タイトル・Web風土記ふじいでら
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 私が50年余りに渡って藤井寺と関わりを持つことになったきっかけは、「葛井寺(ふじいでら)」そのものでした。葛井寺を知るということが
なければ、私が藤井寺市で住むことも働くことも、このようなWebサイトを設けることも、まずなかったでしょう。すべての始まりは、
 
「葛井寺」にあったのです。
一つの新聞記事との出会い
 「葛井寺」という寺の存在を私に教えてくれたのは、ある一つの新聞記事でし
た。右の写真は、後にその記事も収録して出版された本の「葛井寺」のページで
す。本の題名は『続・古寺再見』といい、第1刷は1965(昭和40)年12月10日に発
行されました。この本は続編で、第1冊の『古寺再見』は1963(昭和38)年5月20
日に第1刷が発行されています。どちらも新聞の連載記事をまとめて単行本にし
たものです。
 朝日新聞の大阪・名古屋両本社が、1960(昭和35)年秋から日曜版の「心のペー
ジ」に連載した『古寺再見』という記事で、全国各地の古寺が紹介されました。
もともと宗教関係の記事が多いページだったので、若い人が読むことは少なかっ
たと思いますが、私がこの記事を初めて読んだのは大学1年の時でした。
 下宿先から帰省していたある日、実家の縁側で暇に任せて新聞をゆっくりと読
んでいた時に、何となくふと「心のページ」に目がいきました。その中の囲み記
事『古寺再見』で、たまたま隣りの市にある古寺が紹介されていたのです。記事
「葛井寺」の頁
「葛井寺」の頁   『続・古寺再見』(朝日新聞社 1965年)より
を読み終わると、一つの古寺の歴史やその背景に妙に興味をそそられる思いが湧いていました。家に置いてあった何週間分かの日曜版を引
っ張り出して、次々と『古寺再見』の連載を読んでみました。数箇所の古寺の紹介を読みましたが、その中で最も印象深かったのが「葛井
寺」だったのです。当時、葛井寺がどのような文で紹介されていたのか、次に引用紹介します。
 
 葛 井 寺(大阪) ― 剛 琳 寺 ―
  本堂を中心に右に観音堂、左に二十五菩薩堂、境内の西半分には木立の間に西国三十三番の札所がつくられ、それぞれのご本尊が
 祭られているが、本堂のほかは相当荒れている。人々の心の荒れるがままに……と思っていたら、住職の富永快俊さんは「檀家など
 ありませんが、お参りの客が絶えません。おかげで何とかやってゆけます」との話。
  本堂でしばらく休んでいると、なるほど、次から次へと参詣客がつづく。堂前のロウソクの火は消える間もなく、香煙も絶えず立
 ちのぼる。子ども連れのご夫婦、老紳士、サンダルをはき買物カゴをさげた若奥さん……本尊の千手千眼観世音菩薩が千の悪手、千
 の慈眼をそなえて、安産から病気
災難よけなど手びろく世のもろもろの苦痛から救って下さるお方とあれば、お参り客もいろいろ。
 それにしても「この二、三年お参りがふえたようだ」という。
  このご本尊、麻の布をウルシではりあわせ盛りあげ、中は空洞の、脱括乾漆という奈良朝末期特有のつくり方の座像で国宝。その
 ようにお寺の創建も古く、聖武天皇の神亀二年(七二五)と伝える。奈良の有名なお寺と並ぶ古寺だが、いまの建物は豊臣秀頼の再建
 だそうだ。
  そんな歴史、由緒を知るや知らずや。重文指定の四脚門(西側の門)の前は自動車やオート三輪の置場。境内はもっばら通勤・通学
 ・買物通いの近道として通りぬけの人たえず、立派な南大門の日陰がかっこうの社交場となっている。そして、悩みある人は本堂に
 まいつて観音さまにお願いし、となりの不動堂に不動明王をおがんで、力を得て帰ってゆく。
