小説『マナム大臣』

岡村 まさとし:著


目次

第1章

第2章

第3章

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第1章

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 ここ数日、各国境警備の部隊からの報告や、偵察のために近隣諸国に潜入している者達からの報告は、三十四年前に父王がドワーラカ国に王政をひいて以来最も危機的な状況を想定させるものばかりであった。毎週宮殿前広場においておこなわれていたクリシュナ王の説法も、いよいよ最後の決戦のときの備えや国民の安全を守るための準備に忙しいのと、警備上の問題の二つの理由から、二週続けて中止になっていた。クイシュナ王が最も大事にしていた説法を二度も続けて中止したことが、国民の間には大きな不安として伝わって行き、民心は大きく動揺し、国全体が浮足立ってドワーラカ国の運命をも不安定なものに感じさせた。

 日暮れ前から六時間以上にわたって激論が交わされた軍議を終えたクリシュナ王が、王のために特別に作らせた半発酵茶(現在のウーロン茶のようなもの)をすすりながら、マナム大臣を側近くへ呼び寄せたのは、満月に近い月がすでに真上をすぎた頃だった。

「マナム大臣。明日の説法もたしか中止の予定であったな。」

「はい。陛下。」

「予定を変更してくれ。明日は説法をすることにしよう。」

「しかし、陛下! ただ今警備が手薄になっており、危険かと思われますが・・・」

「それは分かっておる。しかし皆の前で説法を施すのも、明日が最後のチャンスかもしれぬ。もう一度ぜひ話をしたいのだ。」

「はあ・・・!」

「よいな。マナム大臣。」

「はい。明朝までには万端整えます。」

「陛下。」

「ん?何だね。」

「国民の中には陛下の御為にと武器を用意して集まっている者達もおるようですが・・・」

「わかっておる。」

「はっ?」

「わかっておる。その話も明日することになるであろう。」

 クリシュナ王は二十九才の時第三回目の霊示をうけてより、神と言葉を交わし、神の心を我が心とする能力を身につけていた。以後十九年間、その能力は変わることなく、十五年前、父王の突然の死にも、神の御指示に従い、即位をするとすぐに体勢をたて直し、国体をより強固なものへと造り変えていった。

「幸せであったな。」

 独り言だか、自分に声をかけられているのか判断にまよう言葉をクリシュナ王が発したとき、マナム大臣は確信した。

《このお方は死ぬおつもりである。》

「私は幸せであった。のうマナム大臣。」

 今度ははっきりとマナム大臣に向かってこう言うと、お心のままの純粋無垢な笑顔をうかべた。

「・・・何が・・・でございますか?」

「すべてがだ。君やガルダーのように、すばらしい家臣を持ち、私の教えをよく信じ、よく行ってくれるすばらしい国民を持ち・・・なにより私が生かされていることだ。神から使命を与えられていることだ。」

「それは陛下が、弱き者を愛し、弱き者を助ける愛のお心でもって、国を治められているからでございます。幸せなのは、国民のほうでございましょう。」

「いや、それが我が幸せなのだよ。すばらしい家臣や、すばらしい国民を愛する機会を与えられたことがだ。」

「陛下・・・。」

 そこから先は声にならなかった。言いたい言葉はありあまるほどある。大臣としての公のルート以外にも、幾ルートかの情報網を持っているが、国内のどの地域から上がってくる民衆の声も、クリシュナ王の慈悲深き執政に対する喜びの声と感謝の念いばかりであった。《こんなにもすばらしき王をいただいて国民は感謝の念いを表すすべをも知らずにいるというのに、このお方はなおそんな国民を愛することができて幸せであったとおっしゃっている。なんと底知れぬ愛の深さよ。このお方はもはや人間ではあるまい。神が人間の姿をまとい、あらわれているにちがいない。なんともったいなくもありがたいお方にお仕えすることができたのであろう。》

 『感謝』これまでもクリシュナ王から何度も繰り返しを教わり、わかったつもりになっていた言葉であったが、このときほどこの感謝の二文字がマナム大臣の魂を打ち震えさせたことはなかった。」

