ポゴレリッチピアノリサイタル


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[2017年1月1日 記]

 去年(2016年)の12月10日、サントリーホールでイーヴォ・ポゴレリッチ ピアノ・リサイタルを聴いた。

 一度はナマで聴かなければと思っていたピアニストである。彼が有名なのは、1980年の第10回ショパン国際ピアノコンクールの三次予選 で落ちたとき、アルゲリッチが「こんなのはおかしい」と言って審査員を降り、「彼こそは天才」と言い残して帰ってしまった事件のためだ。その演奏はあまりにも独創的で演奏のたびに違うと言い伝えられて来たが、CDはそう多くはなく、ステージでの演奏を重視している。しばらく病気で半ば引退気味だったところ、近年復帰して、その演奏は昔と同じく安定して毎回違う(変な表現だが)と聞き及んでいたところである。なかなかの人気で、チケット予約の出足が少し遅れてしまっただけで既に1階の最後尾の2列か2階しかなかった。

 当日、開演20分前くらいに席に着いたところ、ピアノの音が聞こえる。こんな時間にまだ調律が終わってないのかなと思ったが、それにしては曲になっている。また調律師ならスーツにネクタイのはずが、何やらニット帽にフリースとジーンズ姿の男がポロン、ポロンとつぶやくようなピアノを弾いている。開演前のBGMとしていい感じではあるが、コンサートの直前にこんなのあり得ない。観客が勝手にステージに上がりこんで弾くわけはないし。やがてステージの袖から係員のような女性が出て来て声をかけたら弾くのを止めて、一緒に袖に引っ込んでしまった。これはやはり観客が勝手に弾いていたのではなく、ポゴレリッチの身内か付け人か何かだろうか。それにしても開演直前にこんなのは初めてだ。何なんだこれは。
 そして開演時間となった。出て来たのは黒い燕尾服のポゴレリッチ。この日の全ての演目がそうであったが、すべて楽譜を見ながらの演奏だった。譜めくりの女性のための椅子が並んで置かれていた。楽譜を見ながらのリサイタルは、後年のリヒテルがそうであった。リヒテルもポゴレリッチも暗譜ができないはずはない。その証拠に、あまり(というかほとんど)楽譜を見ずに弾く。しかし、聴いてわかったが(これから書くが)テンポのダイナミズムと強弱のダイナミズム、それに声部ごとのフレーズ感のコントロールが極めて精緻であり、目の前に楽譜を置くことはその集中力を高めるための補助になっているのではないかと推測される。
 最初の曲はショパンの「バラード第2番」作品38。シチリアーノ風のリズムの主題に先立ち、最初の2小節はCの音のユニゾンで同じ音を7回打つだけの前奏。普通ここは速度を確定するごとく一定のリズムで奏するのだが、ポゴレリッチはこの連続同一音の箇所にも内部構造があると言わんばかりに速度を揺らすので、初っ端から面食らう。面食らうが、デタラメではなく、こういうことがやりたいんだなという統一感がある。こんな感じで46小節のヘ長調の主題が奏され、そのあとショパンはまるで別の曲のような激しい嵐を用意している。その部分も、普通は一定のテンポで嵐を奏するのだが、ポゴレリッチはやはり機械的でない演奏をする。ようやく71小節目でメトロノーム的になる。さすがにこの箇所はテンポを揺らして欲しくはない。という感じで牧歌と嵐が交代するこの曲の最後となり、ショパンはいったん嵐を途切れさせたあと、牧歌を4小節だけ悲しく奏でたあと1小節半ほど無音の時間を設け、三つの和音で曲をイ短調に終止させる。ここはポゴレリッチの面目躍如たるところで、最後の三つの和音のゆっくりなこと。特に、最後から2番目のアルペジオは登り切る最後の音をすごく間を開けて打ち、最後の和音は出だしの最低音を打ったあとかなり時間をおいてアルペジオを進行させる。これによち、直前の無音の時間の内部にさえ構造があったことを知らしめる。
 そして同じショパンの「スケルツォ第3番」作品39。このベートーヴェン的な曲、アルゲリッチは凄まじいテンポで圧倒するが、ポゴレリッチの速度も凄まじく速い。違いはやはり内部構造があるように弾くところだ。そしてさらなる違いはコラール風の第2主題の部分。ここはコラールとキラキラ舞い降りる雪の結晶のような経過句が交代するが、その速度差がものすごい。ここはどんなピアニストも一定速度などでは弾かず、コラールを遅めに、舞い降りる結晶を速めに弾くが、ポゴレリッチほど差をつけた演奏を知らない。下手にやると下品になるところ、ポゴレリッチがやると、私もそうやってみたいと思うほどの説得力があった。
 次はシューマンの「ウィーンの謝肉祭の道化」作品26。私の好きなシューマンをどう料理するか。これは、ショパンの2曲に驚いた後としては、意外とテンポの揺らしが少なく感じられた。もちろん普通のピアニストより揺らす。それより印象的だったのは、ショパンの2曲では強弱のコントラストも時間的に細かく揺らしていたが、この曲ではコントラストを揺らす時間スケールが長いのである。したがってフォルテのところはしばらくフォルテが続く。それもフォルティッシモなので、全体として(デリケートな部分はもちろん随所にあるにしても)力が漲る感じの仕上がりである。