  寺は人々の暮しに全くとけこんでいるようだった。                  
                    真言宗御室派。山号は紫雲山剛琳寺で西国三十三カ所の第五番。大阪府南河内郡美陵町藤
                    井寺。近畿日本鉄道大阪阿倍野橋駅から約二十分、藤井寺下車、駅から徒歩五分。
 
                             ( ※ 阿倍野橋駅 …「阿部野橋駅」が正しい。新聞記事の誤記。)
興味深い「葛井寺」
 この記事の中のいくつかのことが私の興味を呼びました。何よりも印象深かったのは、『境内はもっばら通勤・通学・買物通いの近道と
して通りぬけの人たえず、立派な南大門の日陰がかっこうの社交場となっている。
』というくだりでした。私が自分の生い立ちの中で目に
してきたいろいろなお寺とは余りにも違う様子に驚きました。そして、ある種の違和感を覚えながらも、どんな境内の様子なのか見てみた
いと思ったのです。それまでに私が身近に見てきたお寺と言えば、昼でも静かな境内に人影をほとんど見ることはなく、また、お参りや法
要などの用がなければ大人も子供も入ることのない場所でした。葛井寺は駅から近そうで、買い物通いの人が通り抜けるということは商店
街も近いのだろう。それにしても、通勤・通学の人達が近道として通り抜けるとは、まるで道路代わりではないか‥‥などと、見たことの
ないお寺の光景に驚きと興味が膨らんでいったのでした。しかも、そんな境内の様子とは対照的に写真から感じられる立派な山門や本堂、
燈籠の姿、西国三十三所の札所であること、国宝指定されている千手千眼観音の本尊などが、たいへん由緒ある古刹だということを教えて
くれています。境内の日常の光景との対比から、余計にこの寺への興味が強くなったのでした。
古寺再見』『続・古寺再見』
 この記事が新聞に掲載された年の暮れに『続・古寺再見』は出版されており、
「葛井寺」の掲載はこの連載記事の中では遅かった方になります。この続編には
大阪府内の8箇所の寺が掲載されており、葛井寺からも近い、羽曳野市の野中寺
(やちゅうじ)も取り上げられています。この野中寺の記事もなかなか興味深いもので
した。また、同じ藤井寺市の古刹である道明寺は、四天王寺や観心寺などと共に
第1冊目の『古寺再見』に掲載されています。私は『続・古寺再見』が出版され
るとすぐに購入しました。従って、この本は第1刷を入手しました
。『古寺再見
はその時には新刊本は入手できず、後に大阪で暮らすようになってから古書店で
やっと見つけて購入しました。入手した本は初版から2年半後に発刊された第9
刷でした。この手の本としては、たいへんよく売れたと言ってよいでしょう。
 新聞の連載記事そのものが半世紀前のものなので、現在からみればかなり古い
出版物と言えるでしょう。記事の中にもそれを感じさせる部分があります。『

物カゴをさげた若奥さん
』『オート三輪』など、今の若い人にはイメージしにく
「古寺再見」と「続・古寺再見」の表紙
『古寺再見』と『続・古寺再見』の表紙
いことでしょう。また、この頃は葛井寺の所在地がまだ『南河内郡美陵町(みささぎちょう)』で、近鉄の準急電車が『阿倍野橋駅から約二十分
かかっていたという時代でした。その後の一部区間の高架化や車両の進歩により、現在は12分ほどで到着します。
初めて訪れた「葛井寺」は
 私が初めて葛井寺を訪れたのは、新聞記事に出会ってから2年ほどが過ぎてか
らでした。当時のメモ日記によれば、昭和42年4月9日のことでした。大学が
春休み中で、旅行の途中で大阪に寄った時に、かねてから行ってみたかった葛井
寺を目指して南河内の地まで足を伸ばしま
した。初めて乗る近鉄南大阪線でした。
阿部野橋駅−藤井寺駅の当時の乗車賃は70円でした。ラーメン1杯と同じぐら