「マナム大臣。今夜はもうおそい。下がって休みなさい。明日は久し振りの説法だ。しばし心静かに祈ることにする。」

「はい。陛下もできるだけ早くお休み下さいませ。あまり無理がすぎませぬように。」

「ありがとう。私はだいじょうぶだ。」

 マナム大臣は陛下の前を辞すると、中庭に出た。

《私も死に場所を決めねばなるまい》

 月明かりに照らされた中庭の小道をゆっくりと歩きながら、マナム大臣は思いをめぐらせていた。

《クリシュナ王は、人の心も、先の運命をも、すべてを見通す神通力を持ったお方。きっと御自分や、このドワーラカ国に待ち受けている未来をすべておわかりになっているにちがいない。すべておわかりになったうえで、あえてそれに逆らわず死のうとなさっている。私の目からは、結果はともかく、まだ取るべき対策や、その可能性はあるように見えるが、軍議においてのあの強固な御意志は、我々人間心にはわからぬ神の大きな視点から見た取るべき道が有るからに違いない。》

 マナム大臣はたとえどんな道をクリシュナ王が選ばれようと、我々王の僕は王のあとにつき従うまでであり、与えられたお役目を最善の努力でもって全うするだけであると、いつもたどりつく同じ結論を、あらためて自分に言い聞かせた。

ここ数カ月の間、国境での小競り合いや近隣諸国での軍の動き、それに武器、食糧の調達など、商人や旅人を通して伝えられる噂で血気はやった愛国心ある若者達は、大きな戦いの近いことを察知して動き始めていた。十五年前、クリシユナ王が即位して軍団を新たに組織しなおしたときに引退した旧軍の英雄達をかつぎ出し、秘かに民間部隊を編成し武器を準備し、クリシュナ王の号令一下すぐに戦えるような体制になっていた。正規軍の長であるガルダーのもとにも、このことは内々に伝えられ、ガルダーも国の若者達の愛国心にはいたく感銘をうけた。が、しかしガルダーは、正規軍の軍団長としての立場から、彼らに同調するわけにはいかず、ただ王の御意志に従うよう強く要請するのみであったという。

 マナム大臣はこの一連の事情を逐一報告を受け了解していたが、とりたてて手を打つようなことはせず、させるままにしておいた。彼らのやり方は、多くの国民を不安におとしいれないよう配慮に満ちたものであったし、なによりマナム大臣とて、その心意気はうれしかった。また何かのときに、それらの準備が役に立つこともあるやもしれぬという思いもあった。もちろんマナム大臣自身も、手をこまねいて見ていたわけではなかった。

クリシュナ王ならばどうするであろうか。

王がまず第一にお考えになることは何であろうか。今自分がお役に立てることは何であろうか。マナム大臣は考えに考えた結果、クリシュナ王であればもしもの時にまず民衆を、女、子供や老人達を安全に逃がすことを第一と考えられるに違いない。と、すると、安全でかつ食糧や水に困らないところとなると、王家の山しかないであろう。通常は王家に仕える者しか出入りのないところだが、有事にはきっと、民衆をあの山に非難させるに違いない。そう確信したマナム大臣は、三週間ほど前から自分の独断で、王家の山へ登る道を女、子供でも通りやすいように整備したり、道を広げたり、危ない所に柵をつけたり、内々に工事させていた。また水場も多くの人が同時に使えるように広げたり、使いやすいように手を加えてあった。そしてかなりの量の保存食を運び上げてもあった。

 マナム大臣は、すべての手はずがぬかりなく指示してあるかどうか、自分のはたすべき役割がもれなくすませてあるかどうかを、もう一度心の中で確認すると、

「死に場所か・・・・。」

 と独り言を残して、自室に引き上げて行った。もちろん、自分の死に場所も、その有り様も、すでに心に決めてあった。


第2章

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 翌朝マナム大臣はいつもよりかなり早く目をさました。夕べ床についたのは、ずいぶん遅かったので、ほんのわずかしか眠っていなかったが、不思議と頭はスッキリとさえていた。

