ヴィパッサナー瞑想で心が浄化されるのはなぜか [ English ] |
1.ヴィパッサナー瞑想は心の条件づけからの解放 ヴィパッサナー瞑想による心の浄化とは、ある種の消去学習ではないかと思われます。生きている間、人は生存のために、意識的にしろ、無意識的にしろ、さまざまに条件づけられていきます。これらの条件づけは、記憶として脳に記銘(記憶)され、保持されます。脳に記銘され、保持されたこれらの条件づけを感覚レベルで消去学習するのが、ヴィパッサナー瞑想なのではないかと思われます。 ここでいう消去学習とは、記憶を消し去る(忘れる)ことではありません。心理学の用語で表現すると、条件刺激と無条件刺激との間には関係がないことを新たに学習することです。条件刺激とは、パブロフの犬の実験でのベルの音です。無条件刺激とは、同実験での食べ物のことです。ベルの音と食べ物の間には関係がないことを学習すれば、唾液という反応は起きません。消去学習とは、つまり、学習したことを消去するのではなく、新たな学習をすることで、前の学習をやり直すことです。この消去学習で消去されるのは、記憶ではなく条件づけです。 2.心の浄化とは条件づけられた恐怖心を克服すること ヴィパッサナー瞑想によって心の汚濁が浄化されるのはなぜかを考えるにあたって、まず、心の汚濁が浄化されるとはどういうことなのか、浄化される心の汚濁とは具体的に何なのかを考えてみました。ここで問題になっている汚濁とは、怒り、憎しみ、恨み、不安、嫌悪感などの否定的な感情だと思われます。これらを浄化するとは、これらの感情を引き起こす原因となっている記憶を消し去ることではなく、これらの感情が起きても感情的な反応をせず、平静でいられることだと思われます。 これらの否定的な感情の根本にあるのは、恐怖心だと考えられます。恐怖心が怒りや憎しみなどの否定的な感情を引き起こしていると考えられますが、そこにあるのは無意識の自己防衛ではないでしょうか。究極的には死の恐怖が大きく関係しているのではないかと想像されます。ですから、心の汚濁とは恐怖心のことであり、心の浄化とはその恐怖心を克服することだと考えられます。 3.記憶の不安定化を利用した恐怖症の治療 体験によって脳に記銘・保持され、固定化した記憶は、想起(思い出すこと)によって不安定化します。新たな経験と相互作用するためには、不安定化が必要なようです。固定化したままなら、記憶のアップデートはできないということです。また、その記憶を強固にするためにも、不安定化が必要なようです。このようにアップデートされ、強固になった記憶は、その後、脳に再固定化されます。この想起と再固定化というプロセスは、脳で絶え間なく日常的に行われています。 PTSD(心的外傷後ストレス障害)や病的な恐怖症の治療に、想起によるこの不安定化と再固定化が応用されています。患者に、まず、安全な環境でトラウマ的体験を再び体験してもらいます。トラウマ的体験を体験した時、患者の脳の神経細胞には、大量の神経伝達物質が放出されています。脳神経細胞間の情報伝達の要であるシナプスと呼ばれる部位の間隙に、情報を伝える神経伝達物質が、大量に放出されているということです。 トラウマ的体験は、恐怖という感情を伴っています。シナプス間に放出された大量の神経伝達物質が、恐怖という感情を引き起こしているからです。大量の神経伝達物質が脳神経細胞間の接続部であるシナプス間に放出されているこの時、この恐怖を引き起こす神経伝達物質(ノルアドレナリン)の分泌を阻害するプロプラノロール(アドレナリン作動性効果遮断薬)を投与します。これにより、神経伝達物質(ノルアドレナリン)はシナプス間で阻害され、情報が伝わらなくなり、神経細胞のネットワークから遮断されます。そして、恐怖という感情は消えます。患者は恐怖体験を忘れるのではなく、恐怖体験を想起しても、感情的に反応しなくなり、恐怖を感じなくなるということです。この治療は恐怖体験を追体験し、神経伝達物質が脳神経細胞のネットワークに大量に放出されていないと効果がないようです。 