いです。高卒者の初任給が1万7千円程度の時代でした。

 大和川を過ぎ
ると、松原市から羽曳野市藤井寺市にかけて広がる田園風景に、
妙な意外感を覚えたことを思い出します。当時、地方と大都市圏で広がっていた
人口の過疎化・過密化の流れが、問題として注目されていた時期だったので、大
阪市のすぐ郊外にこんなのんびりした風景の見えることが、何か不思議なものを
感じさせました。沿線にはまだビルやマンションなどはほとんどなく、車窓から
は遠くの金剛山地の山並みがよく見えて
いました。今思えば当時は、数年後にピー
クを迎える人口のドーナツ化、つまり、大阪市内から郊外の周辺都市に人口が移
  その頃の葛井寺の境内
その頃の葛井寺の境内(南より)   1970(昭和45)年4月
その頃の南大門 っていく現象の始まり出した頃で、近鉄線の沿線でもまだ田畑が多く見られた時期だったのです。そ
んな景色を眺めながら電車に揺られていましたが、後にあの赤い電車に毎日乗ることになろうとは、
その時は想像だにしませんでした。
 本で紹介があった通り20分ほどで藤井寺駅に到着し、さっそく葛井寺を目指そうとしました。しか
し、駅から近いはずの葛井寺について何の案内表示も見当たらず、よく知っているだろうと、駅前に
止まっていた近鉄バスの運転士さんに「葛井寺へはどう行ったらいいのですか
。」と尋ねました「こ
こが、ふじいでらやで。」との返事に、あわてて「あ、いや、お寺の“ふじいでら”ですけど。」と
聞き直し、それでやっと「それやったら、そこの商店街を行ったらすぐわかるわ。」と必要な情報を
得ることができました。今でもはっきりと覚えているやり取りです。この二つの「ふじいでら」に、
さらに前年に発足した藤井寺市の「ふじいでら」が加わっており、「ふじいでら」を話し言葉で言う
にはかなり注意が必要なことを認識しました。このことがあったので、数年後に、地元の人々が葛井
寺を「観音さん」と言い表していることを十分に納得することができました。ちなみに、「ふじいで
ら」にはもう一つ、かつての村名・町名でもあり現在の地区名でもある「藤井寺」があります。歴史
的にはこちらの方が駅名や市名よりもずっと古いものです。
書いてあった通りの「葛井寺」
 教えられた商店街を進み、アーケードを抜けた途端、「葛井寺」の文字が入った寺号標と四脚門が
その頃の南大門 1970(昭和45)年4月
   朱塗りに改修される前の南大門
目に入ってきました。あっけないほど早い葛井寺との出会いでした。これはもう
商店街が近いなんてものではなく、商店街の一部ではないかとさえ思える光景で
した。驚いている私の横を、買い物帰りの主婦やお参りの年配者が通り過ぎて行
きます。どう見てもお参りとは見えないスーツ姿の男性もすれ違っていきます。
私が目にしたのはまさに『
境内はもっばら通勤・通学・買物通いの近道として通り
ぬけの人たえず
』の光景でした。
 初めて目にする葛井寺の境内やすぐ横に連なる商店街の様子は、やっぱり私の
意識の中にある“普通のお寺”ではありませんでした。まさに道路代わりに人々
が通り抜けて行く様子、次々とお参りに訪れる様々な人、そこらの石段やベンチ
に腰掛けておしゃべりをするお年寄りたちの姿など、どれを見ても記事で読んだ
通りの光景でした。『古寺再見』で記者が結びに書いていた、『
寺は人々の暮し
に全くとけこんでいるようだった。
』の一文が、深い納得と共に思い出されたの
  葛井寺境内の夜景
葛井寺境内の夜景(西より)    1972(昭和47)年5月
でした。しかしながら、この3年後に自分も通勤で境内を通り抜ける一人になろうとは、ここでは夢にも思いませんでした。
