生きるとは  

生きるとは何かと問わわれて、きちんと答えられる人は、あまりいないでしょう。歴史に名を残した、偉大な小説家も芸術家も哲学者も、ほとんど、生きる意味を見出せていません。生きる意味も、生きる目的も、そんなものはないと切り捨てる人もいれば、生まれたから生きなければいけないのだと言う人もいます。そうなのかもしれませんが、それだけでは、先に進めません。

生きるとは、どのように生きるのか、ということでしょう。どのように生きるのか、それは生きることに面と向かうことなのでしょうが、生きる意味や生きる目的、どうして自分はここにこのようにあるのか、簡単には分からないにしても、ある程度は分かってないと、なかなかできません。

ブッダは有(存在)について、考えたり論じたりすることを禁じたようです。何があるかという実体の有無によっては、人生の問題は解決できないということのようです。矢を射られて苦しんでいる人を前にして、その矢についてあれこれ考えたり論じたりしても、問題は解決しないということでしょう。

仏教で問題とすべきは、生滅変化している私たちの周囲の現象だそうです。その現象の「実体は何か」ではなく、その現象が「いかにあるか」(状態)、それに対してわれわれは「いかにあるべきか」(態度)ということが、唯一の問題ということです。大切なのは What ではなく How ということでしょう。

どんなに恵まれた境遇にいても、本人が不幸だと思えば不幸です。どんなに辛い人生でも、本人が幸福だと思えば幸福です。幸福や不幸というのは、状況に対する私たちの態度のことをいうようです。私たちが苦しむのは、思い込みや想像のせいに過ぎないと知れば、生きることは喜びになるはずです。

「いかにあるか」(状態)と「いかにあるべきか」(態度)を説いたブッダの教えとは、「人生は苦(dukkha)なのだから(状態)、あまり気にするな(態度)」ということでしょう。状態は簡単には変えられませんが、態度は変えられます。

生きるとは何かと問われれば、私には、はっきりしています。真理を見出すことです。真理を見出すために、私たちは生きるのです。その真理とは、真の自分ということです。真の自分とは何か、それを見出すことが、生きることです。どのように見出すのか、それは起こっている状態に、どのような態度で応じているかを知ることです。その態度を知ることで、真の自分へと導かれていくのです。生きるとは、そういうことではないかと思うのです。

何のために生きるのか、生きる意味が見出せないのは、社会的に評価されるものにしか価値を見出せないからでしょう。真夏に木陰で食べるアイスクリームが、生きる意味にならないのは、そういうことでしょう。社会的評価がなくとも、愛には誰もが生きる意味を見出せています。そこには、きっと、真の自分がいるからではないかと思うのです。

社会的には、何の価値がなくても、自分が歩んでいる道こそが、真理へ至る道です。真理という目的地はひとつでも、そこに至る道は、人によって違いますから、人の数ほどあるはずです。真理へ至る道とは、何をしているかではなく、どのようにしているかでしょう。どのような態度で、どのように生きているか、 What ではなく How です。ふさわしい態度で日々を生きていれば、到達できるはずです。

生きる意味とは何か、生きて体験することのすべてが、生きる意味でしょう。それは一人ひとり違うので、ひとつの答えとしては、出せないのです。自分が自分で見出すしかないのです。生きる意味を見出すところに、真の自分がいるのではないかと思っています。




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