4.ヴィパッサナー瞑想は恐怖症の治療と同じメカニズム ヴィパッサナー瞑想は感覚を感じ、その感覚を観察することですが、感覚が生じている時には、神経伝達物質がシナプス間に大量に放出されていると考えられます。感覚を感じた時、その感覚に気づくことが、大量に放出されている神経伝達物質をブロックすることになるのではないかと思われます。気づきがプロプラノロール(アドレナリン作動性効果遮断薬)の役割をし、上述の恐怖症の治療と全く同じ状況が、ヴィパッサナー瞑想によって再現されているのではないかと推測されます。 5.気づいている時には感情的な反応はない 身体に感じた感覚に気づくという行為が、どうしてシナプス間に放出された神経伝達物質を脳神経細胞のネットワークから遮断することになるのか、これについて、気づきとはどういうことなのかを考えてみました。気づきとは、怒りや憎しみや不安などの感情に反応しないことだと思われます。怒りや憎しみや不安などの激しい感情に襲われた時、自分がどういう状態にあるのかを冷静に見つめれば、その状態に感情的に巻き込まれることはありません。気づきは平静さをもたらし、感情を抑制してくれます。これは気づくことで、怒りや憎しみや不安などの激しい感情を発火させていた神経伝達物質が、シナプス間でブロックされるからではないかと推測されます。つまり、気づいている時には、シナプス間に大量に分泌されたノルアドレナリンなどの神経伝達物質が実際に遮断され、神経伝達物質の流れがそこでブロックされているのではないかということです。その結果、怒りや憎しみや不安などの感情が抑制されているのではないかと思われます。もしかしたら、気づいている時には、プロプラノロール(アドレナリン作動性効果遮断薬)のような脳内物質が、実際に分泌されているのかもしれません。 6.感覚の質だけではなく気づきという観察の質も大切 そうすると、ヴィパッサナー瞑想では、神経伝達物質が大量に放出されている質のよい感覚も大切ですが、観察の質も大切になるのではないかと思われます。観察が単に感じるだけで終わるのではなく、気づきとなることが重要だということです。観察が気づきとなるとは、客観的に観察するということです。神経伝達物質が大量に放出されている感覚の出現がなければ、いくら質のよい気づきをもって観察しても、何の効果も得られませんが、平静な心の状態での気づき、つまり、客観的な観察がなければ、感覚に巻き込まれるだけです。こうなるとヴィパッサナー瞑想は、心地よい感覚を喜び、心地悪い感覚を嫌悪するという単なる感覚の反応ゲームになってしまいます。それは我々の日常の振る舞いと何ら変わりません。これでは瞑想をする意味は薄れてしまいます。 7.アーナーパーナは気づきの訓練 ヴィパッサナー瞑想の前に実践するアーナーパーナは、深い瞑想に入るための集中力を養うと共に、気づきの訓練もしています。呼吸に気づくことで気づきが養われているということです。気づきが十分に養われていないのにヴィパッサナー瞑想を始めると、シナプス間に大量に放出された神経伝達物質をブロックできずに、敏感な人は気分を悪くする恐れがあります。心身の健康を損なっている人が、ヴィパッサナー瞑想をする場合、気づきの訓練が十分でなければ、神経伝達物質が神経細胞のネットワークから遮断されないために、大量の神経伝達物質によって生じた感覚に巻き込まれて症状を更に悪化させ、危険な状態になることもあり得ます。これは健康な人にも、ある程度、当てはまるのではないでしょうか。 通常は、気づきが十分にできていない人は、神経伝達物質もあまり放出されず、感覚の嵐に見舞われることはありませんが、まれに気づきが十分に発達しないうちに、感覚だけが激しく出現する人がいるかもしれません。そのような人にとっては、ヴィパッサナーは有害な瞑想と思われることになってしまいます。これはとても残念な誤解です。 8.渇望が生じる場所と渇望が消滅する場所 サティパッターナ・スッタによると、渇望が生じる場所と、渇望が消滅する場所は同じです。