 葛井寺の実景を目の当たりにして、私は妙な感心を覚えました。今まで寺というものに何の関心もなかった自分が、いつの間にか、葛井
寺のような人々との関わりの中で存在している「寺」に、何とも言えぬ親しみのような気持ちを感じていることに、自分で感心していまし
た。何百年以上も前から続いてきたであろう、葛井寺と周辺の村の人々との関わりの中に、古寺としてのこの寺の深い歴史を想像せずには
おられませんでした。                            アイコン・指さしマーク 「藤井寺市の寺院神社−紫雲山葛井寺」
 葛井寺の訪問以降も、大阪へ来た時にいくつかの古寺を訪ねました。道明寺
(天満宮も)や野中寺のほか、北大阪や兵庫県にある古寺も訪
ねました。また、帰省した時には、郷里の近辺にある『古寺再見』掲載の古寺も訪れてみました。自分が育った土地のすぐ近くに、立派な
由緒や歴史を持つ古寺がいくつもあったことを知
り、地域の歴史の深さを再認識しました。
葛井寺南大門の阿形像    次に、少々回りくどくなりますが、私が藤井寺市で働くことになったその経緯を書いてみます。
大阪での就職へ
 その後、私は学年も上がり、教員採用試験を受けることになりました。教育学部に入学した頃には、郷里
で教職に就くことを望んでいましたが、地方県の郷里では、当時は小中学校の学校統廃合などで教員の採用
者数は大きく減少していました。私は望みの薄い郷里での就職は諦めて、その頃人口急増によって学校新設
や学級増が急速に進んでいた大都市圏での採用試験を受けることにしました。
 東京・大阪・名古屋・京都などを中心とした当時の大都市圏では、急激に進む人口増の中、教員の大幅な
増員が必要でした。私は何となく馴染みかけてきた大阪府での就職を目指すことにして、夏休み中の7月に
天王寺高校での1次試験に臨みました。当時の大阪府では大阪市近郊の衛星都市地域で学校新設が相次いで
おり、大量の教員の新規採用を必要としていました。同じような状況の大阪市
(府とは採用が別)・京都府・
京都市・兵庫県・神戸市などと競合する状態となり、大阪府教委は西日本各地の大学の教育学部に積極的に
募集の働き掛けをしていました。おかげで、1次面接は大阪まで行く必要はなく、府教委の担当者が何人も
大学まで出張して来て1次の集団面接を実施してくれました。面接官の1人が
、「来年はバンパク(万国博覧
会)
もあることだし、是非大阪府に来てください。」と、試験か勧誘かわからないひと言を発していました。
きっと本音なんだろな、と私は思いました。翌年、大阪府で新規採用された小中学校教員だけで2千数百人
いたと思います。私の郷里の県の
5,60倍にもなろうかという規模でした。 
葛井寺南大門の阿形像
        1972(昭和47)年5月
忘れられない面接
 年が明けて、2次面接を受けるために、私は2年半ぶりに南河内を訪れました。その頃の大阪府の教員採用システムは、1次面接までは
府教委が直轄で行い、その後大阪府下の7地域に振り分けて、府教委の各地方事務所
(現在は廃止)が2次面接を実施して採用を決定すると
いうものでした。南河内に振り分けられた私は、富田林市の南河内地方事務所で2次面接を受けることになったのです。その時の面接での
あるやり取りを、今でもはっきりと覚えています。私が藤井寺市で勤務することになる大事な切っ掛けだったかも知れないひとコマです。
 地方事務所の小さな部屋で3人一緒の面接でした。前には4、5人の面接官がいて、出された質問に答えていきました。赴任を希望する
市町村を聞かれ、私は大阪市に近い松原市を挙げました。理由も聞かれ、大学の友人が勤務しているから、と適当な理由を答えました。実
は私は
、1968〜69年に掛けての大学紛争の混乱もあって自ら留年をし、同級生達より1年遅れの就職だったのです。友人が勤務していた