 身支度を整え、執務室へ降りて行くと、夜番の番兵の一人が、夕べ寝る前に指示した今日の説法についての準備が、もうすでにすべて整っているとの報告を伝えた。夜が明けるとすぐに国中におふれがまわっており、宮殿前の広場で王を迎える準備も、朝市が終わる頃までには整う手筈になっていた。マナム大臣はその報告に満足すると、机の上にすでに用意されていた、毎朝王家の山の泉から汲んで来る“聖なる水”を一息で飲み干した。

 

 早めの昼食をすませ、宮殿前の広場が見渡せる窓辺にマナム大臣が立ったのは、今の時刻で言うと十一時半頃であった。広場にはクリシュナ王の説法があると聞いて駆け付けた者達が、すでに三千人ほど、集まってきていた。そして同じころ、宮殿へ向かう各主要道は、三週間ぶりのクリシュナ王の説法を聞き逃すまいと、国中のあちらこちらから宮殿を目指す人であふれかえっていた。ある者は馬に乗り、ある者は徒歩で、またある者は年老いた者を背負い、そしてまたある者は乳飲み子をかかえ、それぞれ宮殿への道をいそいでいた。

 

 王の説法がまもなく始まるという時刻になると、広場は一万をゆうに越える人々で埋め尽くされ、それとほぼ同じ数の人々が広場に入れず、宮殿前の道にあふれかえっていた。現代と違いマイクのない時代であったが、音の反射を考えた造りになっている広場の中では、どこにいても壇上の説法はよく聞こえた。しかしさすがに広場に入れないと、王のお姿はもちろん、お声も聴くことはできなかった。そこで、広場に入りきれない者が出たときには、(近隣諸国からの亡命者がひきもきならくなり人口が増え続けているため、ここ一〜二年はいつものことではあったが・・・・)広場のはじから一定間隔で仮説のやぐらを組み、その上に声の大きな者が登り、大きなメガホンのようなものを使って、順に王の説法を伝言しながら、回りの民衆にも聴こえるように配慮していた。が、しかし、残念ながら、音楽の才能にも秀でたクリシュナ王が、歌によって説法を施す場合は、クリシュナ王ほどうまく唄える者がいなかったために、歌詞だけを伝言するにとどまった。

♪カーン、カーン、カーン♪

 王の登壇を告げる鐘の音が鳴り響くと、集まった民衆の中には、感極まって泣き出す者もいて、王を待ちわびる人々の熱気が大きなうねりとなって、まるで国中を打ち震わせているかのごとくであった。壇上には、すでに軍団長のガルダーを始め、重臣たちが居並び、王の登壇を待っていた。

