#340 テキストの限界と可能性(後編)

2012/11/20

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 先の話は単語レベルの話だが、文章レベルで考えても、その文章の意味を理解するためには、それが語られた「文脈」を意識する必要が多々ある。特にニュースの見出しなどは、文字数が限られているために、その傾向が顕著である。例えば少し前のニュースの見出しにあった「室伏の当選無効問題」とはどういう意味なのか、これを理解するには、「選挙」というのが、先のロンドンオリンピックの際に行われた国際オリンピック委員会(IOC)選手委員選挙のことであり、「当選無効」というのが、室伏選手が行った選挙活動(禁止区域となっている選手村食堂で、室伏選手が選挙活動を行ったことや投票権を持つ選手に物品を提供した疑いのあること)が問題視され当選を取り消されたことを意味する、ということを知らなければ理解できない。(もっとも、フレーズの中に謎を残すことで、詳細について書かれた記事本文を読ませるためにわざと言葉を省略している、ということもある。)

 文脈とは、こうした背景知識と無縁ではなく、その背景知識とは、この場合のように現在話題になっているニュースを知っているというだけではなく、時にはその言語が語られている地域の歴史的、文化的背景の理解が必要になる場合もある。特に海外の宗教に関する話は、信仰が生活に根差していない多くの日本人にとっては理解しがたいものである場合が多いように思う。話が逸れるが、先の「室伏の当選無効問題」に関して言えば、彼の行ったとされる選挙活動がIOCにどう解釈されるかということについての認識の不一致、つまり文脈の理解不足がこのような事態を招いたのではないかとも想像される。

 このように考えていくと、テキストの理解のためには、文字・単語・文法を理解していることはもちろんのこと、それが意味するところを正確に理解するための文脈把握のために必要な様々な背景知識が、書き手と受け手で同程度に必要であることがわかる。

 こうしたテキストを正しく理解するために必要な知識は、映像や音声や直接の経験でも得られるだろうが、最も汎用的で効率の良い手段は、やはり文字(言語)による記録を通じた学習であろう。言語は、具体的なものを伝えるのに限界はあるかも知れないが、一方で、物事を記号化することで人間の抽象的思考を支える力がある。

 だからこそ、我々は文字で書かれた情報を正しく理解するために、もっと言語を、特に母国語を理解しなくてはならない。母国語を十分に理解することで、人間は文字から情報を得ることが可能になるとともに、抽象的な思考力を培うことがきるのである。そういう意味では、私は小学校などにおける英語の早期教育の効果については懐疑的である。母国語の理解が途上である小学生に対して、母国語の授業を犠牲にしてまで英語を教えることが、彼らの思考力を育むことには繋がらないと考えているからである。

 最近は、twitterやFacebookなど、短文のテキストでコミュニケーションを図るソーシャルネットワークサービスが花盛りであるが、一方で、不用意なコメントがバッシングに繋がるような「舌禍事件」も後を絶たない。これまでも述べた通り、文字により意図を正確に伝えるには相互の文脈理解が必要なのだが、短文のみでのやりとりでは、書き手の文脈が受け手に正確に伝わらないことは容易に起こりうる。書き手にとって必然性があった内容でも、文脈を無視して文字だけを取り上げられると、容易に誤解され拡散され、収拾がつかなくなる場合が多い。スマートフォンの普及も手伝って、多くの文字情報がネットワークを通じて押し寄せてくる現代人には、個々の文脈を理解するだけの余裕がなくなっていることもあるかも知れない。こういう時代であればこそ、我々はテキストによる情報のやりとりに、益々注意を払わなくてはならないと思う。


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