渇望は、時に快となり、時に苦となりますが、それらが生まれ消滅する場所は、脳神経細胞のシナプス間ではないかと思われます。渇望が生じている時には、シナプス間に大量の神経伝達物質が放出されていて、それは時に快となり、時に苦となり、気づきをもって観察すれば、それらは消滅するということです。 9.渇望とは自分に反応すること 渇望とはシナプス間に神経伝達物質が大量に放出されている現象に過ぎません。外からの刺激によって生じたシナプス間のこの現象が、苦や快という反応になっているだけで、これらの感覚は本質的には同じであり、必ず消え去ります。誰もが自分は外からの刺激に反応していると思っていますが、実際は自分の中のこの現象に反応しているのです。外からの刺激が同じなら、反応も同じになるはずですが、反応が人によってまちまちなのは、その人が外からの刺激ではなく、自分に反応しているからでしょう。さらにいうと、外からの刺激よって生じたシナプス間の変化に、それぞれがそれぞれに反応しているということです。つまり、人は外からの刺激に反応して行動しているのではなく、自分に反応して行動しているということです。どのように反応するかは、その人がどのように条件づけられているかで決まります。 10.自分に反応しないことが条件づけられていない自分を見い出す 人が外の環境に反応して行動しているのではなく、自分に反応して行動しているのなら、人生を変えようとして、仕事や住む場所など、生活環境をいくら変えても、変わるのは生活環境だけということになります。条件づけられたそれまでの自分は、どこで何をしていようとも、いつもそこにいるからです。変化を求めて旅をしても、一時の気分転換になるだけでしょう。気分転換や環境の変化は、時には必要で大切ですが、それによって人生が変わることはないのです。 生活に不満があり、自分は不幸だと感じている人の多くは、世の中が悪いと思いがちですが、我が身が不幸なのは、世の中のせいではなく、外からの刺激によって自分の中に生じた感覚に、そのように反応しているからです。社会生活では、腹の立つことが多くありますが、多くの人が腹の立つ原因を、誰か他の人のせいにしています。この場合も、腹が立つのは、目の前にいる人のせいではなく、自分の中に生じた感覚に、そのように反応しているからです。自分の中に生じたそれらの感覚が、怒りや不幸という反応を引き起こしているのです。そのように反応しなければ、怒りや不幸は起きないのです。 私たちが不幸や怒りを感じるのは、現実は変えられると考えているからでしょう。変えられるはずの現実が、何も変わらずに目の前にある、だから、私たちは不幸や怒りを感じるのでしょう。でも、現実は簡単には変えられないのです。変えられるのは、現実に対する自分自身の態度だけです。 では、条件づけられた自分のそのような反応をなくすためには、どうすればよいのでしょうか。感覚を気づきをもって観察する、ということになるのではないでしょうか。原因の究明は、問題解決の基本です。不幸や怒りの原因は、世の中や誰かにあるのではなく、自分の中に生じた感覚に、そのように反応する自分にあります。もし、これらの感覚に反応しなければ、目の前で何が起きていようと、不幸や怒りという現象は起きません。条件づけられていない自分には、不幸や怒りはないのです。 11.何かを成し遂げる人生は渇望の人生 苦の原因は渇望です。渇望とは、欠落感による現実の否定です。今ある状況に満足できず、現状をありのままに受け入れることができないために、現実とは別の現実を求める現象です。現実を受け入れることができないのですから、当然、直面している現実との間には葛藤が生まれます。葛藤は苦を生みます。苦の原因が渇望というのはそういうことです。 渇望は希望や大志、向上心や将来の夢などという言葉で表現されることもありますが、これらも現実の否定であり、現実とは別の現実を求めることに変わりありません。