 クリシュナ王は壇上に登り中央に歩み出ると、あの慈悲深いまなざしでもって、集まったすべての民たちに祝福を送った。そして静かに唄い出した。

「先ず あなた方に説こう

 信ずる心を 知りなさいと

 信ずるとは宇宙(てん)の理法を学びとり 神の存在を確信する事

 さすれば 神は 人に

 永遠(とわ)の栄光と

 幸福という名の繁栄を 与え給う」

 《幸福という名の繁栄。そう、その通りだ。》 

マナム大臣は王の美しくも凛々しい歌声を聴きながら、父王に取り立てられてからこれまでの三十六年間を、そしてクリシュナ王が即位してからの十五年間を振り返っていた。

 《これまでのドワーラカ国の歩みは、まさに幸福という名の繁栄そのものであった。思えば四十年前、自分の父を含めた心ある有力者たちが父王の元に団結し、当時の支配者の圧政から民衆たちを解放するために立ち上がったとき、自分はまだ十六だった。そして三年かけた戦いの後、国としての体制を整え、ドワーラカ国の建国を宣言し、父王が初代の王として王政をひいた。と、同時に自分も父王に取り立てられ、政策担当官として理想の国造りに燃え、次々と民衆のための政策を打ち出していった。五年前、はやり病で亡くした最愛の妻と結婚したのもちょうどその頃だった。次の年には長男が、その二年後には次男が、そしてその三年後には三男が生まれ、仕事も充実し、家庭も幸せに満たされ、まさに幸福という名の繁栄が、我が人生に、我が愛するこのドワーラカ国に満ち満ちていた。そしてその繁栄は、父王の無念の戦死によりクリシュナ王が国を受け継いでから、さらに確固たるものとなっていった。なぜならば、クリシュナ王は『神を信ずる心』を教えて下さったからだ。もちろんそれまでも誰もが神の存在は信じていた。だがクリシュナ王の教えて下さった信仰心は、それまでの漠然としたものでなく、具体的、かつ積極的なものであり、福音に満ちていた。喜びにあふれ、幸福にあふれ、感謝にあふれていた。》

 クリシュナ王の歌は続いた。

「次に あなた方に教えよう

 愛する心を 知りなさいと

 愛する心とは 神の心を 我が心とし

 その心を与え続ける事

 さすれば 人と 人との

 争いは消え

 この地上に 神の国が現れよう」

 クリシュナ王は、唄いながら演檀から広場に降りていった。王の歌に聴き入っていた民衆は泣きながら王のたもとにすがりつき、祝福を受けようと手をのばした。衛兵の一部は王の身に、もしもの事があってはと身構えたが、マナム大臣はそれを静かに制した。

《もしかすると、これが最後の説法かもしれぬ。王御自身も、そんな思いで一人でも多くの民衆に祝福を与えたくて、民衆の中に入っていかれたのであろう。衛兵が後を追うような無粋なまねはよそうではないか。今我々は『信じ、そして愛せよ』と教わっているではないか。これだけ王から愛されて、王に危険なまねをする者などおらぬはず。ああ『愛』!クリシュナ王から教えて頂いた事の中でこれほど素晴らしく、大きく、そして深いものがあるであろうか。王のおっしゃるように、このドワーラカ国はまさに神の国のようである。人々はみな愛し合い、争いは無くなり、人の幸せを我が幸せとして共に喜ぶようになっていった。それとともに神もこの愛にあふれた国をお喜びになられているように、作物は豊かに実り、人の行き来も多くなり、商いも大きくなっていった。ああ、何とありがたいことか》

 クリシュナ王の歌はさらに続いた。

「そして最後に 示しておこう

 許す心を 知りなさいと

 許すとは 人の行為の すべてを受け入れ 愛の力で 包み込む事

 さすれば 人は 神の

 慈悲を感じ

 生かされている 命を知るだろう」

《生かされている。そう、我々は自分で生きているのではない。神によって生かされているのだ。それも死んであの世へ行っても、限りなく続く永遠の命を与えられている。永遠の命をだ!このありがたさを思えば、人を許すことが出来ないはずがあろうか。とは言え、『人の行為のすべてを受け入れ、愛の力で包み込む』とは実際に行うのはむずかしいことよのう。特に今ドワーラカ国がおかれている状況のように、悪意と敵意に相対した時、その相手をどう許し、どう愛せばよいのだろうか・・・》