のは事実でした。面接官に「職場に入れば友達はすぐできますよ。第一、松原市は中河内地区
(当時)で、うちの管轄とは違うんです。」と
言われました。「他の希望地は?」と聞かれ、次に大阪市に近い藤井寺市を挙げました。また理由を聞かれ、「古寺巡りが好きで、藤井寺
には何度か来ており、この辺りに馴染みがありますから。」と答えました。「ほう、古寺巡りねえ。そういえば調査書の趣味欄にも書いて
あるな。若いのに珍しいね。」と、一人の面接官に言われました。「いけませんか?」「あ、いや、そういうわけでは…」というやり取り
が続きました。さらに、「藤井寺市は希望者が多いからねえ…。ほかに希望する所はありますか。」「それなら、どこでもいいです。」と
いうやり取りがあって私の面接は終わりました。もう、どこへでもやってくれ、というのが正直な気持ちでした。
 後なって、この時の面接官の中に藤井寺市教委の担当者がおられたことがわかりました。「ひょっとして、あの時のやり取りが決め手に
なったのでは?」と思ったりもしました。古風な趣味に一種の安心感を持たれたのかも知れません。当のご本人に直接お聞きする機会はつ
いになく、ずいぶん前に故人となられました。今となっては、全くの謎です。
 その後の合格・採用の審査は全くあなた任せです。ただただ、採用決定を知らせる府教委からの通知を待つだけでした。

赴任地は藤井寺市
 この面接から1ヵ月以上経って、やっと採用通知がきました。3月も中頃だったと思います。遅い方でした。通知は大阪府教育委員会か
ら来た1枚のハガキでした。今でも大切に持っています。現在の社会通念からみると、ハガキでの採用通知など考えられませんが、その時
は「やっと決まった。」という安心感が先で、何も疑問に思いませんでした。藤井寺市の公立小学校教員への採用が決定した旨と共に、赴
任する学校名が書いてありました。「藤井寺市立道明寺小学校」、それが私が初めて教師として勤務する学校の名でした。
 市教委に電話連絡を取るよう書いてあったので、すぐに当時の担当課長さんに電話をかけました。辞令交付式の予定やすぐに始まる新任
研修のことなどの説明を聞きました。住まいの手配を希望するなら校長さんに依頼しておくから、と言っていただき、お願いしました。荷
物は取りあえず校長宛に学校へ送っておくように、とも言われました。
 この後になって、ようやく実家の両親に報告の電話をかけました。留年することは認めてくれたものの、就職できるのかどうか、口には
出さないけれども随分と心配していたと思います。父に荷造りの手伝いに来てくれるよう頼んで、いよいよ私の赴任準備が始まりました。
この時準備でバタバタしていて、結局実家には帰省することもなく、そのまま大阪へ赴任して行きました。
 この時は、郷里を離れる寂しさなどはなく、「さあ、新しい土地で、教職の道でがんばるのだ。故郷を離れ、知らない人ばかりの藤井寺
の地で、俺は一人でがんばっていくのだ。」という気概の方が勝っていました。もっとも、この話にはオチがついていました。いよいよ明
日は大阪へ発つという日になって、父が「藤井寺なら、わしの叔父さん、お前達の大叔父さんの一人が住んでいるから、そのうち一度連れ
て行ってやろう。」などと、突然言い出したのです。「そんなこと、聞いてなかったぞ〜。」という心境でした。縁もゆかりも無い土地で
一人がんばるのだ、などと思っていた私の気勢は、急速にトーンダウンしていったのでした。この大叔父は、私が生まれるずっと前に亡く
なっていた祖母の3人いた弟の末弟だそうで、かなり以前から大阪に出て来ていたそうです。長男の大叔父は郷里にいたので知っていまし
たが、藤井寺にも大叔父がいたとは、全くの想定外でした。ちなみに、もう一人の大叔父も大阪で、守口市にいるということでした。
