Bach/無伴奏チェロ組曲


風雅異端帳に戻る ♪  音楽の間に戻る ♪  詠里庵ホームに戻る
 バッハの無伴奏チェロ組曲。こんなに奥行きのある音楽をなぜ無伴奏ソロで表現できるのだろうか。 この組曲集、大チェリストは必ず全曲録音を残しているのでCDの種類も多い。 自分で持っている愛聴盤は長らくロストロポーヴィチ盤であったが、 それ以外持っていなくともいろいろな人の演奏を断片的に聴いたことはあり、 チェリストによって音や演奏がずいぶん違うなぁと思っていた。 それにしても聴いたのは全部外国人チェリストで、日本のチェリストの演奏は聴きのがして来た。
 日本のチェリストと言えば、堤剛。相当昔テレビで聴いたドボルザーク協奏曲を記憶している。 もう一人、食わず好き(食わず嫌いの逆)の人がいる。 鈴木秀美である。 ひょんなことからご本人のホームページを見たり他人の解説を読んだりして、 この人の演奏なら自分は好きになりそうとなんとなく思った「食わず好き」である。 その鈴木秀美と堤剛が最近相次いでこの曲のCDを出した。 これは一応聴いておいた方がいいのではないかと「ものは試し」的感覚で、両方を全部聴いてみた。 そして驚いた。全然タイプの異なる演奏であることにではない。 ロストロポーヴィチの演奏はこれからも長いこと第一級の演奏に位置し続けるであろうが、 彼のCDしか持っていないということではいけないとつくづく思ったのだ。 堤剛の演奏と鈴木秀美の演奏、どちらも聴き始めたら止まらなかった。 もしこの曲が好きでたまらないならば両方とも迷うことなくお薦めする。 これを機に前から買おうと思っていた楽譜を買った。これもボウイングの付け方が出版社によって異なる。 自分では弦楽器を全く弾かないとはいえこれが悩みの種だった。 しかし非常に充実した解説本とセットで鈴木秀美の編纂になる楽譜を発見し、そのすばらしさに魅せられて、少々高価だったが購入した。 便利なのは、ミスプリントの訂正が氏のホームページに出ていることだ。今後発見されてもすぐ出ることだろう。
 さてこの二人の演奏にそこまで感嘆してしまうと、他のチェリストももっとよく聴いてみなければならない。 とはいえ好きなチェリストはたくさんいるので、また予算も時間も無限にあるわけではないので、 さすがに全部買うわけには行かない。そこでさらにイッサーリスを購入し(これで4種類)、あとは全曲通しではないがネットの試聴版を聴き、 さらに試聴版がない人は昔聴いた記憶を思い出し、それぞれの違いを書きとどめておくことにした。

 バッハの組曲には6曲セットというのが多い。鍵盤楽器でもパルティータ、イギリス組曲、フランス組曲、無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ、ヴァイオリンとチェンバロのソナタも、そしてこの無伴奏チェロ組曲。ついでにブランデンブルク協奏曲も6曲だ。(6曲でないのは管弦楽組曲やヴィオラ・ダ・ガンバソナタなど。) この無伴奏チェロ組曲、イギリス組曲にも似て構成が規則的だ。6曲とも、(1)Prelude、(2)Allemande、(3)Courante、(4)Sarabandeと来て(5)があり、(6)Gigueとなっている。(5)だけMenuetだったり(第1および第2曲)、Bourreeだったり(第3および第4曲)、Gavottだったり(第5および第6曲)するのもイギリス組曲に似ている。またこの第5曲目がどれも親しみやすく、他の楽器で演奏される機会も多い。この無伴奏チェロ組曲、他の組曲にも増して曲ごとに個性があって雰囲気が異なるので、チェロ一本ということを忘れさせるほど幅広く起伏のある音楽になっている。

【ロストロポーヴィチ】1992年3月(65才)La Basilique Sainte-Madeleine de V?zelayにて録音
収録時間: 147分
EMI TOCE-8641-42
 現代チェロによるスケールの大きな演奏。チェロが低音楽器であることを忘れさせるほど艶のある音で朗々と、ときには活気をもって歌う。古い石の教会にしては響きすぎることなく適度な残響の録音で、スケールの大きさと生々しさを兼ね備えた音場となっている。147分と長い方であるが聴いた感じは遅いとは感じない。速い曲と遅い曲の差を大きくつけているので全体の時間は余計にかかっている。ハ長調のプレリュードなど粘っこく弾かれることも多い中、ロストロポーヴィチの演奏は軽快な方である。