 クリシュナ王は唄い終わっても、しばらく民衆の中にあった。民衆の歓喜号泣は止むことを知らず、王はその中にあってただひたすらに愛の光を与え続けていた。

やがて壇上にもどったクリシュナ王は、慈悲に満ちたお言葉でもって、説法を始めた。

「我が愛する国民(くにたみ)よ。皆の前で説法を施すのも、これが最後となるやも知れぬ。

知っての通り、我がドワーラカ国に隣接する国々は、我が国の繁栄を快く思ってはいない。

もはや国境での攻防は止む事なく、我が使従であり、誉れ高き最強の軍団と言われた我が軍団の戦士たちが身命を賭しても、余りある状況にある。」

《ああそうなのだ!何と悲しいことか。クリシュナ王は隣国を脅かそうという気などさらさらお持ちでないのに、隣接する国々の王は、我がドワーラカ国が『幸福という名の繁栄』に満たされるのを苦々しく思い、その苦々しさが故に我が国を滅ぼそうとしている。何故だ?何故共に手を取り合い、共に豊かになろうとしない。我がドワーラカ国が栄えているのは、この土地が豊かだからだけではないのだ。クリシュナ王のお心が、そして王の教えをよく信じついて来た国民の心が豊かだから栄えているのである。武力でもって王を打ち、この国を占領しても、その豊かさは手にすることはできないというのに・・・。》

「しかし人々よ。

 だからと言って、攻め来る国々を、その国の人々を非難してはいけない。

 今こそ、あなた方の神を思う気持ちが試されているのです。

 彼らを許しなさい。その行為を許しなさい。 彼らに同じく力で対抗しようとした時に、あなた方が、私の教えを信じ、行ってきた良き行為のすべてが、水の泡と帰すのです。

この事をどうか忘れないでいて下さい。」

マナム大臣は両手を握りしめ、震わせながら涙をこらえていた。

《ああ、クリシュナ王よ!あなたは目前にせまる敵をも許せとおっしゃるのか!父王たちが理想国家建設に向けて立ち上がってから四十年。やっと神の国がこの地上に実現したかと思えたのに、彼らはそれを破壊しに来るのである。いわば神に刃向かいに来るのである。その敵をも許せとおっしゃるのか・・・》

 クリシュナ王は、さらに続けた。

「あなた方の許す心が、本当に神の側近くに至ったならば、必ず神は道を開いて下さいます。

 もし万一、その命取らるるとも、許す心を忘れなかった者には、必ずや神の国が、その門を開いて、あなた方を待っている事でしょう。」

《そうだ。クリシュナ王はどこまでも、どこまでも、我々のことを愛して下さっているのだ。敵がどうこうではないのだ。我々自身が、クリシュナ王の教えの通り、許す心を忘れず、人の行為のすべてを受け入れ、愛の力で包み込もうと努力したとき、必ず神は我々を待っていて下さるのだ。》

「我が愛する国民(くにたみ)よ。

 よく、ここまで私の教えを信じ、ついて来てくれました。

 この世に私ほど、幸福な者はいないでしょう。

 私は、あなた方を愛する機会を与えられた事を、今、心から神に感謝しています。

 我が愛する国民(くにたみ)に神の栄光あれ!」

 民衆たちは、みな泣き崩れていた。マナム大臣としても同じであった。もはや溢れる涙を止めることは出来ず、大臣としての威厳を保つのに胸を張って立っているのがやっとだった。

 その時である。王の演檀のほど近く、一人の兵士が立ち上がり、こう叫んだ。

「陛下。お願いがございます。」

 いや兵士と見えたのは、実は女であった。マナム大臣はその顔を見ると驚きのあまり涙に濡れた目を見開き、駆け寄ろうとする衛兵たちを制した。

「おお、君はマナム大臣の息女。  何だね。」

それはマナム大臣の一人娘、ナイーダであった。ナイーダは三男が生まれた後、二度ほど流産を繰り返し、その後やっと生まれた末娘であった。この結婚十二年目にして生まれた女の子はことのほか可愛いく、どくへ行くにも連れて歩いた。マナムは女の子らしく気立て良く育ってくれればと願っていたが、本人は美しい顔立ちや、気立ての良さとは裏腹に、男まさりに、馬術や武術の訓練に明け暮れ、並の男ではかなわないほどの腕前になっていた。

