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◆◆◆ カラ池・市民野球場 ◆◆◆
 ( カラ池・市立津堂市民野球場)
  藤井寺市津堂3丁目
    近鉄南大阪線・藤井寺駅より北西へ約
2.1km(市民野球場入口まで) 徒歩約35
    駐 車 場:市民野球場駐車場
(野球場使用者用 野球場使用のない時は入口閉鎖)  
市の西端−カラ池の周辺
 「カラ池」と聞いても、藤井寺市民でもわかる人は少ないのではないでしょう
か。隣接する藤井寺高校の生徒さんや先生方、市民野球場を利用したことのある
人、ご存知なのはそういった方々ぐらいでしょうか。縁の薄い方のために、右の
写真を載せておきます。
 カラ池周辺は藤井寺市の北西の端に近く、藤井寺高校敷地の西側はもう西隣の
松原市です。そして、市民野球場の南側は南隣の羽曳野市です。この場所はかつ
て、学校や公共施設などがなければ、ほとんどの市民は訪れることがないと思わ
れる地域でした。市内で最も遅い時期まで広々とした田園地帯
だった所なのです。
したがって、そこで耕作する農家の人が来られるぐらいだったでしょう。現在で
も市内では最も田畑が多く分布している地域なのです。
 市民野球場の土地も昔は「新池
」というため池でした。カラ池と共に大切な農業
用水として利用されていたのです。新池という名前なので、おそらく比較的後の
時代に新たに造られたため池だと思われます。
「新池」という名前の池は、あちこちの村に造られていました。現在の藤井寺市
@カラ池・市民野球場の様子
 @ カラ池・市民野球場の様子
       〈GoogleEarth 2017(平成29)年5月
〉より
             文字入れ、境界線等、一部加工。
域にも「新池」がいくつもありました。隣接してため池が造られたということは、それだけ周囲に水田が多かったということです。そんな
時代を知ることができる写真を下に紹介します。
A50年余り前のカラ池周辺の様子 B40年近く前の様子
A 昭和30年代のカラ池周辺 文字入れ、境界線等、一部加工。
          〈1961(昭和36)年5月 国土地理院〉より
    南側の羽曳野市域に住宅地ができている様子がわかる。
B 40年ほど前の様子 〈1979(昭和54)年10月 国土地理院〉より
  藤井寺高校開設のため、池の一部を利用して通学用の舗装
 道路が新設されている。
     文字入れ、境界線等、一部加工。
水田地帯からの変貌                                   アイコン・指さしマーク「カラ池・新池跡地−藤井寺市の川と池」
 上の左側写真は、半世紀と少しを遡った時代のカラ池・新池周辺の様子です。もっと以前の終戦後間もない時期の写真では、池の周りは
田畑ばかりでしたが、
50年余り前には南側の羽曳野市域に住宅地が延び出していることが分かります。しかし、藤井寺市域側には未だ住宅
は1軒も無い状態でした。古代条理跡の区画の形もわかりやすい写真です。
 この田園地帯の風景を一変させる切っ掛けとなったのが、大阪府立藤井寺高等学校の開設で
した。昭和40年代の大阪府内の児童数急増を
受けて、府下の各地に府立普通科高校が相次いで新設されました。それまで藤井寺市内の府立高校は藤井寺工業高校
(現藤井寺工科高校)
かありませんでした。南河内地区全体でも、普通科高校が存在したのは富田林市だけでした
(当時松原市は中河内地区)。昭和46年4月にま
ず新設開校したのが羽曳野市の羽曳野高校
(現懐風館高校)でした。次いで昭和49年4月に開校したのが藤井寺高校だったのです。水田地帯
の真ん中に、まるで野中の一軒家のようにそびえ立つ立派な校舎。まるで白亜の殿堂といった感じです。2年後の昭和51年4月には、市立
藤井寺北小学校が市内7番目の小学校として近くに開校しました。田畑ばかりだった地域が、この時期から旧に変化を開始して行く感じで
した。
 細い農道だった道は通学用の新しい舗装道路に整備され、農家の人の姿しか見られなかった田園の中に、毎朝夕徒歩や自転車で通学する
高校生の列が登場しました。小学校の新設もあったことで、この地域に出入りする車の通行量も増加しました。しかしながら、カラ池周辺
はもともと市のはずれにあり、高校が造られたことで「この場所も藤井寺市だったのか。」と、やっと認識されたような状況でした。松原
市域までひと続きの水田地帯だったので、ここまでが藤井寺市、という良い目印となる建物の登場でした。上の右側写真は、藤井寺高校開
校から5年後の様子です。羽曳野市側では住宅がかなり増えてきていますが、藤井寺市域の部分では依然として田畑が広がる地域でした。
 それから数年後には新池の埋め立てが行われ、高
校開校から
10年後となる1984年(昭和59年)5月には
津堂市民野球場と野外活動広場
(現在は野球場の一
部として管理)
が完成したのでした。ため池の一つ
が埋め立てられたということは、それだけ農業用水
の需要が減ったということで、水田の減少が進行し
ていたわけです。津堂市民野球場と野外活動広場の
桜は、この時に植えられたと思
われます。30年ほど
経った姿が今の桜景観です。
 
