#225 スピーク・イン・イングリッシュ

2003/11/29

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 諺に「目は口ほどに物を言う」とあるものの、やはり言葉は、人間が意思疎通を行ううえでもっとも簡便かつ合理的な手段ではある。我々は言葉を使うことによって、森羅万象の名前やさまざまな動作・状態・感情などを、多少の不完全さはあるものの、ある程度の確度で相手に伝えることができる。

 ところで現在、私の職場にはフィリピンからの留学生が在籍している。半年間で、業務に有用なコンピュータ技術等を習得してもらうのが、来日した主な目的である。本人は日本に来るのは初めてで、母国語(タガログ語)や英語は堪能であるが、日本語はほとんどわからない。そして当方は、いかにも標準的な日本人であり、すなわち日本語は話せるけれども、英語に関しては、会話となるとこれがさっぱり、というレベルである。従って、お互いが意思疎通を行うために、何かひとつ言語を選択するとすれば、やはり英語ということにならざるを得ない。

 いやはや、こういう機会に限らず、海外に行った時など、英語を話す人と会話をしなくてはならなくなった時、どうして自分はこんな簡単なことも英語で話せないのだろう、と自己嫌悪に陥ることしばしばである。中学校から大学の教養課程にかけて8年間も英語に関して学んだことは何だったのか。海外から戻るたび、今度こそジオスやノバとは言わないまでも、せめてラジオ英会話でも聞いて勉強して、ちょっとは英語がまともに話せるようにならんものかといつも思ってしまう。思うだけで、しばらく日本語だけで不自由しない生活を送っているうちに、そんな決意もどこへやらとなってしまうのであるが。

 しかし今回は、身近に半年間も席を同じくしている外国人がいるわけである。自分がうまく話せないからという理由で、まったく話をしないのも相手に対して失礼なことではある。そんなわけで、たどたどしくはあるが、その人と英語で話をするようになったわけである。

 話の流れからすれば、今回も「やっぱり英会話は全然ダメ。今度こそベルリッツか。」ということになるのかと、自分でも思っていた。ところがこれがどうして、どうにかこうにか英語で話しているうちに、比較的それがちゃんと相手に伝わり、相手の言うこともそこそこわかる、というレベルになっているのに、正直自分でも驚いている。もちろん学校を卒業してのここ数年、英会話の上達をはかって何か特別なことをしたわけでないにもかかわらず、である。

 思うに、今まで英語が話せないと思っていた自分は、相手に伝わらなかったり言ってることがわからなかったりしたら恥ずかしいという意識が必要以上に強かっただけなのかも知れない。もちろん今でも、日本語を話すようにはなかなかすらすらと言葉が出ないのは確かだし、身の回りの物などの英語の語彙は日本語のそれとは比べるべくも無く乏しいため、肝腎な単語がとっさに浮かばなかったり、何より時制や人称などめちゃくちゃになったりするのだが、それでも、言いたいことを何とか伝えることができるようにはなってきている。そして何より、相手と意思疎通できるという事実に、純粋に喜びを感じている。自分の子供(まだいないけども)が徐々に言葉を覚え、何を伝えようとしているのかがわかるようになる親の喜びもこういうものかも知れない。意思の疎通ができること、それが言葉の威力でありすばらしさである。

 ちなみに、かの留学生との会話において、今最も役にたっているのが、今年(2003年)8月に購入した電子辞書である。もちろん会話の中で辞書を引くのはまどろっこしいのであまり使えないが、たどたどしい会話のあと、そういえばこういう時はどういう具合に言うのが良かったのだろうなどと後から反省するときに、簡単に辞書を引いて、その場で単語を覚えることができる。重い紙の辞書をいくつも携帯しなくても、わずか100g足らずの機械で広辞苑と英和と和英と漢字字典を引けるというのは、使ってみるととても便利である。今のところは英和と和英の出番が多く、だんだん英単語の微妙なニュアンスの違いなども知りたくなって来るので、広辞苑よりもむしろ英英辞書がついているものがあった方がよかったかなあとも思うが、今の電子辞書でも充分便利である。

 ところで、冒頭にも述べたように、かの留学生がここに来た目的は、コンピュータ技術等の習得である。よって、単に私ととりとめない英会話を楽しんでいればいいというものではない。なんとかして私が英語でその「コンピュータ技術等」とやらを教える必要があるわけだが、それについては次の機会に。


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