアンの穏やかな声がかかる。
 「かのエースにも敵わぬ物の一つは、己の目に確かめる者と奥向きの、伝える声の早さであろうな。…天界でも今時分は、白菊姫が雷神の御子殿を見送りに、参じていよう。」
 神軍が攻め降りる度に、魔界はそれを迎え撃ってきた。それがこの世界での歴史の区切り方だとも言える。
 魔軍を発てるのに、時間はそうは要らない。兵は身支度を整えて本部に列し、点呼を待っているだろう。あらゆる職も、既に戦時の体制に着いているはずだ。家に在る者は、補給の糧食を道具を調達すべく、走る。兵舎では、年寄りの指揮と子供の手で、庭に竈が組み上げられ、駆けつける志願者の武具が空き部屋に並べられていく。
 繰り返されてきた戦いの始まりから終いまでを手伝いながら、魔界の幼な子は育つ。輪の上になぞる道のりは、進む先を変える者がなければ、彼らの生のの如く永劫に続くだろう。
 ルークは、いずれ標となるべき魔族を振り返り、彼は頬杖に傾げていた顔を正して答えて言った。
 「圧勝でなくては、任を解く訳にはいかぬ。それでは、かの娘の敵うべき望みには沿えない。」
「つまらない心配より、自分の役回りを果たすことを考えておくことだ。」
 言えば、未だ玉座に腰を据えたまま、ダミアンが笑う。
 「それは、まだ先で良かろう。忠誠は要らぬが、人界を手に入れなければ、魔界のいく末を託すに心許ない。」
 ルークは細い眉を寄せてその言葉を聞き、ダミアンに向けて放ち返す。
 「人を味方に得るのでなければ、どちらもにも明日はないと、同じ事を、デーモンなら言うだろう。だから彼の参謀として、あんたに答えておく。統べる者が留まらず先を見る限りは、我らと勝機は、魔界と共に在る。」
 目の前に広がる、何とも形容しがたい微笑を強く見返してから、それに背を向け、ルークは歩き出した。
 共に戦うために、遅れを承知で魔界に来たのだ。参謀となって、彼はデーモンを活かす道を探ると定めた。そして、タニアは魔界の今を区切り、戦士の席を選び取ることで、彼らを闇の安息から引きずり出そうとしている。
 エースによってデーモンと引き合わせられた、次の世への標が、まだ時の到来を告げないのなら、彼らが顔を向けるべき先は、今の、戦いの場だ。


 街へ向かう参謀の馬車を、王宮からの使者が追い越していった。
タニアの話◇III/暁の色を◇戦士タニアの話◇完

この長い話を読んで下さり、ありがとうございます。
                by.蛇門

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