タ ニ ア の 話
II-III/ 金の章 ◇ デーモンの昔の話
 


 見上げれば、空が蒼い。夜半を過ぎてから明けるまでの間の、この曖昧な色合いが、デーモンは好きだった。
 度々ではないが、屋敷を抜け出し、北の荒野を彷徨うことがある。馬に歩みを任せて、漆黒に埋もれて闇に身を漂わせている内に、やがて夜は褪せて白み、暁の色を見せてくれる。
 この地は、かつて闇の世界に孤高と勇猛で君臨した、デーモン族の領分になる。長となったデーモンが魔王の臣下におさまり、多くの若者が名を持ち魔界に身を置く今でも恐れられる、不可侵の地だ。
 一族の長に、かつての彼らの誇りで挑もうとする者がないとは言えず、また、それを利して彼を葬りたい向きがあるのも確かだ。だが、だからこそ彼には、大切なものなのだ。この地での、黎明の刻が。


 デーモン族は力を誇り、より強い者との戦いを名誉とする。その長も世襲ではない奪い取るものだ。敗北は、不死に近いまでに強靱な身体の壊滅を意味する。それほど彼らの気性は激しく、その力は強大で、至上であるはずのものだった。
 まだ力もない記憶もおぼろげな頃から、デーモンはその時代の頂点に近い一人と彼の率いる小さな群の元で育てられた。女のどれが母だったのか、男が親なのか、あるいはその倒した相手だったのか、知らないし教えられもしない。それが当然のことだった。見込まれて厳しく鍛えられた後に、力を揮うに少しばかり知恵が先走る質が目立ち、長に引き取られることとなった。
 長は、幾多の挑戦者を廃し命永らえた、長老でもあった。身体は萎えて見えても、発する気は少しも衰えず、かえって別の強大な力を感じさせるほどだった。さすがに彼が先史の民の廃屋に手を入れて、人界や天界の書物を集め読みふけるようになっても、邪魔する者はない。その、一族らしからぬ環境の元で、彼の教育を受けて、成長した。
 神界から別れた一群がこの地に降りてから、既にどれだけの時が経ていたのか。闇にうごめき、あるいは覇を競った魔物達のあらかたは平定され、魔界という新しい世界が出来上がろうとしていた。それまで主を持つことなく、永劫に荒野を覆うはずだった闇ですらが、魔王の手に統べられて、時に薄らぐようになっていた。
 その、紺碧の色の下、滅んだ町並みの更に名残を歩きながら、長は呟く事があった。
 「我らの適う時は、もう、とうに過ぎたのかもしれんな。」
 穏やかな声を、デーモンは黙って聞いた。そう言う老人に族長になるべく育てられいずれ自分が選ぶ道を、思った。
 謳歌する時が終わり敵わぬ相手がいるから滅びが待つというのは、納得ができない。しかし、名誉のために力を信じる終焉なぞ、あまりにも愚かしい。だから、一族とこの闇の世を繋ぐために、彼らの誇ってきた物を否定することと、その手段を決めていた。それ以上の方法は既にあり得なかったから、気の遠くなるほどの時間と苦難を、承知するよりない。
 長じて、それを告げたとき、長は穏やかに微笑して頷いた。肯定はされないが否んでもいないと、それを受け取りながら、更に長い時間をかけて精と根を尽くして自身の成長を待ち、ようやく決意を実行に移した。 しかし、慎重を期した末の行動にもかかわらず、覚悟したどころではない至難に、苦悶する日々が続くことになった。
 そんな頃によく、明るむ闇の中を歩いた。滅びた時代の名残から、デーモンの一族が住む岩陰の荒野まで。一人進む先に、既に始まっている、新たなる世界の気配を感じながら。