  Cカラ池畔の桜と市民野球場の桜を見る(東より)
   C カラ池畔の桜と市民野球場の桜を見る(東より) 2020(令和2)年4月 合成パノラマ
     左側のネットの見える部分が野球場。右の建物は大阪府立藤井寺高等学校。 
Dカラ池西側遊歩道の桜を見る(南東より) E遊歩道沿いの桜(南より)
D カラ池西側遊歩道の桜を見る(南東より)
  2020(令和2)年4月   左端後ろの桜は市民野球場の桜。
E 遊歩道沿いの桜(南より)    2020(令和2)年4月
 左側道路を左に行くと野球場。写真の右側にカラ池がある。
 その後カラ池の整備工事が行われ、現在のような補強された堤と池畔遊歩道が囲むカラ池の姿に変わりました。西側遊歩道の桜はその時
に植えられたものでしょう。きれいに整備されたため池、池畔に並ぶ多くの桜、背景には大きな校舎。かつて水田とため池しかなかったこ
の地帯に、見てくれと言わんばかりに誕生した新たな景観です。この場所が市のはずれであることに、もったいなさを感じます。

池とセットの桜景観
 カラ池西側には遊歩道に沿って桜が並んでいます。遊歩道を歩きながら、池の中にいるカメや水鳥ときれいな桜をかわるがわるに楽しむ
のもよいですが、池の東側から対岸の西池畔に見える桜を眺めることをお勧めします。池の水面、満開の桜、アイボリー色の校舎、それら
がつくる色の組み合わせが美しいと思います。上の写真Cがその様子です。特に、背景が晴れ渡った青空の時は、実にすばらしい桜景観で
す。この部分の桜は、遊歩道沿いに
14本、市民野球場の進入路沿いに16本があり、遠目には一列に連なっているように見えます。
市民野球場の桜
 下の写真Fが市民野球場へ入る進入路です。手前側に野球場と駐車場があります。市民野球場の桜は、グラウンドを囲む防球ネットの内
側に沿って並んでいます。球場内には
30年ほど経って大きく育った桜が37本あります。残念なのは、公園ではないので自由に出入りして
桜を楽しむことができないということです。野球の試合中や練習中は危険があり、邪魔ともなります。使用されていない時は閉鎖されてい
ます。野球場内に桜がずらりと並んでいる景観自体が珍しいのですが、何とももったいないという感じがします。
 野外活動広場だった場所の桜も大きく育っていてきれいですが、ここは普段は閉鎖されていることが多い場所です。19本の桜があります
が、防球ネットで囲まれていてすぐ横には民家が並んでおり、広場の外から写真を撮るのが難しい場所です。ここに桜を植えた目的は何な
のかと、少々疑問に思われる状況です。夏の活動期に日陰をつくるためだったので
しょうか。ここももったいなく残念な桜名所の一つです。
カラ池・市民野球場エリアの桜は、現在すべてソメイヨシノです。
市民野球場進入路と西側池畔遊歩道の桜(南より) 市民野球場の桜(北より)
F 市民野球場進入路と      2020(令和2)年4月
  
西側池畔遊歩道の桜(南より)  手前側が野球場
G 市民野球場の桜(北より)    2020(令和2)年4月
     右奧に野外活動広場の桜がある。
市民野球場の桜(東より)
H 市民野球場の桜(南東より) 中央後方は藤井寺高校 2020(令和2)年4月  合成パノラマ

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