小さい兄弟たちは、自分の手で働いて暮らします。祈りの人であることを熱烈に望むことは、必ずしも、人々から離れて暮らすことを意味しません。かえって、自分たちの周りの人々の労苦に裏打ちされた祈りをしようとしています。
キリスト教、イスラム教、仏教、その他の宗教や思想、環境は国によって違いますが、他人の心のひずみや社会のひずみの犠牲となり、それに押さえつけられている人々―そういう人々にひかれ、向かっていく心が、小さい兄弟たちの心です。
友達を求めている人がいるところはどこでも、小さい兄弟たちの行きたいところです。
イエスのメッセージを伝えるにあたって、小さい兄弟たちは言葉よりもまず、生活と友情を通してそれを説こうと努めます。イエスを人々に知らせるには、できるかぎりイエスご自身の救いの御業に倣って、そのふるまい、その手振りを繰り返すことが大切だと、思っています。これは、布教の手段の一つだというよりは、「愛に生きる」ことなのです。
イエスの身分は決して高くはなく、養父ヨセフと共に大工の仕事をなさったようです。
「罪のほかは全てにおいて、私たちと同じように生活し、悲しむ人には喜び、とらわれ人には自由、貧しい人には救いの福音を告げました。」(ミサ第四奉献文)
イエスは全てにおいて、死をもってさえ、私たちの兄弟となってくださいました。そうです、私たちは彼の兄弟です。これが小さい兄弟たちにとって最も大切なところです。イエスに愛されているということを深く悟れば、言葉では言い尽くせないほどの喜びと信頼がたえまなく湧き出てきます。そして、今も生きておられるイエスに全てをゆだね、いつも安心して生きていくのです。
イエスのこの言葉は、シャールの人生に最も深い影響を与えた言葉に違いありません。イエスのこの言葉を聞いて、多くの聖人がいろいろな分野で素晴らしい仕事をしました。シャールもこの言葉を自分なりに理解して、ひと味ちがった意味に受けとめました。「イエスは本当にあらゆる人の中にいらっしゃる」と。そうなると、御聖体の前にひざまずき、主イエスに話しかけている時と同じまなざし、同じ友情をもって、毎日出会う人々と交わりたいという望みが出てきました。そして、これが彼のプログラムの全てになっていったのです。一人残らず、どんな人とも、真の兄弟になりたい、シャールにとってそれはイエスの兄弟になることと同じなのです。
それでは、私たちも、小さい兄弟たちの生活を始めてみましょう。まず、人々の兄弟になろうとするには、2,3人のグループから始めなければなりません。お互いに愛し合い、血のつながった兄弟よりも仲良く、そして、イエスとその福音に忠実に従うという目標のために、生涯助け合っていく覚悟が必要です。
唯一の模範はナザレトのイエスの姿です。彼がなさったことを少しでもまねてみたい。イエスは何年もの間、労働し、ひまを見つけては夜遅くまで長い祈りをなさいました。
パレスチナの路上で神の国のことを詳しく語り、最後に、全ての人が救われてそのみ国に入るように、十字架上でご自分の命をささげました。これらのこと、ひとつひとつが手本になります。ナザレトのイエスが歩んだベトレヘムから十字架までの道を、自分も歩むことによって、小さい兄弟はどう生きるべきかを体得しようとしています。
イエスは復活して御父の右に座し、そして、ご自分の名によって集まる2、3人の真ん中にいてくださるということは確かなことです。もしそうでなければ、兄弟たちは不幸にも自分たちが、どうしてこういう生活をするのか分からなくなってしまいます。確かにイエスは全ての兄弟の家にいらっしゃる。実際、兄弟の家は住まい自体は狭くても、祈りとミサのために小さな聖堂を造ります。そこで毎朝、仕事に出かける前に祈り、毎晩、仕事から帰ってくるとまた祈ります。また、ご聖体の前でイエスと語り合う時間を大切にしたいと思っています。イエスがなさったように、兄弟たちは時々人里離れたところへ黙想するために出かけます。イエスのためにだけ時間を使えるような場所へと行くのです。
ふだん兄弟たちにはあまりひまがありません。兄弟や友達も多くなり、家族は大きくふくらむからです。毎日の生活の中には、全くうまく行かず、ついていない日もあります。兄弟たちは決して他の人より優れた人間ではないし、ただがんばる以外に方法はない、という時もあります。そんな時のためでしょうか、シャールも一人一人の兄弟のために祈っています。