【堤剛】録音は2008年(66才)
収録時間: 153分
NAXOS MM2034-35
 堤は1969/70(CBS Sony)の第一回目、1990/91(Sony)の第二回目の録音に続き、2008年にこの3回目のCDを出した。40年前、20年前、そして今回。満を持しての録音に違いない。 G-Durの分散和音で始まる最初の瞬間から、慈愛と救いに満ちた音楽とでも言おうか、気高さに満ちた音楽に引き込まれた。愛聴盤のロストロポーヴィチ盤と比べても遜色ない、いや、それどころか堤のこの演奏の方が風格があるのではないか。録音時の年齢はあまり違わないが、ロストロポーヴィチ盤が彼の体力溢れる壮年期のオーケストラ的演奏とすれば、堤の演奏は音より「ソロの音楽」そのものを紡ぎ出す、熟年の語りだ。演奏時間も153分と最も長い部類で、落ち着いた演奏を聴けばさもありなんと思う。ハ長調のプレリュードはどちらかというと粘っこい方だと思うが、この演奏は納得である。残響も自然で、音場は目の前というわけでも遠いステージというわけでもない。広めの部屋で堤と対峙して聴かせていただくという感じだ。

【鈴木秀美】2004年(47才)秩父ミューズパーク音楽堂での録音
収録時間: 138 分
Deutsche Harmonia Mundi BVCD-34028-29
 ガット弦を使った本格的古楽器による演奏。ヨー・ヨー・マの2番目の録音より一層低い調弦。バッハの時代を感じさせる点で最も自然で心地よい音と演奏スタイル。いかにも「これが低音楽器チェロによる無伴奏ソロだ」と思わせる演奏。これに比べれば堤のはもっとつややかである。師事したビルスマの影響でハ長調のプレリュードは速く弾くべきという持論があり、その通り軽快に弾いている。変ホ長調のプレリュードのところどころ現れるささやく疾風のような経過句があるが、この弾き方が面白い。まるでショパンの「葬送」終楽章のような尋常でない雰囲気。残響は多い方で、音も太く録音されている。それにもかかわらずロストロポーヴィチのオーケストラ的演奏にくらべ、バロック音楽の演奏である。第6組曲は5弦のチェロのために書かれたことはよく知られているが、この曲だけ5弦のチェロを使っている。調弦も一層低い。

【スティーヴン・イッサーリス】2005-2006年 (46才) Henry Wood Hall, Londonでの録音
(2005/3/21)
収録時間: 137分
Hyperion: CDA67541/2
 ガット弦を使った現代チェロによる演奏。調弦も低くはなく現代風。聴いていて実に気持ちいいほど上手さが光る。シューマンを情熱的に弾くときと違って爽快感がある。鈴木秀美の録音と対照的にオンマイク気味で残響が少なく、目の前で弾いている響き。ガット弦の素朴さと生々しさが相俟って、残響の少ない所で歌手が至近距離で歌ってくれている感じで、とても音楽的だ。

   ◇ ◇ ◇

【ヨーヨー・マ】録音は1983年(27才)
収録時間: 130分
 さぞエネルギーとロマンのこもった弾性的演奏かと思って聴き始めたが、だいたいその通りだった。若々しい! バッハがこの曲を作曲したのが30代だから、こういう演奏もいいのかもしれない。

【ヨーヨー・マ】録音は1994年~1997年(39〜43才)
収録時間: 143 分
 二度目の録音ということでどうなったかというと、非常にバロック的になっている。相当低い調弦をとっており、演奏も音ものびやか。ロマン派を力いっぱい弾くときと全く違う。こんなに弾き分けるとは思わなかった。収録時間も長くなっている。音場も自然。

【シュタルケル】
収録時間: 144 分
 現代的でわかりやすい。和音がアルペジオで引きずることが少なく、インテンポの気持ちよさ。いかにもシュタルケルらしい。一方、かの「松ヤニが飛ぶ音も聞こえる」と評されたピーター・バルトーク(ベラ・バルトークの次男)録音によるコダーイの無伴奏チェロソナタが、ぶつからんほど目の前という感じのオンマイクであったのに対し、この録音は残響が効いて少し距離感を感ずる。演奏もコダーイのような現代的鬼気迫るというより、シュタルケルとしては珍しいほどバロック的ほのぼの感。

