「千年の響きーアンサンブル・ニュー・トラディションー」を聴く


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 2011年3月5日(土)神奈川県民ホールで行われた同題のコンサートを聴いた。これは神奈川国際芸術フェスティバルの一環として行われたもので、正倉院に遺されている古代楽器を復元した楽器による日本人作曲家による現代音楽の演奏会である。企画・構成・プロデュースは一柳慧。これは、聞くだに、私が最も好みとするたぐいのコンサートだ。実は、ピアノの仲間にこのコンサートの出演者がいたのだ。あるときその人からさりげなくチラシをもらったのだが、こんな活動をしているなんて全然知らなかった。これは聴かずにはいられない。

さて、 チラシに出ているものより詳細正確なプログラムが当日配られたので紹介しよう。

  • 芝 祐靖:「明日香閑音」(あすかかんのん)(2000年)
     排簫(はいしょう)独奏のための
  • 野平一郎:「MEMOIRE VIVE」(2000年)
     排簫,方響(ほうきょう),箜篌(くご)のための
  • 一柳 慧:「心の視界II」(2001年)
     排簫,龍笛(りゅうてき),篳篥(ひちりき),大篳篥(おおひちりき),笙(しょう),ヴァイオリン,軋箏(あっそう),方響、編鐘(へんしょう),打物(うちもの),箜篌、箏のための
      ー 休 憩 ー
  • 宮内康乃「風の雫」(2011年, 委嘱作品初演)
     箜篌,方響,笙のための
  • 石井眞木:「残照の時」作品52(1983年)
     ヴァイオリンと箏のための
  • 川島素晴:「ASPL」〜正倉院復元楽器による「遊び」(2011年, 委嘱作品初演)
     箜篌,軋箏,排簫,大篳篥,笙,方響のための

     このように、演奏された音楽はすべて最近の現代音楽である。しかしその音響は、「飛鳥・天平時代に古代ペルシャからシルクロードを経て、中国、東南アジア、朝鮮半島の各地から日本へ到来した古代楽器のオリジナルな残欠が遺されています。日本音楽の原点とも言うべきこれらを演奏可能な楽器として復元し、かつて豊饒に存在していたにもかかわらず、現在では失われ、忘れられてしまっている東洋の響きと、その考え方を今日の視点から回復を促そうとするのがこのコンサートです」というのにふさわしい響きであった。個人的好みから言えば、予想通り、およそ日本の現代音楽として最もあるべき姿だ。奈良時代の当時の音楽とはだいぶ違うかもしれないが、精神においては共通するものがあるのではなかろうか。以下ごく簡単に各曲の印象を記す。
  • 芝 祐靖:「明日香閑音」
     排簫というのはパンフルートで、ルーマニアのナイあるいは南米楽器のシークによく似ている。各パイプに詰める湿った布の位置で調律できるが、この曲は基本的にホ短調自然音階に調律してあり、ホ音を基音とするヒポドリアかもしれないしその上の嬰ヘ音を基音とするヒポフリジアのようにも聞こえた。比較的単純な旋律から成る素朴な独奏楽曲で、心あたたまる音楽だ。尺八のように口の角度を変えて音程を揺らし、とても味わいがあった。
  • 野平一郎:「MEMOIRE VIVE」
     野平さんらしく、奏法にも作曲的にもいろいろな技法が出て来る。ハープのような弦楽器、吉備真備のドラマで彼が唐から持ち帰った楽器として紹介された打楽器、それに笙と、管弦打トリオの音楽。途中全楽器ユニゾンでメシアン「世の終わりのための四重奏曲」の第6曲に似た特徴あるフレーズが2回出てくる。ここがいかにもという感じがすることは確かだ。一緒に行った妻はそこがいまいちと言っていた。私は悪くないと思ったが、そこだけ急に西洋風な感じがすることはする。方鐘をそっと撫でる音は良かった。後述の「風の雫」のような感じもあって。
  • 一柳 慧:「心の視界II」
     まるでブリテンの「青少年のための管弦楽入門」のように、それぞれの楽器紹介があって、Tuttiがあり、複雑な展開へ向かう、といった風情だ。それを露骨と見る向きもあるかもしれないなとも思ったが、私は一柳が好きなので、ニコニコしながら聴いた。いや、やはり風格がある。この曲では前述のピアノ仲間が笙の演奏で加わったが、堂々としていた。友人の全然知らない面を見た。
  • 宮内康乃「風の雫」
     出だしは各楽器交代で段々増える下降音階の繰り返しが単純構造のようにも聞こえたが、途中、ほんとうに「風」の「しずく」という感じの箇所が何回か出て来て、そこが大変いい感じだった。これ以上のピアニッシモはないのではというくらいのかそけき音が、たまーに垂れる雫のようにスッと聞こえる。こんなのは西洋音楽はもちろん、どこの民族音楽にもないのではないか。これを再生できるオーディオ機器はあるのだろうか? これはナマでなければ。
  • 石井眞木:「残照の時」
     どうも心に響かない曲だった。いろいろ現代音楽の技法を使ってみましたという感じ。ちなみにこの曲だけは正倉院とあまり関係がなさそう。しかしヴァイオリニストと箏の奏者は非常によかった。特に箏の奏者はジャニーズ系イケメン風なのに箏の奏者という、外面と全然違う活動が印象的だった。
  • 川島素晴:「ASPL」〜正倉院復元楽器による「遊び」
     少し漫画チックな面白い音楽。6人の奏者がまちまちに音出しを始めているところに作曲者が指揮者として入って来てとりまとめようとするストーリーだ。にやけた顔も演出のうちと見える指揮者は首を傾げたり納得したり。そのうち盛り上がって行き、最後は全員狂乱のうちに突然終止する。何年か前、作曲者と指揮者がケンカしながら自己主張し、演奏者達がなんとかついて行って曲が進行するという演出の、笑いを誘う現代音楽を(聴いたというより)見たことがあるが、そういうのが流行っているのだろうか? 曲は今回の方がずっと良かったが。

     アンコールとして、それまで使われていなかったし瑟(しつ)という楽器の独奏のための一柳の曲が披露された。瑟は箏に似た楽器で、聞きやすい。音楽も愛知万博に使われたテーマだそうで、聞きやすい。このように、最後はほのぼのと終わった。

    [2011年3月6日 記]


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