 ある時、使者が決死の荒野を渡って訪れ、魔王からの招待を伝えた。長は承諾した。それは、孤高と勇猛だけを誇る一族の長として長老として、自身と育てた子の命以上を賭けての暴挙だったといえるだろう。
 彼に継子として連れられて、一族の力と気を誇る軽装で、デーモンは魔界の舞踏会なる宴に赴いた。天の神族そのままに華麗で典雅な雰囲気は、ただ、余所者の成す世界に平伏する魔物の長達を卑屈に、矮小に見せた。だから殊更に、彼は胸を張って歩く。魔の一族を評価し任せはするが、けして屈するものではない、それを招かれた身として示さねばならないと思った。
 しかし玉座の前に立った時、魔王の背に、強大な闇がそびえていた。見えるはずの物ではない、それでも総毛立つほどの気配がある。招待の礼だけを述べる長に並び、毅然と、魔王と傍らに立つ皇太子を見てはいたが、内では、威圧され倒れそうな自身と戦うのに必死だった。
 そしてこれが、かつて彼の決意に穏やかに笑って頷いた、育ての親からの答えなのだと、考えていた。伝えるのに、長は、行動を選んだ。デーモンには、それが自身の決意とその実行への何よりの、承諾と励ましでなければならない。
 やがて、一通りの客が魔王への挨拶を終えて、見る者達の緊張がゆるむ。和やかな空気にはなったが、今だ不屈のデーモン族への、興味に満ちた視線は絶えない。
 そこに人垣を縫うようにして、細身の黒服に重そうなマントを付けた若い男が現れて、声を掛けた。若長殿、と自身が呼ばれた事に驚き、デーモンはその顔を見た。その背から来た、優雅にきらびやかな皇太子を振り返り、彼は同じ言葉にデーモン族の、と加えて紹介する。先方は自身をダミアンとだけ名乗り、傍らを指して友人のエースだと告げた。応えようにも、デーモン族には個々の名前が無かったから、いずれデーモンとして会うべく戦うものだ、と言った。それに皇太子は鷹揚に頷き、黒い姿は含むような笑いを浮かべた。
 わざわざ呼び止めて、改めて自分の口から紹介することの、意味が判らない。自分よりいくらかは年かさらしい、皇太子と並んでも存在と影のある男の、エースという名を、デーモンは不思議な気持ちを添えて記憶したのだった。
 長と並んで戻り道を辿りながら、自分の選択の正しさと厳しさとを噛みしめた。一人ではなかったし、今で言う朝に近く白んではいたが、荒野を覆う闇が、襲いかかるほど凶暴に思える。
 魔王の手に収まり、彼に統べられるのを見ることで何故か初めて、闇のその力と巨きさが知れた。それを治めて、明けることをさせる魔王の存在は例えようもない。ましてや、ただその下で争うだけの代を重ねる、魔物なぞに意義はない。
 デーモン族が、魔界の王に従う。それが彼の定めた、否定の仕方だった。そのために長になるのだし、その手段は、一族が誇る以外の、先の魔界に生きるものでなければならない。彼は、言葉で説得することを、決めていた。
 一語に尽きる、しかも目に見えて進む現実を、それでも、揮う力以外を認めない者に知らしめるのは容易ではない。しかし、不可能では絶対にないと、信じてきた。出来なければ、終焉に続くだけだ。デーモン族のみならず、魔物と、あらゆるものが棲まうこの闇の世界を、末路に向かわせるわけにはいかなかった。己の、力が及ばないことで。


 さして日を置かず、疲れた顔色で、また紺碧の荒野を風に任せて彷徨い歩いていた。長の意表をつく行動に、強者達はデーモンに対しても警戒を強め、話をするのも難しかった。それも一つの変化とはいえ、彼の成果ではない。長に連れられて魔王に会ったことで、いよいよ道がはっきりと見えながら、それを進むのに力量が足りないのが辛かった。
 ふと途切れた風の隙間から、何かの音が聞こえて、足を止めた。荒野の先から、規則的な音が向かってくる。それが近頃知った、馬の走る足裁きだろうと、デーモンは見当を付けた。魔界は、夜にかけて使者を立てるほどの距離ではない。まして闇に棲む一族に、夜更けに何か仕掛けるわけがないから、あえて時を選んで魔界を出た、物好きな客だろう。長の屋敷まで案内するつもりで、その場で待つことにした。
 直に、姿というよりは、白む藍の中に輝くような強い闇の色の、高い背が現れた。馬は真っ直ぐにデーモンに向かって走り、正面から、皇太子の長い金色の髪と、衣服のきらびやかな飾りが見える。それが光ると判るのが、不思議だった。
 近くまで届いてようやく、待つ姿に、彼は馬の足を緩めた。こちらを確かめる為なのか、回り込むように歩かせてから、魔界の皇太子ダミアンが魔物の領分の、荒野に降り立つ。デーモンは身じろぎもせずに、それを見ていた。
 「会えて良かった。」
 息が荒い。それでも、朗らかな顔で言った。
 「無茶なことをする。」
 ただ事実を指摘すれば、それにダミアンが、声を立てて笑い返す。
 「それは承知だが、そなたに話したいことがあった。」
 長ではなく自分にと言うのが不可解で、ついデーモンは視線を巡らし、気付いてまた相手の顔に戻した。見ていたのかどうか、彼は肩を並べるように傍らに来てから、先に歩き出した。それに、従うことにする。
 少しだけ、静かに時間が過ぎた。紺碧から空が白んでいくのを、足元に薄くにじみ出た影で知ることが出来る。その岩陰で、ようやく客人が振り向き、口を開いた。
 「まだ先の話だが、そなたに頼んでおきたい。いずれは魔界に在って、その力を揮って貰いたい。」
 言葉に驚いて、デーモンはダミアンの顔を見た。美しい眉目に垂れかかる金の髪よりも、漆黒の瞳が輝く。
 「いずれ王位を継ぐまでに、今以上のものを束ねねばならぬだろうが、私は闇の者だ、この手一つではとても力及ばぬ。友に戦う仲間が欲しい、そなたの手を貸してくれぬか?」
 背に負うものが激しくうごめくのと逆に、その口調は穏やかでさえあった。真顔の強い目の光に、それでも、明るむ闇が静かに佇むのが見える。
 しかし自分は、思うことを遂げるにすら難儀して、この荒野の風の中、癒しに薄闇を彷徨い歩く身でしかなかった。何を答えられる筈があろうか。
 「約束は出来ない。」
 デーモンは告げた。それ以上は、自身の内のことなのだから、言う必要はないと思って、気負った顔だったのだろう、ダミアンは微笑を返して言う。
 「時が満ちるまでは、はるかに遠い。急ぐことはない。今宵は、ただ私が確かめておきたかっただけだ。」
 「一つだけ尋ねておきたい。エースと言った、彼が何故、改めて我らを引き合わせたのか、貴方はご存じか?」
 問いに意外そうな表情をはっきりと顔に出し、それでも相手は答えてくれた。
 「何故かまでは、知らぬ。が、そなたを手に入れられなければ、魔界の先は見えないと言った。彼の目に適うのだ、よほどの逸材であることを、そなたも信じて間違いはなかろう。」
 響きの良い声と、少なくとも言葉そのものの意味することが、一つひとつ底へと沁みていくようだった。
 遠く遙かに、重なって蹄のものらしい音がした。ダミアンは、魔界に顔を向けるようにして、その方角を確かめる。
 「迎えが来たらしい。」
 闇の世の皇太子は美しい動きで馬に跨り、軽く手を挙げて別れを告げる。それに頷き返しながら、向かう先にいるだろう黒装束の彼の友人の姿を、デーモンは思い描いた。


