#131 負けるなHaraday号

2000/08/21

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 普段着の胸ポケットにポータブルMDプレーヤー、左手にデジタルの腕時計、ズボンの左ポケットに携帯電話(i-mode)、腰のベルトにてくてくエンジェル、そして愛用のママチャリに速度計をセット。これが私の通勤スタイルである。自宅から職場までの4.14kmを自転車で普通に走れば約15分で到着する。始業時間は8時半なので、だいたい8時10分頃に家を出ることにしている。通勤路のほとんどは遊歩道になっており、自動車が走る道路とは殆どの箇所で立体交差をしている。そのため道路と交差するところでアップダウンがあるのだが、信号や横断歩道もなく、自転車で通勤するには最も安全なコースである。

 その日は出発が3分ほど遅れた。自転車を出し入れする時間のロスなどを考えると、正味12分。ということは平均時速20km以上で走らなくてはいかんのか。これはちょっとハイペースだな、などと考えながら自転車を漕ぐ。

 家から1.5km程のところ、途中唯一の横断歩道を渡って左シケインから桜並木に入ろうとしたところで、一台の自転車が私の右側1mの所を外側からさっそうと追い抜いて行った。スポーツサイクルに乗った男子高校生のようである。恐らく私の職場の南側に位置するM高の学生であろう。よって彼をM男と名付ける。M男はいかにも「おっさん、お先に」と言わんばかりのさっそうとした走りで、その後もぐいぐいと自転車を漕いで行く。生意気な、キサマにおっさんと言われるほどまだ年はとっておらんわい、となぜかこちらもM男に負けじと速度を上げる。自転車用速度計の表示は23km/hに上がっていた。

 このM男、確かに平坦な道では若さに任せて速く走るのだが、登り坂になると意外にスピードが落ちる。M男を追走し、後半で追い抜いてやろうと思っていたのに、思いのほか相手の失速が大きく、図らずも坂道の頂点で抜いてしまった。一度抜き去ったはずのおっさんに抜きかえされたことが癪に触ったのか、M男はあからさまに速度を上げた。明らかにこちらを意識している。こうなっては仕方がない。かくしてM男と私の一騎打ちが始まった。

 だが相手は男子高校生である上にスポーツサイクル。まともに勝負したのでは体力的にも性能的にも敗北は目に見えている。奴の10m程後方を引き離されないように追走し、ラストで勝負をかけるほかに、こちらの勝ちはない。左ポケットの携帯電話がメールの着信を告げる。内容は職場に到着してから確認すればよい。今はそれどころではない。

 M男はその後も快調に飛ばす。こちらの速度計が25km/hを示しているにもかかわらず、その差がゆっくりと開きはじめた。ここで引き離されたら勝機はない。ここがふんばりどころだ。負けるなHaraday号、と普段名前なんかつけてもいなかったママチャリにいきなり名前をつけて自分と自転車を励ます。息はあがり、動悸は激しくなり、太腿が重くなってきたが、ここで引き離されるわけにはいかない。理屈抜きの、男と男の闘いである。

 ラスト400m程のところに最後の立体交差がある。ここは道路の下をくぐる形になっているので、下り坂の後に上り坂がやってくる。奴が不得意な上り坂のところで勢いをつけて抜き去り、そのままゴールしてしまうのだ。それ以外に私に勝ち目はない。

 奴の自転車が先に下り坂に入る。相手が追ってこないものと思ったのか、それほど速度を上げていない。チャンス。あとから坂に入った私は更に加速をつけて奴を追走する。下りきったところで、速度計はついに32.4km/hを記録した。MDプレーヤーから流れるアップテンポの曲が私を励ます。ここぞとばかり最後の力を込めて漕ぐ。

 上り坂を登り切る寸前、勢いをつけたHaraday号は、あざやかにM男のスポーツサイクルを抜き去った。M男が追走をしかけた時には既に遅く、Haraday号は突如右折してM男に別れを告げ、職場の方へ行く道をウイニングランしていた。見たか、31歳公務員の完璧なまでのレース運び。若僧などにまだまだ負けてたまるかい。

 そして。

 M男とのデッドヒートのおかげで、無事職場にもぎりぎり始業時間前に到着したのはいいものの、着いた途端に体中から汗が吹き出してきた。汗で体にまとわりつくシャツの不快感に、いい年をして無益な闘いを挑んでしまったことへの後悔の念に一人苛まれるのであった。


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