永久不変の実在  

実在とは、始まりがなく、終わりがなく、変化することもなく、永久不変です。変化しない不生不滅の実在とは何か、と考えてみると、空間、しか思いつきません。空間は、日常生活では、空気のようなもので、存在が確認できません。存在を確認するためには、確認するものが必要です。

たとえば、コップです。私たちは、コップをコップとして利用していますが、実際に利用しているのは空間です。その空間を利用するために、コップが必要なのです。空間は実在ですが、コップは、単なる手段に過ぎません。空間を確認し、利用するためにあるだけです。

建物にしてもそうです。居住空間は、壁や屋根があって生まれます。実際は、空間を利用しているのに、私たちは、壁や屋根や外見など、建物を利用していると考えています。壁や屋根や外見は、目に見えるものとしては存在していますが、見た目だけで、実際には利用していません。利用しているのは、実在である居住空間です。壁や屋根や外見は、実在を確認し、利用するための、単なる手段です。

私たちは身体と心を持ってこの世に存在していますが、コップと同じように、身体と心は実在ではありません。一時的に存在しているだけで、いつか、必ず消え去ります。

コップという見えるものによって、空間という実在が確認できて、利用できていますが、コップが確認させてくれたように、身体と心が確認させてくれている空間とは、何なのでしょうか。コップが生む空間が、飲み物を注ぐのに利用されているように、身体と心が確認させてくれているその空間は、どのように利用されているのでしょうか。

身体や心によって確認されている空間とは、この世ではないでしょうか。この世は、身体や心があるからこそ、存在を確認できているのではないでしょうか。この世という空間を確認し、その空間を利用する、つまり、そこに生きるために、身体や心があるのではないかと思うのです。私たちがこの世に生まれるのは、そうすると、この世を存在させて、そこに生きるためだといえるはずです。

生きるとは 、身体や心で存在を確認した、この世という空間を利用することでしょう。つまり、「活動」ということになるはずです。コップが空間という確認できない実在を確認し、利用するために存在しているように、「活動」とは、この世を確認し、その意味を見出すためにあるのではないかと思うのです。この世に生きる意味とは、肉体の限界を追求することや、美を探求することや、未知を探索するや、何かを創造することなど、人によってまちまちでしょう。心しなければいけないのは、自覚的に生きていれば、誰も知らずとも、誰もがこの世に生きる意味を見出しているということです。そう思えないのは、社会的な価値観に囚われて、自分が見出しているこの世の意味に優劣をつけているからでしょう。何をしているかではなく、どのようにしているか、これこそが大切なのではないでしょうか。

この世という空間は実在ですが、身体や心は、一時的に存在しているだけです。この世の存在を確認するための手段に過ぎません。私たちは、日常生活では、自分とは身体や心だと思っていますが、身体や心は実在の確認と利用のための道具であって、自分ではないのです。実在であるはずの私たちの本質とは、この世という空間なのです。

コップが割れると空間が消えるように、身体と心が消えると、身体と心が生み出していたこの世も、消えるはずです。あとに残るのは、実在である空間でしょう。それこそが『唯我独尊』の「我」でしょう。それこそが、私たちの本質でしょう。ただ、私たちにはそれが確認ができないだけです。確認できないその本質を確認するために、私たちは、身体と心を持ってこの世に生まれるのです。

身体や心は、あくまでも、コップと同じように、私たちの本質を確認するための道具でしかないのですから、身体や心の存続に執着せずに、それらは何のための道具なのか、それを知ることが大切なのではないかと思うのです。

空間は、広大で無限です。すべてを覆うとともに、すべてに浸透しています。実在である空間は、宇宙に満ちていて、すべての人に浸透していますが、私たちは厚い煩悩に覆われていて、そのことをを理解できないのでしょう。自身の本質を、知らずにいるのです。

身体や心が、道具に過ぎないとは、私たちは思っていません。厚い煩悩に覆われているために、身体や心こそが自分だと思っています。実在というこれ以上ないほど大切なものに気づかずに、あまり大切ではないものに拘っているのが、私たちの日常のようです。だから、生きることが「苦」になっています。身体や心が自分だと思う錯覚から、執着心が生まれます。執着心は煩悩を生みます。煩悩は「苦」です。

身体や心で確認できる空間が自分の本質であるなら、この世は、自分です。自分の中に、この世という世界が存在していることになります。身体や心が自分だと思っている私たちは、この世という世界があって、その中に自分が存在していると、何の疑問もなく思っていますが、実際はその逆で、世界が自分の中に存在しているのです。これは「独我論的体験」そのものです。



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