そのような言葉で表現すると、渇望がいつかは充たされるという期待が持てるため、苦が見えないだけです。悟りを志して坐っているなら、それは渇望です。悟っていない現実が否定されています。何かを成し遂げようとする人生は、すべて渇望の人生です。そこでは成し遂げられていない人生が否定されています。 人生とは何かを成し遂げるためにあり、何かを成し遂げた人生こそがよい人生だと思われていますが、何かを成し遂げるためにはやる気が不可欠です。モチベーションと表現されるこのやる気は、渇望そのものです。頑張れという激励の言葉は、やる気をもっと持てばなんとかなるという励ましで、渇望をもっと大きく抱けと言っているようなものです。何かを成し遂げたいが、何をしたらいいのかが見つからない人の苦悩は、底知れません。何かを成し遂げた人にしても、成し遂げることがなくなれば、底知れない苦悩が待っています。よりよい人生のために必要なやる気も、行き場をなくせば、底知れない苦悩になります。やる気の本質が渇望だからこその苦悩です。 苦悩とは起きている現実と、起きてほしい現実との隔たりですから、渇望が大きければ大きいほど、当然、苦悩は深まります。 何かを成し遂げようという生の情熱は、よりよい人生をもたらすかもしれませんが、苦ももたらします。 よりよい人生という生き方をするかぎり、渇望が必要になります。渇望を必要とするかぎり、苦からは逃れられません。生きることは苦という苦の真理は、こういうことなのでしょう。 ただ、それも生きることが何かを成し遂げることになっているからで、生きることが生きることそのものであれば、生きることは苦ではないはずです。生きることは喜びです。「わたしの人生」は苦だとしても、「人生」は苦ではないのです。何かをすることもなく、ただあることのすばらしさを感じることができれば、生きることには喜びしかないような気がします。 12.苦と快は同じ感覚 苦の原因が渇望なら、渇望を消滅させれば苦は消滅するはずです。ただ、渇望を消滅させるのは容易ではありません。渇望を簡単に消滅できないのは、渇望することが生きることになっているからでしょう。人生で何かを成し遂げるためには渇望が必要なのです。では、どうして人は人生で何かを成し遂げようとするのでしょうか。 何かを成し遂げることが、生きている自分を表現する唯一の手段だからでしょう。そこには生の実感があり、快があります。 その快のためとなると、どのような試練も、快になるのです。成し遂げようとすることが困難であればあるほど、その快は大きくなります。登るのがより困難な山へとひたすら登ろうとするのは、しかも、無酸素で、冬季に、単独で登ろうとするのは、そういうことだと思います。 山に登り、危険な壁に張り付いている時に感じる生の実感は、日常では味わえないのです。 より大きな困難への挑戦には快だけがあり、苦は見えなくなっています。実際には苦であっても、そこでの苦は快になりますから、当人にすれば快なのです。 より大きな困難への挑戦にかぎらず、あらゆる活動には、意識的に求めていないにしても、生の実感があり、快があるのではないでしょうか。 誰もが、日々、忙しく動き回るのは、そういうことでしょう。 ほとんどの人が、仕事をすることが生きることだと、漠然とにしても、思っています。仕事とは、生活の糧を得るためであり、社会貢献のためでもあるのでしょうが、仕事という活動そのものが、生きている証しであり、快を生むからでしょう。 仕事から離れたレジャーやイベントは、快だけを求めています。もともと、イベントやレジャーというのは、そのためにあります。文明とは、そもそも、苦をなくして快を増やすことですから、人々が 文明生活の暮らしで、 快だけを求めて生きるのは当たり前なのですが、苦をなくして快だけを得ようとするのは不可能です。苦や快という感覚は、神経伝達物質によって生まれるもので、本質的には同じものですから、快を増大させることは、結果的に、苦を増大させることになります。 