「お願いでございます!私を軍団に入れてくださいっ!」

《これナイーダやめないか》

 マナム大臣は王の御前であるにもかかわらず思わず叫んでいた。

「これっナイーダ、一度ならず、二度までも、はしたないっ!陛下がお困りになられる事を申すものではないっ!」

 クリシュナ王は穏やかな笑顔でマナム大臣を制すると、言葉を続けた。

「君が世の男子に劣らぬ程、剣術や馬術に長けている事は、私もよく聞き及んでいる。」

 ナイーダは何がなんでも願いを聞き届けてもらいたいといった必死の形相でたたみかけた。

「二年前、断られた時は、我が国も、現在ほどせっぱ詰まった状態ではありませんでした。しかし、今は有事。一人でも戦士が多いほうがいいはず。座して見ていられないんです。必ずお役に立ってみせます。陛下の御為に、国の為に、戦わせて下さいっ!」

《こやつ、本気だな》

 マナム大臣は、ナイーダの言葉にほとばしる情熱を、国の為に、陛下の為に、何としてもお役に立ちたいという熱意を感じ、我が娘の成長に目をみはった。五年前母が亡くなった後、幼なじみでもあり、馬や剣の手ほどきもしてくれたガルダーが、精神的にもナイーダの支えになってくれていた。そしていつしかお互いが愛し合う関係になっていた。結婚はしてはいけない掟になっている軍団の、それも軍団長と、マナム大臣の娘が、恋仲であるなどということが、世間に知られたら大変なことであった。しかしマナムは、夕闇せまる頃になるとどこへともなく出掛けて行き、夜遅くまで帰ってこないナイーダの姿を見ても、咎めることはしなかった。そんなナイーダは、三年前軍団長が国境の小競り合いで戦死した後をうけ、ガルダーが新軍団長に就任すると、馬術や武術でどんな男性にもひけをとらない自分も軍団に入り、共に戦いたいと思いはじめていた。そして二年前のある夜、王に『軍団に入れて欲しい』と直訴した。

《あの時は、勇み足であった。国の為に戦いたいという気持ちは嘘ではなかったにしろ、自分は武術に長けているという思い上がりがあった。世間知らずの二十二才の小娘であった。しかしナイーダよ。今のお前の目には、真実のきらめきが宿っている。このドワーラカ国を、神の栄光が満ち満ちているこの愛の国を、我が身を捨てても守りたいという、おまえの愛を与えようとする心が溢れているぞ。だが、違うのだナイーダ。違うのだよ。》

 マナム大臣はそう心で念じながらわずかに上気して赤くなったナイーダの横顔を見つめた。

「ナイーダ。君の気持ちはとても嬉しい。」

「ではっ!」

「しかし、軍団に女性は入れられない。」

 ナイーダの表情は一瞬こわばったが、さらに食い下がった。

「なぜ! なぜでございますか?」

「屈強の男子が軍を組んでこその最強だ。

もし、ここで君を入れたとしよう。すると今後入隊を希望する女性が現れるだろう。そして軍の中に女性の数が増えていく。

 そうなると規律は乱れ、軍の士気は弱まっていく危険性がある。

最強の軍が最強でなくなるのは、目に見えていないかね。」

 その言葉を聞き終わるとナイーダは、今度は表情ひとつ変えずに次の言葉を続けた。

「では、では、せめて民間の部隊を作ることを、お許しください。いくら最強の軍団といえども、一時に四方から攻め入れられれば、守り切れるものではありません。陛下っ!」 ナイーダの言葉と同時に、かなりの数の民衆が同調の声をあげた。

《ははあ、こういうことだったか》

 マナム大臣は民間部隊がすでに秘かに編成され、武器の用意もあることを知っていた。だが表向きは知らないことになっていたので、夕べ陛下にそのことを申し上げたのも、マナムの独断であった。しかし、クリシュナ王もそのことはすでに御存じであった。そして、今日この場で王のお許しを得るため直訴させることをも、クリシュナ王はわかっておられたのだ。

《王は民間部隊については、お許しにはならないおつもりなのだな。》

マナム大臣には、次の王の言葉が読めた。

「体を張って国を護るのは、私とこの者たちだけでいい。」

 