 気がつくと、蹄の音が近づいて来ていた。振り返って待ち、透かし見た影が皇太子のものと判り、デーモンは素早く周囲の気配を探った。間近に至って、馬を降りようとするのを片手で制する、ダミアンの顔が微笑をたたえている。
 「まったく、無茶をなさる御方だ。」
 呆れて言えば、軽く声をたてて笑った。その顔が、白む闇の中で、遠い日を思い起こさせる。その時も彼は、味方なぞない荒野を単身で渡って来て、同じ事を言わせたのだ。
 「明ける色も、美しいものだな。」
 手綱を預けられて、二頭の馬が鼻先を揃え、ゆったりと歩き出す。
 「いつか、そなたに、共に戦おうと言ったことがあった。魔界に在って、力を揮って欲しい、そうも言った。」
 ダミアンの懐かしむような声音を味わいながら、デーモンは、今ここで彼と過ごすことの意味を、漠然と思っていた。
 「そなたに言わねばならぬ事がある。」
 改まった口調に目を向ければ、穏やかなままの顔の、闇色の瞳が受け止める。
 「あの頃は、エースがそなたを手に入れたのだと思っていた。かの白い闇の到来に、思い違えたと気付きながら、尚も先を待ったのは、私の我が儘だ。それを詫びておきたい。」
 言葉を問うのは、許されない気がした。
 皇太子として披露される、その以前からの、ダミアンとエースとの親交は事実らしい。そして、自身がデーモンを名乗り軍務を受けた頃には、エースは冷ややかな声音で彼の名を語り、目を合わせることもなかった。その理由を知るはずはないし、他の及ぶべき事でもない。ただ頭上で空が白んでいく、それを気にしていれば良いのだと、考えていた。半ば念じるように、だが。
 それが今、ダミアンはデーモンを見てい、謝罪の言葉を向けている。あの、苦境の谷を峰に変えたものが、また彼に時を告げようとしていた。
 デーモンは、ゆっくりと瞬いてから、尋ねた。
 「一つ伺ってよろしいか。タニアは何と言って、貴方にこんな事をさせるのです?」
 それだけは本当に純粋な疑問だから、言えないはずの言葉も、今度は苦無く口を離れた。優雅な微笑がそれに返され、間を置いて、皇太子は答える。
 「言わなければ判らない、それも判らないのが大人なのかと、叱られた。いや、最後だから会わせてやると言われた方が、効いたのかも知れぬ。」
 苦笑する顔と、それをさせる小娘を思い描けば呆れて、デーモンは何も言えなかった。あるいは、言葉を選んだ身として、タニアに及ばないことが、情けなかったのかも知れない。
 魔界に自身が在るのは、確かに魔王でも皇太子でもなく、治めるに足ると定めた者に、仕え助けるためだった。闇の域に在る者の、先を繋ぐことを目指して。それが及べぬといって、魔界の時の緩やかさを待つつもりが、共に漂ってはいなかったか。
 「まさに、タニアを名乗るにふさわしい娘だ。戦う顔をさせる。」
 傍らからの穏やかな声に、我に返る。気がつけば、何時の間にか、真っ直ぐに前を見ていた。
 「だが、忘れるな。タニアを手に入れるのも、そなたの方だということを。」
 言って、皇太子は手綱を取り、声を掛けた。馬は高くいななくと、地を蹴って走り出し、じきに見えなくなった。蹄の音だけが遠ざかるのを知らせていたが、その先で、近づいた音と重なって、やがて聞こえなくなった。
 最後だから会わせてやるとタニアが言ったのは、どうやら自分だけのことではなかったらしい。一人納得しながら、デーモンも明るむ空の元を、魔界の館に向けて馬を進めていた。
タニアの話◇II-III/金の章◇デーモンの昔の話◇完

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