苦が増大した時には、これを消滅させたいという渇望が生まれ、快が増大した時には、これをさらに増やしたいという渇望が生まれます。渇望は充たされることがなく、常に不満という苦を伴います。渇望を充たそうとすると、涙で支払わせるのが人生です。快が苦になった苦は、苦以上の苦です。苦が快になった快は、快以上の快ですが、この快もいつかは必ず苦になります。 快と苦が同じ感覚に過ぎないことは、お金を払ってまで鞭を打ってもらいたがる不思議な人々の存在を思い浮かべれば、分かりやすいかもしれません。わざわざ悲しい映画や芝居を見て苦痛に浸るのもこういうことでしょう。苦行者にしても、修行が辛ければ辛いほどありがたがるようなところがあります。このような人たちにとっては、苦というのは快のことなのでしょう。 文明は快をもたらしてくれますが、同時に苦ももたらしています。快を増やすことは、苦を増やすことですから、文明がどれほど高度に発達しようとも、人を苦悩から救うことはできません。苦悩から救うどころか、今や文明こそが苦の原因になっている気がします。現代社会の精神的な混迷は、文明が高度に発達し、不必要に快が増え過ぎたからではないでしょうか。 人間は何にでも飽きます。 天国に飽きたら地獄に憧れるのが人というものです。日常生活の中では、苦と快が、シーソーのように、上がったり下がったりしていますが、苦を快として求める人は、快に飽きた、ある意味、文明の犠牲者かもしれません。 生きることが苦なのは、 生きているという証し、生の実感を感覚に求めているからでしょう。 感覚を求めて生きるとは、渇望することですから、渇望がなければ成り立たない人生です。それは 「生きることは苦」 の人生です。 苦から解放されるために大切なのは、快を求めて渇望を充たそうとするのではなく、渇望していると気づくことです。気づくことで、渇望は消えます。渇望が消えると、渇望が生み出していた苦も消えます。苦と快は同じ感覚なので、当然、快も消えます。 問題は快を消さずに、苦だけを消そうとすることです。苦と快は同じ感覚ですから、それは不可能なのですが、生きている実感を感覚に求めている私たちには、不可能であってはいけないのでしょう。 苦が消えないのは、快を手放さないからですが、私たちは、みんな、しあわせに騙されているのです。 快にしても、しあわせにしても、外から与えられるものです。外から与えられるものを求めるのは依存です。依存はしばらくは快であっても、必ず苦になります。喜びとは内から湧き上がるものです。 快が消え、苦が消え、そのような囚われから解放されたところに、大いなる喜びがあるのではないでしょうか。内から湧き上がる喜び、自由とは、そういう状態のことではないかと思います。 13.「感じる」と「気づく」を混同しないこと ヴィパッサナー瞑想では、感覚の質だけではなく観察の質も大切だと述べましたが、観察の質で注意しなければいけないのは、感覚を観察する時、「感じる」と「気づく」を混同しないことです。「感じる」の場合は、シナプス間に放出された神経伝達物質の流れは促進されています。「気づく」の場合は、シナプス間に放出された神経伝達物質の流れは阻害されています。「気づく」を客観的な観察とするなら、「感じる」は、強いていうと、主観的な観察となるかもしれません。客観的に観察していると思っても、意外と主観的に観察しているものです。 「感じる」を「気づく」と勘違いすれば、神経伝達物質の流れを阻害する気づきがなくなるため、神経伝達物質の流れはシナプス間で阻害されず、促進されるだけです。それは心地よい感覚を喜び、心地悪い感覚を嫌悪する感覚の反応ゲームです。阻害と促進という正反対の現象が、「観察」というひとつの同じ言葉で表現されているために、「感じる」と「気づく」を混同してしまいがちですが、これは見過ごしてはいけない混乱です。自分の感覚を自分が観察しているかぎり、自分からの解放はあり得ないのです。 気づきがなく、感覚を感じるだけで終わるなら、何度も述べますが、それは心地よい感覚を求め、心地悪い感覚を嫌悪する感覚の反応ゲームです。