《やはりそうか》

マナム大臣は、ナイーダの顔を見つめた。

「なぜでございますか!」

 ナイーダの必死の言葉に、クリシュナ王は諭すように言いきかせた。

「もしものときに、私とこの者たちさえ命を取られれば良いことだ。

 武力を持たない民衆にまで、害が及ぶ事はあるまい。

 下手に武器を手にしていては、あなた方にまで危険が及ぶ。」

「そんなの、不公平だわっ!」

 ナイーダは大きく息を吸うと、うつむき加減に、吐き捨てるようにこう言った。

 クリシュナ王は、あくまでもやさしくナイーダの言葉を受け止めた。

「何故だね?」

「陛下や軍団の方々は、命を賭けて国民を護るという、神のお心に適った仕事が出来るのに、私たち民衆には、陛下の御為に死ぬ事も、人々の為に命を賭ける事も、許されない。」

 ナイーダはまくし立てた。

《もうよい。もうよいぞナイーダ。お前の気持ちは充分クリシュナ王に届いておる。だが違うのだ。違うのだよ。お前には他にもっとお役に立てる事があるのだよ。きっとそうに違いない。もし、お前の役割が、国の為に戦うことであるならば、陛下はお前の申し出を断ったりしないはずだ。それを断られるということは、神の目から見れば、他にやることがあるということなのだ。それがわからぬか、ナイーダ。もうよせ。》

 マナムは、一途な我が娘の姿が、不憫に思えてきた。だがその念いは、ナイーダには通じていないようであった。

「陛下に愛され、護られるだけで、私たちには、陛下のお役に立つことが許されないなんて。」

「それは違う。人にはそれぞれ役割というものがあるのだよ。戦う事だけがすべてではない。」

《ああなんとおやさしき陛下であられることよ。娘の無礼な態度におこりもせず、ここまでやさしく、教え諭して下さるとは》

「愛は与える事と陛下に教わっているのに、その陛下が、私たちに愛を与えようとする行為を許されないなんて、不公平だと思います!」

《ナイーダお願いだ。もうやめてくれ》

マナム大臣はそう思いつつ怒鳴りつけた。

「これっ、お前は陛下に何て事をっ!」

 クリシュナ王は

《マナム大臣、良いから私に任せなさい。》と目だけでマナムに合図すると、ナイーダに向かってこう言った。

「どうして、そんなに若い身空で、死に急ぐのかね?」

「魂が永遠であると教えて下さったのも陛下でございます。それなら死ぬ事なんか、少しも怖くない。愛する国の為に死にたい。愛する人の役に立って・・・」

 そう言いながらナイーダは、ガルダーの方へ歩み出た。

「・・・死にたいだけですっ。

 それを、それを、どうして認めていただけないのですか!」

 マナムは思わずナイーダに駆け寄ると、首を何度も押さえ付けながらこう叫んだ。

「いい加減にしないかっ!」

 マナムの目から溢れ出る涙が、押さえ付けているナイーダの髪をぬらした。

《なんと不憫な娘よ、そんなにもガルダーを愛していたのか。きっとかなわぬ愛を神に問い、自分の心と闘いながら、ガルダーへの愛を、この国への、陛下への、そして神への愛に、昇華させていったのであろう。ああ神よ。この不憫な娘にどうか救いの手を差し延べて下さい。》


第3章

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 その時であった。広場に入りきれず、宮殿前の大通りで王の説法を聞いていた民衆たちがなにやらざわつくと、けたたましい警鐘とともに、番兵の「敵軍襲来、敵軍襲来」の声が響きわたった。