 休憩のあとは、モーツァルトの「幻想曲ハ短調」K.475。これはモーツァルトとしては珍しいほど近代的な和声が展開し、曲想も緩急が(重い部分と急速な部分が)交代し、全体としてシリアスな曲になっている。前半を聴いてポゴレリッチを知ったいま、いかにも彼向きの曲だなと思って聞き始めたが、期待に違わずすばらしい音楽となった。この人の演奏は、遅いところは極度に遅く弾くにもかかわらず、本物の緊張感が漂うというところがツィンマーマンと共通するところがあるが、さらに徹底している。このコンサートでは最高に納得感が得られた演奏であった。
 そしてトリはラフマニノフの「ソナタ第2番」作品36。この曲は1913年の複雑怪奇な初版に比べ1931年の改訂版はやや複雑さを減ずるとともに途中のパッセージをかなり違うものにしたところもあるので、どちらが決定版ということもなく両方とも別の曲というほどによく演奏される。ポゴレリッチは1931年版を演奏した。演奏者はどちらを選択したか、その選択理由をプログラムに書くこともしばしば見られるが、ポゴレリッチはは特に理由は書いていない。この曲の演奏はこの日のプログラムである意味最も普通の演奏に近かったかもしれない。しかし遅い部分の遅さと徹底した緊張感、それに速い部分の凄まじさ、そして全体の音楽の大きさの面で、ポゴレリッチらしさが溢れる演奏であった。

 休憩前のステージの挨拶もそうであったが、割れんばかりの拍手に乗って繰り返すお辞儀の仕方が印象的だった。背中に楽譜を後ろ手に抱え、上半身を90度折って深々と長いお辞儀をするので、楽譜の動きが鳥の後ろ羽のようだ。これをステージから見て正面、左2階、右2階、そして背面2階(パイプオルガン前の客席)に向けて行う。ステージの袖に引っ込むときは楽譜をお腹の方に回して自分の顔を扇ぐように前後に振りながら歩いて引っ込む。また出て来て同じことを繰り返す。どことなくユーモラスな感じだが、その間、客は万雷の拍手。
 アンコールなんかしないだろうなと思ったら、した! やおらこれ以上はないピアニッシモで弾き始めたのは、驚くべきことにシベリウスの交響詩「悲しきワルツ」だった。この美しい音楽を、自在なテンポとディナミークで奏でた。本当に美しい。オーケストラでもゆっくり演奏されるが、それに輪をかけて遅い演奏だ。このとき気がついた。開演直前にピアノでつぶやいていたヒッピーみたいな人はポゴレリッチその人だったのだ。これはあくまで想像だが、彼は「このピアノはいったいどこまでピアニッシモをコントロールできるか」を確認していたのではないだろうか。彼はフォルティッシモも出せるし激しい演奏も最高度にできるが、彼の真骨頂である自在なピアニッシモを出すためには少しでも直前まで試してみたかったのではないだろうか。それにしても、だとすると開演直前の極めて短時間の間に演奏用の正装に着替えたことになる。そんな思いと悲しきワルツの凍りつくような美しさが交錯するアンコール鑑賞になった。

[2016年1月1日 記]

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