感覚の反応ゲームは、ヴィパッサナー瞑想が目指す心の浄化とは全く逆の心を高ぶらせ、汚濁を増やすことになります。なぜなら、それは心地よい感覚を求める薬物やアルコール依存と変わらないからです。 バーカウンターに座ってカクテルを楽しんでいる人と、瞑想ホールに坐って快の感覚を楽しんでいる人は、見た目は違っていても、同じことをしているのです。 神経伝達物質のレベルでは、全く同じという気がします。 日常生活の現実とは、つきつめれば感覚です。感覚は現象に過ぎないと理解せず、「私の感覚」と捉えるかぎり、その感覚は必ず苦になります。快の感覚だけを求める日常生活のレベルで生きることは、生きることは苦の人生です。瞑想者が心地よい感覚を喜び、心地悪い感覚を嫌悪するなら、それは日常生活です。瞑想者の現実とは、感覚ではなく感覚の意識でなければいけないと思っています。感覚は感覚という現象に過ぎないのです。 大切なのは、心地よい感覚にしても、心地悪い感覚にしても、感覚を感じるだけの日常生活で終えるのではなく、感覚を意識する 「気づき」 を持ってその感覚を観察することではないでしょうか。つまり、感じていると気づくことです。 14.感覚と知覚を見極める ちなみに、ここでは心地よい感覚、心地悪い感覚、と表現していますが、これは正確にいうと、「感覚」 ではなく 「知覚」 だと思われます。感覚とは無常であり、無常とは常に新しいものであり、未知なるものです。未知のものに対しては、心地よい、心地悪いの判断はできません。よい、悪いを判断する記憶のストックがないのですから、どんな判断もできません。 知覚とは記憶の反応です。心地よい、心地悪い、という反応は、過去の記憶によって起こっています。生じた感覚は、知覚による記憶の反応で、心地良くなったり、心地悪くなったりしますが、過去の記憶に基づいて、そのように判断しているわけです。それは自分に反応することです。 実際は 「知覚」 なのに、心地よい 「感覚」、心地悪い 「感覚」 など、「感覚」 と表現するのは、そのように表現するしか 「感覚」 を表現する方法がないからでしょう。未知なるものは、言葉では表現できないのです。 ただ、表現できないからそのように表現しているだけだと知っていなければ、感覚と知覚を取り違えてしまいます。感覚を感覚として捉えることができなければ、無常は体験できません。感覚という未知なる現在の体験が、過去の記憶に結びつけられて、既に体験した過去と同じ体験と認識されてしまうからです。 無常であるはずのこの世を無常と体験できないのは、感覚という新しい体験を、知覚という古い体験で経験しているからでしょう。それは記憶をなぞるメカニカルな生き方です。複雑な日常をこなすには、メカニカルに生きるのも必要ですが、すべてがそうなると閉じ込められたような閉塞感を感じてしまいます。感覚を感覚として捉え、知覚を知覚として捉えて生きることが、智慧へと至る第一歩という気がします。 15.心の浄化の完成 ヴィパッサナー瞑想で、気づきを持って感覚を客観的に観察するとは、それまでの人生を感覚レベルで追体験し、正しているのかもしれません。大胆に推論すれば、もしかしたら、生命誕生から人類までの記憶を感覚レベルで追体験し、正しているのかもしれません。この時、記憶が感覚として想起され、アップデートのために不安定化したその記憶は、気づきによって条件づけから解放されていると推測されます。これまでの人生の生き直しが、あるいは、生命誕生から人類までの過去の生き直しが、感覚レベルで行われているといえるかもしれません。パブロフの犬の実験でのベルの音と食べ物の間には関係がないことを学ぶ消去学習がここにあります。条件づけから解放されたパブロフの犬に、唾液という反応がなくなったように、人にも恐怖という反応が起きなくなります。恐怖心は克服され、心の浄化がなされたことになります。
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