武満徹「双子座」再演


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[2016年11月4日 記]

 2ヶ月ほど前の2016年8月26日、サントリーホール30周年記念 国際作曲委嘱作品再演シリーズ 武満徹の『ジェモー(双子座)』を聴いた。 プログラムは、演目は公式サイトのそれと同じだが、順番が下記のように変更されていた。
  1. 武満 徹:ジェモー(双子座)−オーボエ独奏、トロンボーン独奏、2つのオーケストラ、2人の指揮者のための (1971-86)サントリーホール国際作曲委嘱シリーズ 第1回委嘱作品

      休憩

  2. タン・ドゥン:オーケストラル・シアター II :Re −2人の指揮者と分割されたオーケストラ、バス、聴衆のための (1992) (サントリーホール国際作曲委嘱シリーズ 第17回委嘱作品)
  3. 武満 徹:ウォーター・ドリーミング−フルートとオーケストラのための(1987)
  4. タン・ドゥン:3つの音符の交響詩 (2010)
公式サイトの予告では3→1→2→4の順になっている。 純音楽的には、その3→1→2→4の順番は根拠があるように思えた。 この方が、前半武満、後半タン・ドゥンとなって構成がはっきりするのみならず、 武満の2曲の順が管弦楽に乗るフルート独奏という比較的オーソドックスな響きの次に斬新な器楽配置のジェモーになり、 後半は逆に、聴衆参加型の実験的音楽の次に形態自体はオーソドックスな交響詩に回帰するという対称構造になるから。 で、曲順を1→2→3→4に変更した理由は定かではないが、一つには上記プログラムの1のオーケストラの楽器配置が特殊かつ大規模であるため、普通の配置である3を最初に持って来ると、 それが終わった後のステージ上の配置変更に時間がかかるから、というのが一番考えられる。 今回1→2→3→4の順で聴いたわけだが、 何の前触れもなく始まった「ジェモー」の印象が強烈で、 その興奮を他の3曲がクールダウンして(音量的にはむしろ大きくなって行ったが)聴く者を落ち着かせて終わるという風に、個人的には鑑賞した。 そう思うと、本番の1→2→3→4も良かったと思えるが。

 ということで、改めて武満徹の偉大さを味わった。 今回の武満の二曲、所持しているCDで予習することはせず、いきなり聴いたが、 ジェモーを聴き終わって、まず「こんな曲は自分には書けない」と思った。 このジェモーは、それぞれ6分から10分ほどかかる4つの楽章から成り全体で30分以上かかるという、武満としては大規模な曲だ。 一聴しただけではとても分析できない複雑な音楽だが、聴く者を全然拒まず、むしろグイグイと引きこむ。 そんな中でも第2〜4楽章は聞き慣れた武満和声(後期スクリャービンやメシアンをもっと進めて和風の詫び寂び情感も持つ和声)がしばしば聞こえ、武満だなぁと安心できる瞬間も多々あるが、第1楽章などはこれから何度もCDを聴いて勉強しようと思うくらい複雑で、それにもかかわらずコンサート全体の感動を支えるほどの性格的音楽であった。

 ところでもう一人の作曲家、タン・ドゥンであるが、この人の曲は初めて聴いたが、この2曲ともシアター・ピース、すなわちステージ上に固定するのでなく、各階の観客席にも演奏者を配して通信のやりとりのような効果を出したり、指揮者が指揮をしているにもかかわらず演奏者が音を止め、無音の中を指揮者がパントマイムで踊っているようなパフォーマンスを見せるというような、ステージや音楽そのものを超えたものを音楽に取り入れるもの、である。ステージ外から演奏する例は現代音楽でなくてもよくある。 チャイコフスキーの序曲1812年の大砲の音や、ホルスト「惑星」最後の女性コーラスなど、観客からは見えないホールの外から聞こえるように演奏される。 観客席に演奏者を配するのも昔からある。 これらは無難な処理であり、その効果もあり、聴く者の納得感も高い。 一方、もう一つの例 ー 指揮者の一人芝居のパフォーマンス ー であるが、これは納得感、必然感を誘起するのが難しいかもしれない。 見ている間は興味を引くので、それで十分とも言えるが、曲が終わった後で「いやー、やっぱりベートーヴェンは深い」という類いの感動を持続させるのは容易ではないかもしれないと思った。(もっとも、髪を振り乱して「悲愴」を演奏したであろうベートーヴェンも、最初は狂った音楽と見なされたようであるが。)

