観察の対象  

独我論的体験」 でも述べましたが、私たちが観察の対象を認識するするためには、その対象を認識するための時間が必要です。私たちは感覚器官によって観察の対象を認識しています。観察の対象を感覚してから認識に至るまで、少なくとも 0.3 秒程度が私たちの感覚器官には必要だといわれています。つまり、認識された現実とは、私たちにとっては、常に 0.3 秒の過去ということになります。

アートマンである「我」は、観察の主体であり、観察の主体は常に現在にいて、現在から観察しています。観察された世界は、0.3 秒の過去ですから、アートマンである「我」と観察の対象は、別々の時間帯に属していることになります。

過去は過ぎ去った時間であり、実在ではありません。心の中に記憶としてあるだけで、それは虚構の世界です。アートマンである「我」は、現在という実際に存在する時間に、実在として存在しているはずです。

初期仏典で、観察の対象になるものは、すべて「非我」だと強調されているのは、「我」こそが実際に存在する実在であって、観察の対象は、すべて、心の中にしか存在しない虚構であり、そのようなものは「我」ではあり得ないということでしょう。



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