【フルニエ】1960年(54才)の録音
収録時間: 1,3,5番で66分
 刺激臭皆無でまろやかな彼独特の演奏スタイルを想像したが、もちろんそうなのだが、オンマイク気味の録音なので意外と生々しい。力みのない自然な演奏で、目の前で弾いているような音場は私一人のために演奏してくれているような感じもして心地よい。

【ビルスマ】1979年(45才)頃の録音
収録時間: 124 分
 ビルスマには次項の1990年の録音もあるが、そちらは現代チェロでこちらが古楽器チェロである。ヨー・ヨー・マほどではないが調弦が低くバロック風。第1番プレリュードは堤と同じくらい余裕を持ったテンポ。しかしハ長調プレリュードは速い。明らかに鈴木秀美に影響を与えている。あと、グレン・グールドのピアノほどではないが少しdetache気味(変ホ長調プレリュードなど)の弾き方が小気味良い。かなりサクサク弾いており、イッサーリスの方がサクサク弾いているかなと思ったが、収録時間は最も短い方になっている。

【ビルスマ】1990年(56才)頃の録音
収録時間: 127 分
 現代チェロだけに調弦は低くなく普通だ(ヨー・ヨー・マを除く他の現代チェロ奏者より低い方ではある)。テンポの取り方など前項の古楽器バージョンと大きな違いは感じられなかった。収録時間もほとんど同じ結果だ。グレン・グールドのゴールドベルク変奏曲が二つのバージョンで全く異なっているのとは対比的だ。しかしもちろん古楽器と現代チェロの違いは大きいので、ビルスマファンは両方とも聞き逃せないだろうなぁと感じられる、非常に味のある演奏。残響は効かせている方の録音。

【藤原真理】
収録時間: 139 分
 フルニエほどではないが目の前で弾いている感じ。堤ほどではないが年季の入ったテンポの揺らし方。シュタルケルほどではないが和音のアルペジオの少ないインテンポ。総じてスタンダードな安心感がある。現代チェロのオーソドックスな調弦・演奏・録音。アットホーム的感覚。

【寺神戸亮】2008年(47才)Hakujuホールでの録音
Columbia Music Entertainment,inc.( C)(M)
収録時間: 130 分
 ボリビア生まれの桐朋出身という寺神戸(てらかど)氏によるヴィオロンチェロ・ダ・スパッラの演奏。これはユニーク! ヴィオロンチェロ・ダ・スパッラは、チェロより小ぶりだがヴィオラより大型の楽器で、音域はチェロだが弾き方はヴィオラのように肩にかけて(大きいので肩というより胸にかけて)弾く。だから敏捷性があるのだろう。非常に軽快で新鮮味に満ちた演奏だ。堤と鈴木の「円熟した」演奏こそこの曲集にふさわしいと思う一方、この曲をバッハが書いたのは30代。頑健だったことで知られるバッハは、もしかしたら老練な音楽でなくこの寺神戸亮の演奏のような音楽を意図していた可能性だってある。まるで30代のバッハが現代に蘇ったような演奏。この楽器、生の音を聴いたことはないが、おそらく弦の張力の関係でチェロほど大きく重厚な音ではないと想像される。しかしオンマイク気味のこの録音で聴けばなかなか迫力もあり、とにかく新鮮な驚きが味わえること疑いない。

 さて、試聴版がなく記憶に残っているだけのものもいくつかある。 その筆頭はマイスキー盤。彼の独特の力のこもったねっとり感、かなり好きだ。 まあこの曲についてはちとやり過ぎかなという部分もないではないが。 あと衝撃的だったのは清水靖晃のテナーサックスによる演奏。 演奏がすばらしいだけでなく、録音が鉱山跡など残響がきれいで長い場所で行われているので、 教会の合唱音楽のような厚みがある。 この曲を有名にしたカザルスの演奏ももちろん聴き逃せない。録音はモノラルだが、なぜかそれがよく似合う巨匠的演奏の録音だ。
 聴きたいけどまだ聴いていなく、ネット上の試聴版もないものもある。デュ・プレは当然聴きたい。 また、ヴィオラ弾きの友人によればヴィオラによる演奏というのもあって、なかなかいいらしい。
 しかしここはいったん切り上げよう。とにかくこの曲の醸し出す大きな宇宙は、これだけいろいろな演奏を生み出しているのであり、それは今後も続くであろう。機会があれば、また書くことになろう。

[2009年10月3日 記]


風雅異端帳・目次に戻る ♪  音楽の間に戻る ♪  詠里庵ホームに戻る