日本の論文数伸び悩む

というニュース。「米英独仏がここ10年で論文数を30%以上増やすなか、日本は14%」だそうだ。これは文科省の研究所の調べという「国際研究、中国が存在感 米との共同論文10年で5倍」というニュースの枝リンクにあった。

こんなことになっている原因は何だろうか。私は単なる経済状況の問題ではないと思う。国の研究投資の問題かというと、国が科学技術分野に投じる金額は決して少なすぎるわけではない。いろいろ原因はあろうかと思うが、二つ挙げたい。どちらもありきたりかもしれないが、痛感していることである。

ひとつは、海外との交流の少なさだ。いやこちらから国際会議に出るとか短期招へいで外国人研究者を呼ぶといったことではなく、共同研究や人事流動性が足りないと思う。前に中国では海外流出組の帰国者の給料は5倍という噂話を紹介したが、まんざら噂だけでもない例があることを最近知った。もちろん日本とフェーズが違うので、この施策をそのまま真似してもダメだろうが、知恵が要ることは確かだと思う。

もう一つは、これも前に書いたが、大学教員が研究以外のことに忙殺されるようになって来ていると思う。卑近な例から言うと、事務システムが電子化されペーパーレスの方向に向かっていて(そのメリットも皆無とは言わないが)実は教員の時間を食い潰す方向が非常に多い。そして毎日押し寄せる大量のメール。どれが自分にとって役に立つメールか、なんて自分勝手なことを言うつもりはない。どれが自分が責任をもって対処すべきメールなのか、中をきちんと読まないとわからない。実際全部読む時間なんてない。それと、教員性悪説に立った、以前は無かったような煩雑な事務処理を全国の全ての教員にやらせるのは、あまりにもマンパワーの無駄だし、失礼なことだ。

企業にいたとき、事務の人達は企業として研究アウトプットを最大にするミッションがあるので、研究者達が研究に集中できるようにというスタンスだった。私立の大学の学生指導を受託したときも、私立大学の事務は大学のアウトプットを最大にするミッションがあるので、教員達が教育に集中できるようにというスタンスだった。国またはそれに準ずる機関は「研究費を単にバラ撒いたりしていない。よく考えてやっているのだ」と言うかもしれないが、私にはお金だけでなくそれ以外のことにも知恵を絞る必要があるように思える。

あまりに社会が安定している時代なので、危機を感じても国も社会も機敏な動きがとれないようだ。こういうときは革新的なボトムアップ改革とそれに続く強権的なトップダウンが必要なのかもしれない(明治維新のように)。革新的なボトムアップ改革になるかもしれない例として、東大から広がりつつある秋入学構想は極めて興味深い。短期的には、軌道に乗るまで教員の負担が一層増えるかもしれないが、そのために、重要でない余計な負担はこの際バッサリ切る必要があるだろう。また秋入学は研究教育の国際競争力増進のためにも不可欠で、むしろ遅きに失したといえるかもしれない。社会全体を国際競争に向けて変えるようになるとよいのだが。

[最終稿:2012年2月6日]


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