独我論的体験  

独我論的体験では、この世には自分しかいません。他者は存在していても、その存在が確信できません。他人や世の中という目の前の現実が、自分の心の中にしか存在しないのです。

街には大勢の人がいるのに、自分しかいないと感じ、街を歩く人は自分の心が生み出していると思うのは、通常の感覚ではない感覚で世界を認識しているからではないかと思われます。

私たちは感覚器官によって世界を認識していますが、認識するするためには、認識するための時間が必要です。観察の対象を感覚してから、認識に至るまで、少なくとも 0.3 秒が必要だといわれています。つまり、認識された現実とは、私たちにとっては、常に 0.3 秒の過去なのです。

認識する主体である「私」は、現在の時間にいます。「私」以外のこの世のすべては、自分の身体や他者を含めて、すべて 0.3 秒の過去です。現在には「私」しかいないのです。現在は現在としては認識できません。なぜなら、認識するためには時間が必要で、時間は現在を過去にしてしまうからです。認識されたものは、すべて、過去なのです。

現在の「私」も認識できません。認識行為をして認識したときには、その「私」は 0.3 秒の過去の「私」です。身体や心など、「私」とされる認識された「私」は、現在の「私」ではなく、過去の「私」なのです。

「私」が認識した他人や世の中は、「私」の感覚器官によって認識されたものなので、「私」の心の中に存在するものです。 他者やこの世は、観察の対象です。それらは、「私」が観察することで存在が確認できています。存在を確認されたそれらは 0.3 秒の過去に、現在の時間にいる「私」とは時を別にして、「私」の心の中に存在しています。

このように考えると「独我論的体験」をしている人たちとは、異常なまでに正常に、この世の現象を認識している人たちだといえるのではないでしょうか。

「独我論的体験」が悟りだとは思いませんが、「現在」という地点こそが、「悟り」ではないかという気がします。



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