いよいよ学校へ−そして藤井寺市の住民に
 4月1日に辞令交付式がありました。午前中に、2ヵ月近く前に来た南河内地方事務所で大阪府教委としての辞令交付式があり、午後に
は藤井寺市役所
(旧)で藤井寺市教委の交付式がありました。藤井寺市については、葛井寺と道明寺ぐらいしか予備知識のなかった私は、地
方事務所で藤井寺市役所と道明寺小学校の存在地を教えてもらいました。「土師ノ里
(はじのさと)」の駅名もその時に初めて知りました。
 市役所での交付式を終え、他の数人の新転任者と共に学校へ向かいました。
この年の新卒新任者は私以外に3人いました。学校では、午前中に入学式を済
ませた先生方が、私たちの赴任を待っていてくださいました。初めてお会いす
る校長には、「市教委から依頼されていた住まいはA先生にお世話してもらっ
ているので、後で教えてもらいなさい。」と説明され、夕方さっそく連れて行
ってもらいました。聞けば、その住居というのは、A先生が入居しているアパ
ートの一室で、ちょうど最近空室になった部屋だそうです。
 電車で一駅、藤井寺駅で降りて歩き出すと、なんと、葛井寺の境内を進んで
行くことに…。驚きました。南大門を出てすぐの場所に、そのアパートは在り
ました。まさか自分が葛井寺のすぐそばに住むことになろうとは、3年前に初
めて葛井寺を訪れた時には思いもしなかったことでした。以来、私は毎朝夕、
葛井寺の境内を通り抜けて通勤する人になったのでした。かつて見た「
境内は
もっばら通勤・通学・買物通いの近道として通りぬけの人たえず
」という光景
の中に、今まさに自分が存在していることに、何とも言えぬ不思議な縁を感じ
ずにはおられませんでした。後年、アパートは解体されて姿を消しました。
  私が通勤で通り抜けていた頃の葛井寺境内
   私が通勤で通り抜けていた頃の葛井寺境内(南より)
                   1972(昭和47)年8月
葛井寺南大門前に立つ江戸時代の道標  こうして、私は大阪の地で教師となり、葛井寺のすぐそばに住む藤井寺市民の一人となりました。この後、
私は学校での教育活動、とりわけ社会科研究の活動を通して、藤井寺市の地理や歴史についての調査や資料収
集などに傾注していくことになるのでした。藤井寺市民でいたのは6年間だけでしたが、他市に
引っ越しても、
私が最も関心を持って調査・研究をしてきたのは、やはり藤井寺市のことでした。
結び−やっぱり藤井寺が好きで…
 新任教師として赴任してから退職するまで、私が勤務した学校現場は藤井寺市だけでした。途中、他市への
転勤を勧めてくださる方もありましたが、それも結局は実現することはなく、藤井寺ひと筋の教師生活となり
ました。これも縁ということでしょうか。退職する時に私の胸中に浮かんできた気持ちは
、「やっぱり自分は、
藤井寺が好きだったんだ。」というものでした。振り返って思えば、新聞記事で葛井寺を知ってから、行って
みたいと思って訪れ、やがてこの地で働くことになり、そのすぐそばに住むようになり…という流れが、何か
運命的なものを感じさせます。
 現在、自宅の自室を埋め尽くす膨大な資料や写真と格闘しながら、「藤井寺」についてのWebサイト作成
にエネルギーを注いでいる自分の姿に、ささやかな嬉しさを感じている今日この頃です。
葛井寺南大門前に立つ江戸時代の道標 左 道明寺 たいま ほうりゅうじ なら』の文字がみごと     1972(昭和47)年5月
 トラックにでもぶつけられたのか、大きな欠けがあり傾いていた。この道標を毎日見ながら通勤していた。現在は真っ直ぐに建て直されている。 

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