 民衆はみなざわめき、衛兵たちは今にも飛びだそうと、軍団長ガルダーの命令を待ったが、ガルダーは目だけでそれを制すと、クリシュナ王の次の言葉を待った。

「ナイーダ。私はさっき役割があると話したね。」

 クリシュナ王はナイーダに向かってこう言った。

「はい・・・」

「有事のときに、女性には大事な役割があるのだよ。それが何か分かるかね?」

 ナイーダは、無言で首を横に振った。

「それは次代を担う子供たちを無事に生かし、また今まで国を支えてくれ、私たちを育てて下さった先輩たちをお守りする事だ。」

 ナイーダは下を向いたまま、頷いた。

「君の忠誠心は、どんな戦士にも引けを取るものでない事が分かった。

 そこで、君を見込んで頼みがある。

 聞き入れてもらえるかね?」

 やっと落ち着きを取り戻したナイーダは、姿勢を正すと、こう言った。

「何なりと。」

「人々を南の、あの王家の山に非難させて欲しいのだ。あそこには、水も野菜も若干の穀物もある。食糧になる木の実も取れる。」

《やはり・・・》

 マナム大臣は自分の読みが当たった事を、顔色ひとつ変えずに心の中で喜んだ。

《お役に立てたようだな》

 そしてガルダーの方をちらっと見た。

 実はマナム大臣が内々に王家の山に手を入れ、食糧を運んでいたことを、ガルダーは知っていた。ある夜マナムの下臣が、番兵の目をかすめて保存食を王家の山に運び上げていたところを、なんと軍団長のガルダーにつかまってしまったのだ。折りが折りだけに、スパイの疑いもあるということで、ガルダーはその者たちにすべてを白状させた。そしてマナムが、秘かに準備していた事が、すべてガルダーにわかってしまった。ガルダーはマナム大臣の命令であると聞くと、「今日ここで我々が出会ったことは、すべて無かった事にするように」と言って、山を下りて行ったという。その一部始終をマナム大臣に報告した下臣はガルダーの陰に隠れていた女性がいたことを見逃さなかった。ナイーダであった。ガルダーも、マナムも、次の日軍議で顔を合わせたが、お互いに知らぬ顔をしていた。

 ガルダーもマナム大臣の方に顔を向けると、表情は変えずに、目だけで頷いた。

 クリシュナ王の言葉は、まだ続いていた。「そして、もしもの時には、武力に訴える事なく、人々が生きていける道を選択して欲しい。」

「陛下っ!?」

 このとき初めて、クリシュナ王がどうされるおつもりなのか、そして自分が、どんなに重大な役割を与えられているのか、ナイーダはすべて悟った。

「君なら出来るはずだ。

 さあ、立ちなさい。」

 王はナイーダを立ち上がらせると、さらに強く、こう付け加えた。

「さあ、行きなさい。この者たちを連れて、早くっ!」

 ナイーダはガルダーの方へ向き直った。

「仰せに従うんだ、ナイーダ。ここは間もなく戦場になる。

 早く!早く行けっ!」

 ガルダーはこう叫んだ。

「わ、わかったわ。」

 ナイーダはガルダーを見つめながらこう言うと、ほんの一瞬、ガルダーの隣にいるマナム大臣を見つめた。そしてすぐに王の方へ向き直ると

「陛下、ご無礼をお許しください。」

そう言いながら頭を下げた。そしてこの言葉が叶わないのを承知で王の顔を見上げると、

「どうかご無事でっ!」

 そう言い残して、民衆の中へ駆け出して行った。

 マナム大臣は父である自分に、そして愛するガルダーに、背を向けて走って行く我が娘の後ろ姿を見送りながら、もう一度、神に祈らずにはいられなかった。

《ああ神よ、不憫な娘ナイーダに、どうか愛を与えたまえ、愛の手を差し延べたまえ》

 

 ほとんどの民衆が、宮殿前の広場から避難するのに、小一時間ばかりかかった。宮殿外壁の見張り台からの報告は、我が軍団の奮戦を伝えていたが、それでもじわりじわりと敵軍は宮殿に近づいていた。まわりの緊迫した空気とは裏腹に、マナムの心の中は不思議と静まり返っていた。クリシュナ王が、ガルダーたちに守られながら、より安全な場所へ移動してからも、マナム大臣はしばらく誰もいなくなった広場にたたずんでいた。

「さて、まいるとするか。」

マナム大臣は、そうつぶやくと、ゆっくりと、宮殿の階段を登って行った。

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〈完〉