 このタン・ドゥンの音楽、管弦楽法がすばらしいと思った。 管楽器、弦楽器はもちろんのこと、使っている打楽器の種類が尋常でない。 フレクサトーン(ハチャトゥリアンのピアノ協奏曲で使われる)なんて言わずもがな。 何か見たことない、車のホイールのようなものがいくつもぶら下がっている楽器がある。 どんな音がするのだろうと思っていたら、忘れた頃に面白い音をtuttiに埋もれず鳴らしている。 後で解説を見たら、本当にbreak drumと書いてあった。

 しかしこのタン・ドゥン、本当に舌を巻いたのは、指揮だった。 それを言うために、初めの方で「ジェモーの楽器配置は特殊」と書いたことに話題を振ろう。 武満のジェモーとタン・ドゥンのオーケストラル・シアター II :Reは、「2つのオーケストラ、2人の指揮者のための」という文言が含まれている。 これは具体的にはどんな様相だったか? ジェモーの方は、ステージの左半分と右半分にそれぞれオーケストラが配置されていた。 ステージを埋め尽くさんばかりのすごい人数である。 そしてそれぞれのオーケストラの真ん中に、つまりステージの左端から四分の一、右端から四分の一の地点に1人ずつ計2人の指揮者がいる。 左が三ッ橋敬子、右がタン・ドゥンだ。 さすがに開始時(それと片方のオケだけの箇所)は1人だけ指揮しているが、それ以降は同期している。 互いに目配せをしているようにも見えなかったが、耳や目を使って同期しているのだろう。 連弾あるいは二台のピアノの音楽を奏でる2人のピアニストのように。 この2人の指揮者の指揮ぶりはすごかった。 この複雑怪奇な音楽をよくまとめ上げているものだ。 それも感動的に。 私は、自作曲を上手に指揮する作曲家というのは他人の作曲になる音楽の指揮も上手い確率が高いと思っているが、 タン・ドゥンの場合それが尋常でない感じだ。 武満の音楽は、普通の指揮者でも誰もがやるわけではない。 今回武満に感動した原因の一つは、彼の、そして彼女の指揮にあると言ってもよい。

おっと、もう一つ、ソリスト達 ー オーボエ、トロンボーン、バス歌手、フルート ー それになんといっても東京フィルハーモニー交響楽団。 現代音楽のコンサートではいつも感じるのだが、こんなに演奏至難な音楽を、どれほどすごい演奏家達がどれほど時間をかけて練習した結果なのだろうかと思う。 完璧である。 お礼を言いたい。

そして最後に、聴衆。 服装も(特に贅沢というわけではないが)、演奏風のマナーも、聴衆参加型音楽の参加態度も、まさに聴衆は受け身でなくコンサートを一緒に支えている感じである。 休憩時に聞こえてくる会話も「ジェモーのCDはもう廃盤? 昔買っといてよかったな」とか「今日の録音、CDにしてくれるといいね」という具合。 そうそう、若いころ武満の助手を務めた池辺晋一郎も来ていた。 作曲家としてはタン・ドゥンの兄貴分だ。

最後に、座席選びの反省点を一つ。 ステージにあまり近すぎない真ん中という、音響的には最上のポイントで聴いた。 音はよかった。 特に二つのオーケストラのときなど、均等に聞こえた。
 しかしである。ステージ後方に配置された、面白い打楽器の数々がよく見えないのである。 これは聴いていてもどかしかった。 オペラと同様に(オペラではあまり前だと舞台の奥がよく見えない)一階なら少し後ろのせり上がったところ、あるいはもっと全体を見通せるのは二階の最前列にしておけばよかった。 池辺晋一郎は、一階なら少し後ろのせり上がったところで聴いていた。 さすがである。

[2016年11月4日]


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